16.12.19

2019年もあと半月

早いもんだね。今年は盛り沢山だった。こんなに中身が詰まっていると思ったのは、いつ以来だっけ? やだなあ過去がみんな疎くなっている。たぶん、長男を産んだ年はすごく詰まっていたんだよね。それまですかすかだったからな。や、待てよ。その前のアメリカ生活も…あれは1/3くらいだな。旅行中は詰まってた。

今年はまあよう文章を書いたわ。一人で遠くへでかけてみたり、いろいろ新しいことをしました。
映画もよく見た。MCUを全部追っかけたの今年だったんだよね。25本くらい詰め込んで見たような。面白かったけど、大変だったな。
それと、ハイローに手を出してしまった。まだ見終わってない。この秋に公開されたHiGH and Low the WORST(通称ザワ)は大変な青春ムービーでとても良かった。高校生は1000円で見られるキャンペーンをしていたので、高校生の子がもしもいたら勧めてた。LDHのことネタにしててごめん。去年の紅白の三代目JSBのパフォーマンスは鳥肌が立ったよ。超良かった。あのとき、もう布石は打たれていたんだな。
読書的には「居るのはつらいよ」最高でした。ちょっと世界の見え方が変わったもんな。変わったというか、ぼんやりと見つめていた方向が明るくなったから、これでよかったんだという安心感。それと、小説は好きに書いていいということ。救われなくてもいいし、カタルシスをありがたがるとか読者の勝手だろ!? 作者も勝手にするわ! くらいの思い切りがでてきた。でも書かれたものは読まれることを求めてしまうということ。自分のために書いたものだと確信さえあったとしても、誰かに受け止めてもらいたいという思いはどこかに秘められている。校正・校閲ルールも出版社によってかなり違うし。なんでもいいんだよ。文字が書かれていれば。

旅行もよくした。佐賀・長崎・大分九重。
島原は特に良かった。火山の成り立ちとか地学的な観点がほんとおもしろい。火山いいよ火山。ただ、島原市の観光はできなかったのが残念だった。それと念願の遠藤周作文学館も行けたし、あのへんの透き通る海水浴場もいくつも巡れたし、楽しかったな、長崎県。

先週、ついにポケモンソードに手を出してしまった。ゲームをまともにやるのはいつ以来だろう。アメリカに持ってったDS Lite、現地でもいくつか北米版のリズムゲームを買ったけど、それほどはまらなかったんだよね。まさかポケモンをここで初めて触ることになろうとは…。鼻歌がジムリーダー戦になってるからもう末期。次男もこないだ歌っていて、こりゃダメだと思ったね。

幼稚園の残り仕事は引き継ぎ資料作成と卒園式に向けての記念品の準備、年長組だけのいイベント、まだ終わらんな…。それにいよいよ引っ越しかもしれないし。来年はきっと落ち着かないから、今年のうちにいろんな事ができてよかった。楽しかったな。
あと、今年中に図書館の本は読み終えたい。

8.12.19

生きるとは哀しい

先日、Twitter上で父親が生前に記していたノートを見つけたというつぶやきを見かけた。認知がだんだん衰えていき、生活でのトラブルに対して妻から受けた注意を記録していくものだった。言われたことは守る、だとか、自分で判断しない、だとか、日付とともに書かれている。ページが進むごとに同じ内容が繰り返しあらわれるようになり、また漢字がかな混じりになり、ついにはひらがなばかりになるのが見てとれた。自分が衰えていくのを認識しているからこその内容だ。勝手な心情を読み取ってはいけないと強く自制しつつも、どれだけもどかしかっただろうと思う。

高3のときに、私は自分の所属していた書道部の恩師を亡くした。高2の冬に恩師に病気が見つかり、即入院となった。公立高校の芸術科目の教員なんて一人しか配置されないものだ。高3の4月には新しい先生が赴任された。書道準備室は教員のオフィスだが、四分の一ほどのスペースを部室に割いてくれていた。いつもどおり訪れた準備室で、新しい先生が桜並木の窓に向かったデスクについているのを見つけた春の初め、この小部屋の空気が変わったと思った。私のほかにも部員はいたし、また恩師を慕って出入りする部外の生徒も数人いたが、それからみな足が遠のいたのをよく覚えている。
恩師の入院先の病院は学校から近かったこともあり、私は何度かお見舞いに寄った。いつも朗らかに迎えてくれて、おなじ病室の方と一緒に病院への愚痴を聞かされたこともある。6月に迎える高3の学校祭では、私は自分の作品は恩師に指示を受けて、恩師の助言のもと手掛けた。藤村の「小諸なる古城のほとり」を書けと言われて、内容もなにも全くわからず、国語科研究室に相談に行った。最初で最後のろうけつ染めだった。
新しく来られた先生は三年生の部員にはほぼノータッチだった。今ならわかる。よくも黙って見守っていてくださったと思う。私はその先生に歩み寄ることができなかった。あきれるほど子どもだった。
なにがきっかけだったか、夏休みに入る頃には先生のお見舞いへは行かなくなった。部長を務めていた同級生もよく通っていたようだが、おそらくしばらく来ないようにとの伝言を受けたのだと思う。もう思い出せないけれど。9月の運動会も終えて受験勉強に取り掛かるには腰が上がらない秋の中頃、恩師は亡くなった。
うちの高校は年に一度文集をつくる。各学級、部活、生徒会や行事の委員会、なにかを書いて表現したい人たちが原稿を寄せた。
この年の巻頭は、恩師を偲ぶのに割かれた。部長が葬儀で述べた生徒代表の弔事の次に、先生からの手紙が載せられた。初めて見る、私達への手紙だった。いつもどおり、朗らかに、ユーモアを交えて書かれている。手を合わせるな、おれは仏じゃない。饅頭は供えるな、自分で食べろ。けれどその末にしたためられた一句には、もう手が震えて満足に字も書けない、という内容を含んでいた。恩師の弱音は、その三十四字にしか見たことがない。
恩師は書道の先生だった。漢字をその意味から再度図像化するという研究をなさっていた。そのうちの一つをお借りして、私は母と子という作品をつくったこともある。恩師にとっての字を書くことの重みは、当時の私には想像しきれなかっただろう。

できたことができなくなる。それがどれだけ恐ろしいことか。生きることは死に向かって進むことと同じだ。必ず通る道だ。死ぬのが怖いと幼少期から抱いていた思いは、おそらくこの経験で再燃したのだと思われる。

さて、今日、年長の子の園の発表会が行われた。カトリック園のため、12月にイエス降誕劇を行うのが習わしだ。下の学年の子は毎年、年長が行う聖劇を見て育つ。いずれ自分もやるものだと、すこしずつ意識に埋め込まれている。
ありがたいことに、次男は先生の覚えめでたく、台詞が多めの役を与えられた。私は係として前日のリハーサルから詰めていたので、当日の流れもわかっていたものの、それでも緊張で胸がつぶれるかと思った。子が何事もなく舞台袖にはけたとき、私は肩の力が抜けて背もたれにかかる体重が増したと感じた。そうして振り返って、ここ数週間の彼の家での気難しさはこの役目のプレッシャーやストレスを子なりに背負っていたせいだったのかもしれないと、ようやく、ほんとうにようやく、思い至った。
この子は年少児から三年間お世話になった。家にいるときにはまったくわからないが、こうして離れて見ると、成長したのだとわかる。できることが増えている。相変わらず人見知りはあり、新しい大人のいる場に打ち解けるのに時間のかかる部分はあるが、家で話す語彙の量、理解、身体の動き、食事の振る舞い、同世代の子たちとの交流、いくらでも挙げられる。三歳から六歳への成長は著しい。このまま大きくなってほしいと、切なる願いが湧いてくる。

死ぬことは怖い。それは変わらないが、おそらくもう自分だけの問題ではない。
今回は次男だったが、長男も毎日九九を唱え、見様見真似で漢字の多い本を読み下そうとし、 休みの日には友達と遊びに一人ででかけていく。彼らの世界はどんどんひらけていく。
そんな子たちを眺め、夫と他愛のない会話を交わし、ときどき遠方から来てくれる母と小旅行などができるようになった今を手放したくない。ネットを徘徊して新しいことを知って、小さな文章をさらしてささやかな交流をして、古い友だちとときどき思い出したように連絡を取り合えるこの心地よい世界が惜しいのだ。
いつかはみな変化し、離れ、すべては無くなってしまう。生きることがそれと裏表であるからこそ、いまに愛着が増すほどに、哀しくてしかたがなくなる。

2.12.19

のびのびにしてたあれこれを連絡した

ようやく幼稚園の方が気持ち的に片付いた。まだ断続的にいろいろあるが、事前に悩んでおかなくてもいいので大丈夫。

小児科で前に在庫切れだと言われたインフル予防接種を改めて予約して、車検前のタイヤ交換も問い合わせて、美容院も確認した。延滞していた本も読み切って返した(香りの文学誌の本は最後まで大変面白かった。最高)。
やればできるじゃんと自画自賛して、やや浮上した。

昨日は九国の三国志展に行けたのもよかった。博物館の展示だから、当然だけど史実に則ったものだ。でもときどき、この伝承はのちの創作だと注釈のついた説明や横山光輝の漫画を併せてのビジュアル解説もあったりして、とても興味深かった。そういえば物品販売には、横光三国志のコマのクッキー型はもうなかった。残念。

22.11.19

あとは残務

今年の役員仕事の一番の山を越えて、常に思考のある一定部分を占めていた重みが消えた。そこには解放感とともに、すこし寂しい気持ちもあり、空いた部分を何で埋めようかとやや手持ち無沙汰感すらある。まだ完全に終わってはいないけど、もうなんか、おまけって感じ。…それでいつまでも引っ張ってしまいそうだな。

いま、「匂いと香りの文学誌」を読んでいる。図書館の専門書新着コーナーになったのをよく狩ってきた私えらい、と自賛しながらページを繰ってる。おもしろい。批評本とか解説とか読むのが好きなのだけど、もとのを知らないと楽しめないのが多い中、これはいいよ。匂いや香りは物語の中ではアクセント的な扱いが多いので抜粋がそこだけで完結するからかもしれない。でも中には、香りによって登場人物の世界認識が解体され、再構築するものもあるので、そういうのは原典にあたりたくなる。

といいつつも、返却期限が迫っているので急がなきゃ。あと十二国記の第二集も待っている。

11.11.19

シングルタスク

別のことを考えていた。
今日は寄り合いがあるので、マキネッタに残ったコーヒーを全て、先日買ったばかりの携帯型サーモマグに注ぐ。
で、そうなんです。あのオーコメはやっぱり見たくてね。どう答えようかな。書き出しは。
湯気のたちはじめたヤカンの火を止めた。マグに継ぎ足してエスプレッソに似た濃度のモカをアメリカンコーヒーに化かす。ああこれ、アメリカーノって名前がちゃんとあったっけ。
それで、そうなのお目当ては例の場面じゃなくて、実は別のところで、あの役者が言及してて。
そうそう今日の寄り合いは早く終わる予定だけど、甘めに作っておこう。血糖値がスパイクするのが心配だけど。
調味料庫に手を伸ばした後にカトラリー引き出しからティースプーン。ジャム瓶に詰め替えてるから掬うのはいつも別調達。この一手間もルーチンになってしまえば特に面倒とも思わない。白い粒子をこんもりと載せて褐色の液体に落としていく。一杯じゃ足りないな、もう一杯…瓶の底にスプーンの硬い音が響く。また足さなきゃ。この塩、まだ残りがあったはず。
塩。
しお。

……あああああああああ!

マグを洗い、マキネッタを分解洗浄してもう一度コーヒーを抽出し、今度は間違いなく取り出す。茶褐色のてんさい糖を。直方体の密閉容器の中に大匙を一つ備えた砂糖を。

ヒューマンエラーを見越した体制のはずなのに、それを乗り越えてくるからエラーなんだな。子供たちが何か間違っても、あんまり怒ってはいけないね。

10.11.19

今年は秋があるね

涼しい風がいつのまにかひんやりし始め、羽織りものの厚みが少しずつ増してきた。
少し前まで黄砂かひどく、咳き込んで眠れなかったり、声が出ずにもどかしい思いをしていたが、それもやっと落ち着いた。
先週は母が来訪していた。いつも私や子の世話をするばかりで、しかも体調を崩して帰る羽目になるという、なんとも気の毒なことだったが、やっとお返しができたように思う。杖立から小国、九重へと紅葉の山を巡った。
登山の用意はなかったが、勾配の登山道の入り口を階段を登るように膝を持ち上げて歩いた。降る際に湿った落ち葉に足を取られなかったのは奇跡だと振り返って思う。
山の麓の泉やミズナラの生える池などを巡った。池の水面は落ち葉ですっかり覆われていた。私は水からいきなり木がにょきっと伸びている景色が好きなのに、叶わなかったのが残念だ。
殊の外母が楽しんでくれたので良かった。子供たちも予想以上に歩けることがわかったので、今度はハイキング用の装備を用意してやりたい。

21.10.19

歯は言うほど大したことないよ

レントゲンを撮って,歯科医に一通り検査されて,上の中央左前歯をぐいぐい押されて痛い思いをしたある瞬間から,それまで感じていた歯の根元のぐらつきが気にならなくなり,痛みが消えた。文字通り,霧散した。
先生,痛くないんですけど。
何にもしてないよ。検査しかしてない。気持ちだったんじゃないの? ……まあ言うほど悪くなってないよ。
歯科医は私に噛ませた赤い紙片を眺め,それよりも,と言葉を継いだ。
…あのさあ,ディープバイトっていうんだけどこのかみ合わせがよくなくて――

というわけで,一番の懸念だった前歯の損失はまったく気にしなくていいことになったものの,過蓋咬合や親知らずなどを“発見”されてしまい,ついに私も歯科に通わなくてはいけなくなった。やだー。こわい。虫歯はないのよ。

もののついでに教えてもらった。歯の打撲は脱臼のような状態らしい。脱臼は医学的には骨折。だから歯の打撲は骨折なんだそうだ。亜脱臼状態なので,はめ込んだまま固定しておいたほうがいい。というわけで,上前歯四本を横に接着された。おかげで完全に歯は止まったし,痛くもない。ただ接着剤がぬるぬるするのが気になるくらいだ。

結果として,人間は無事でした。よかった。自転車はマジ凶器。

ところで全然違う話だけど,今日は近所の薬局へ食洗器洗剤を買いに行った。
のだが店に入った瞬間に忘れた。というのも,店内にかかっているBGMが私の好きなとてもノリノリな曲だったので,ついつい一緒に口ずさんでしまったのだ。
別の目的は覚えていたので,買い物かごに鼻歌とともに放り込む。そしてふと気づく。もう一個,買うべきものがあったよなあ。なんだっけ。すごく致命的なもの。これがないと暮らせないもの。思い出せない…と悩みつつ店内を巡回する。BGMはいつのまにか二回目のサビも過ぎ,Cメロを経て最後のサビに向かっていた。
 ぴ,ぷ,ぺ,ぽ,ぱ,ぴ,ぷ,ぺ
とボーカルに合わせて無声の破裂音を唇にのせる。
 痛い! とぅ たい! と たい! たい! たい!
自然と足取りも軽くなる。
 あい わな joyと
JOYだ!!!!!!
てなわけで,台所用洗剤のJOYを無事に発見保護し,購入ののち帰宅。

17.10.19

食べられないことはQOLを直ちに下げる

先日の午後,自転車同士はでにぶつかって転倒した。ほぼ正面衝突のような状態で,お互いにふっとんだ。私の背後にはブロック塀があり,後頭部をぶつけた。さらには自転車のハンドル部分が顔面に飛んできて,上顎を圧迫する形で打撲した。

夕方から子供の習い事でハロウィンイベントがあり,とりあえず準備段階まで整えて,あとは他の保護者の方に任せて(頼もしく引き受けてくださってありがたかった),近所の脳神経外科へ行った。すぐにMRIを撮ってくれる医院だ。結果,今のところは脳はきれいで血管にも異常がない。よかった。習い事に戻ると,みんなでうまく進行していたのでほっとした。よかった。

ほっとして肩の力が抜けて,ふと気がつくと口が痛い。顎関節もなんだかおかしい。
夕飯時,前歯が痛くて噛めない。噛合わせることも難しい。乳歯が抜けるときのように,若干,歯茎から浮いているようにも感じる。前後にわずかに動く。昨夜は白菜の水餃子の鍋にしたのだが,白菜がうまく噛めなくて難儀した。前歯がだめなら奥歯でと思っても,すりつぶすときに前歯同士が当たる。いたい。当たらないように気をつかって,そうっと咀嚼して,食べたような食べなかったような気分でとりあえずよそった分は胃に収めた。
なんだかとても疲れてしまった。
 
なのに,昼の興奮が残っているのか,夜はなかなか寝付けなかった。急に寒くなったのものある。
なんかだめだ。結局今朝は心身ともにだるさが抜けず,子の送迎も夫に任せてしまった。ごめん。ありがとう。

こうなってくると,ネットを見ててもネガティブな話ばかりが目につき,陰鬱な気持ちばかりが湧いてくる。呪詛を吐き出して,ネット断ちした方がいいなあ。

最近は食べることにそれほど重きをおいていない。おいしいものをつくって食べたい,食べに行きたい,というような食への興味関心は薄くなりつつある。
私はドトールが好きだ。毎日ドトールでもいいくらい。考えたり選んだりするのもおっくうで,知っている味が安定して出てくる(しかも食べるのも楽)ドトール大好き。

というほどだったのに,普通に食べられないことがこれほどストレスになるとは思わなかった。
これまでできたことが,意識せずなしえてきたことが,急にできなくなるのはつらい。

歯医者の予約はもうとった。

15.10.19

どうせみんな消えてしまうのに

絶不調だ。体がだるい。やる気が起きない。何事にも無感動…というほどではないが,先月まであふれだしていた何事にもいっちょかみしてやろうという野次馬根性は一切消えてしまった。さらには,やるべきことにも気がのらない。もうすぐ幼稚園のイベントがあるのに,腰が重い。悪いなと思いつつも,集まったところで無為に時間が過ぎていくのがつらい。

体調はすぐれない。だから体調に精神が引きずられているのかもしれない。疲れやすく,落下するように午睡している。頭がくらくらするのは貧血様なのかもしれない。薬は飲んでない。

いくら物を持っていても,死ぬときには一円たりとも持っていけない。せめて頭の中に世界を拡張したいと,代わりにものをみて知ることを意識してきた。そうして,それが生まれた子供に伝えられればそんな嬉しいことはない。
と思ってきたのだけど,年長の次男とぜんぜんわかり合えなくて,二年生の長男にはいっても言っても伝わっている気がしなくて,私と子供は別の存在であることをまざまざと突き付けられて日々ショックを受けている。

そう,そういうことなのだ。自他の境界が薄いってやつ? 自分の子を自分の手足のように意のままに動かせ,変化させられるものだと勘違いしていたのだろう。
結局私は私でしかなく,頭の中に蓄積してきたものさえもいつかはすべて消えてしまう。
むなしいな。

私が小4の時に父が42歳で他界した。病歴などはない。事故でも事件でもない。朝起きたら呼吸が止まっていたらしい。隣で起床した私は,何も気づかず寝床を出て,朝の支度をし,いつも通り登校した。まだ当時土曜日は半日授業があって,もうすぐ帰りの会になるところで先生に呼ばれ,普段あまり会うことのない親戚が車で迎えに来ていた。
もうほとんど覚えていないが,それからおそらく小六くらいまで,私はことあるごとに「むなしい」と言っていたらしい。父の上の妹である叔母が引きずられそうだったと,いつだったか,だいぶ後になってから教えてくれた。子どもの言うことにまさか,と疑いたくなるが,父と似て口先だけは豪快だったけれどその実は繊細なタイプだったから,あながち嘘ではなかったのかもしれない。
同じように口ばかり達者な私はこの叔母によく可愛がられていたと思う。
その叔母も数年前からもういない。記憶は日々疎くなっていく。父の声はいつのまにか思い出せなくなっていた。

それはそうと,今「病の「皇帝」がんに挑む 人類4000年の苦闘(上)」を読んでいる。科学史をナラティブに語っているので読みやすく面白い。にもかかわらず必要以上に人の情緒に触れないので読んでて楽。簡単に読める…という内容ではないが,今の私には肩の力を抜いて読める本だ。
だから物語はちょっとつらい。十二国記の新刊が出たとのことで,図書館で一巻を借りてきたが,手を出せそうにないな。

4.8.19

暑すぎて無理

帰省から戻ってきて、辛い夏休みが始まった。
暑くて外には出られないし、近所のプールも都合がつかずに行けない。実家に比べて家の中が狭く、子供達が暴れると喧しい。下の階の人はまだ夏休みに入ってないといいんだけど。
パソコンで作業したくても子供の前ではできないし、排熱も馬鹿にならなくて部屋がますます暑くなる。

しかたないからとテレビをつけても、普段通り子供達とは一緒には見られない。子供の声があるとぜんぜん聞き取れなくなる。
そもそも私は言葉を聞き取り理解する力が弱いのだ。Eテレの歌主体の番組だけだな、雑音を気にせず見られるの。音楽は脳の反応部位が違うのだろう。
そういえば、先日フィードバックのあった小二の長男の学力検査は、国語の第1問目の聞き取り問題だけが平均的な結果だった。確認すると、解答中のメモ取りは許されていたようだ。緊張と集中に疲れたかもしれないなと自分の過去を振り返って思う。
別日にあった二者面談は、学校生活では自発的にメモを取り、隣の子とも確認しあっていると聞いた。彼なりにやり方を身につけているようだけど、人の話を聞くにあたっての工夫は私も今一度調べておかないといけないと思っている。
苦手なことはそれ自体を克服する努力が必要な時もあるけど、別の方法で補っていくこともできる。今回も伝えているが何度でも伝え直したい。

ヒトには知恵がある。暑くて死にそうだけど、昼間は本を読んで夜に作業するなり、時間をうまく配分していきたいものだ。

30.7.19

まずは体力だ

千秋がそう言ってパリに着いて早々ジョギング始めてたから、私も筋トレします。

asicsがつくった筋トレアプリのrantasticってやつを使うんだけど、たった四種×3セットの30分弱で汗かいたなあ。ラジオ体操第一でウォームアップしてからやったからかも。振り回す腕や脚が重かった。ヒトの体って重いよね。

どんだけ体使ってなかったよ。自分に驚く。

27.7.19

のだめカンタービレ

帰省時の楽しみの一つに、家に置いてきた漫画を読み返すことがある。
それで今回は「のだめカンタービレ」を読み直したのよ。いやーおもしろかった。2008年発刊の21巻までしか持ってなくて、そういえばその後に渡米して途切れてしまったのだった。
最終巻の25巻までの四冊を求めて、台風が近づき土砂降りの中を、本屋六店舗ほど渡り歩いてしまった。けれどさすがに10年前の本はもう書店にはないのね。ブックオフを三軒回って揃えたよ。
本編最終回の23巻はきれいにまとまったし、おまけの番外編はかなり詰め込まれててお腹いっぱいだわ。

指揮者になりたいという明確な目標があって、最短距離を走り続ける努力もしているのに、PTSDのために海外に出られないという致命的な弱点をもつ千秋が苦悩するところによく自分を重ねていたことを思い出す。年も千秋が少し上だった頃のことだ。こんなことをしていて何になるのだろうって楽譜を破り捨てる場面に切なくなりつつも共感した。留学を終えて帰国して、就職市場的な価値が自分に全くなかったことに絶望していたから。就職しても、これが何になるのだろうと思っていた。そしてその後、夫の留学についていってしまったから、ある意味では逃げたのだ。Ruiと千秋のコンツェルトを聴いたのだめが突然プロポーズしてしまったように。私は千秋にはなれなかった。
だから、パリ編以降は心の距離が離れてしまい、読みかけでもいいと思ったんだろう。完結まで残りたった二冊なのに、ほっぽらかしになっていたのだ。

それから10年ほどたった今、たまたま家にあったから読み返してみた。
驚くことに、純粋に漫画の内容を楽しんでしまった。そうして、二ノ宮知子は好きだったなということを思い出した。
才能に惚れ込む関係は好きだ。先天的に備わった能力を昔はただ羨ましいと思っていたが、今では、発揮されたいわゆる「才能」が、降って湧いた幸運にだけに支えられたものではないと知っている。たゆまぬ努力と誰かの支えがあってこそ成立するものだ。
だからこそ、一番大事な局面での選択を自分自身で為していけるし、その先へと進むことができるのだろう。

今回まで読み残していた二冊では、あれほど音楽から逃げ回っていたのだめが、音楽と生きる覚悟を少しずつ決めていく。
二度目のサン=マロのコンサート開会を宣言するラストにおいて、かつてと同じセリフであっても、告げるのだめの見ている景色はさらに鮮やかだったと思う。

また、劇中で千秋が幾度となく説明する音楽の解説が、のだめといっしょにだんだんと私の中で意味をなしていけるのがとてもよかった。コンセルヴァトワールのアナリーゼ初回のクラスではちんぷんかんぷんだったのにな。
また、そうやって解説される中で、過去の偉大な音楽家たちの創作上の意図に、なんとなく共感できるものもあり、目がさめるような思いにもなった。

キャラクターの言動について、ポリコレ的には若干の危うさを感じる部分もあったが、20年の月日が流れたことの証左でもある。現代ならいくつかは描き直されるかもしれないな。

17.6.19

積んでる

図書館がこれからしばらく閉館になるので、半月くらい借りていられる。が、読みきれないな。うーむ。

偶然の科学はやっと半分まできた。ようやく波に乗ってきたよ。ここまで泥の中を這ってるみたいに進めなかった。

10.6.19

6月は役所に二度ゆく

児童手当の現況届のために、課税証明書を取りに行くのが毎年6月の恒例行事だ。
そして今年もまた、うまくいかずに出直しになった。もう四年連続だ。学習しないなー。我ながら嫌になる。

四年前。6月に入ってすぐに行ったので、役所側でまだ準備が完了しておらず、申請に行った日の翌日からから用意できると言われたのだ。
三年前。前年のこと忘れて、また6月2日ごろに行った。

二年前、引っ越し後。出張所では無理だから本庁に行けと言われた。それに加えて夫の分は委任状が必要だと言われた。
昨年、委任状のこと忘れた。
今年、委任状(略

学習して! わたし!!

でもさあ。おかしいと思うんだよ。こんなの夫婦の表見代理成立するでしょ。日常家事債務の範囲だよ! だって申請目的は児童手当だよ。生計を同一にする人たちのなかで、被扶養者のための手続きの一環だよ。両親のうちお互いがお互いの申請をできても許されると思うんだよ。民法だ民法。

あと、税務手続き的にもさあ。
私は夫の扶養範囲内なので、ふだんから私という個人は税法上存在しないも同義。夫の従属物になってるわけ。一緒くた。ならさあ、こういう申請も付属物らしく振る舞わせろよ!一貫してないよ!!
と思うの。

よし国賠訴訟だ! と息巻いてたら、それは無理だわと夫に淡々と説明されてしまった。納得した。国賠法は見たこともないな。学部の時、授業あった?

とりあえず近日中に委任状持っていきます…

5.6.19

夏の季語

ピッター、アメリカンチェリー、クラフティ。

毎年、今の時期しか使わない単機能アイテムのピッター(種取り)。場所を塞ぐがもうどうしようもない。壊れたらむしろ困る。アメリカ人いいもの作ってくれるね! と感心したよね。

役に立つのかどうかわからんアメ製キッチンアイテムと言えば、いちごのヘタ取りハサミを思い出す。ハサミの刃の部分がハエトリ草のように大きく挟み込める構造になっていた。
どう便利なのかは私の想像を超えている。指で摘めばいいじゃん。そうでなければ包丁で切り落としちゃうな。

4.6.19

眠気

人間ドックで引っかかって精密検査してきたのよ。
なんて、こんな口火の切り方はやだね! あーあ、私もついにそんな歳になったのか……。

で、単なる鉄欠乏性貧血なので、鉄剤とんなさいよとお医者に言われ、ぼちぼち飲み始めたんです。
いやー鉄って大事なんだね!

一日のうち、食前と食後にひどい眠気がくることが多い。また、午前中に何かすると、午後は昼寝しないととても疲れている。
という状態がここ一年近く続いていた。
それが、処方された鉄剤を飲み始めてから、食前分11時と5時ごろの眠気(倦怠感)は感じなくなったのだ。頭がはっきりしたまま昼の空腹を感じられるとは嬉しいね。これまでは空腹感も微妙だったな。感じる元気がなかった。

不摂生は大きな原因だったろうし、それならやる気を出せばすぐ挽回できると過信していた。でももう食事じゃ補えないレベルに落ちてるよ、とのこと。
まあ不摂生は不摂生なんだろうけど、他にもおそらく原因はあるのだろうとの医師の診断だった。
先生は貧血がよくなっても、鉄が足りないことの根治は別途考えるべきだと言った。一番疑わしいのは出血だそうだ。加齢してくると悪いところは出てくるから調べなさいねと。
つまり、癌が原因になりうると言いたいのだ。
人間ドックの結果、五大がんはとりあえず大丈夫そうだと先生の手元にコピーあるんですけどね、とは言わなかったけど。

ほかにはとりたてて目につく結果はなかった。あるいは様子見か。
せいぜいQOL下げないようにやっていきたい。
こうして、緩やかに死に向かって生きていくのだろう。

24.5.19

弁当before & after




 我ながら偉いよね。と自画自賛して、今日一日がんばる…

23.5.19

一日一イベントまで remix

何らかの予定をこなすと、そのあと自分が使い物にならなくなる。疲れるから。生命維持のための体力増強を図らないといけない。まじめに考えないと、ほんとに早死にする。やだよー。脳を培養液に入れても生き延びたいので、なんとかしたい。

今日は朝から昼過ぎまでイベントのお手伝い。楽しかったよ。でも、帰宅して爆睡した。

明日は昼食会がある。夜は次男の誕生日なのでパンケーキパーティしたいんだって。何食べ10巻のアレね。もちろん子どもはそのイメージを知らない。だけど、私は「大変!」とか嘆きながらあれを再現するんだろうなと予想しているし、そこにかかる心労なんかも予測の範囲内なわけです。一日一イベントが限界じゃね? と思いつつも、やったら楽しいのは経験から知ってるので踏ん張る。

いろいろ頭の中を整理したいんだけど余裕がない。

18.5.19

結婚式だった

今日は友人の結婚披露パーティーに出席するため、日帰りで東京へ。余裕をもったスケジュールを組んだので、帰りの便まであと一時間ほどもある。空港のラウンジで休憩中。パワーラウンジとの名前通り、電源がたくさんあるが、ケーブルはない。まさか必要になるとは思わなかった。

今回、何だかわからんけどiPhoneがやたら電池をくう。通知も位置サービスも最低限にしているんだけどな。

今や、航空券はQRコードで、電車はアプリ。ついでに言えばドトールだってアプリ決済だ。だからスマホの電池はそのまま私の行動を制約する。
まあ、これを機にデジタルデトックスをすれば良いのだ。

今朝は早くに羽田に着いて、池袋の三省堂へ向かった。お目当てのヨンデル選書でいくつか本を買った。友人へのプレゼントにもしたかった。
どれだけヤンデル先生ファンなのかという話だが、それだけ好きなのだ。既刊の「いち病理医のリアル」は衝撃だった。
新刊の青白い方は、前書きで震えた。語りは前作より軽め。内容はまだ前書きだからわからない。だけど、言いようのない興奮があったのだ。体の芯から上がってくる感じ。やっとこの本と向き合えた、ある意味での達成感か。または、会いたくて待ち遠しかった人にやっと会えた、恋心にさえ近いものだったかもしれない。

ラッピングしてもらった本に手紙を添えた。友人は読書が趣味だが文芸専門だ。絶対自分で選ばないだろうけど、広く物事にアンテナを張っている彼女なら面白がってくれるだろうと確信を持って選書をした。
精神医がデイケアに着任し、そこで何もしないでただ居ることだけを求められた。医療を施して患者を治療することを想定していたから、何も求められないことに筆者は戸惑う。けれども、その「ただ居る」ということがどれだけ大切なことか、デイケアでの日々を過ごすうちに気づいていく。
医学書の分類ではあるが、語りは優しく、ともするとエッセイのようでもある。「居るのはつらいよ」という本である。
お祝いの言葉を書き記しながら、高一で出会った彼女に、あの頃、お互いに居場所をつくっていた彼女に、今ようやくおめでとうを言えるのだと気づいた。やっとだ。ほんとうに、やっと。感傷じみた感慨が湧いてきて、急に指先が震え、字がのたくってしまった。

友人は私の知っている24年間で一番いい顔をしていた。この日に居ることができてよかった。

そうこうしてる間に搭乗まで20分となった。残り電池は11%。電池が切れると地下鉄に乗れなくなるので、あとは本を読んで過ごす。

5.5.19

あまい、まるい、おおきい、うまい

 苺が好きだ。
 正確には、苺のショートケーキが好きだ。しっとりとしたショートケーキ生地が口の中で解け、そのかけらは滑らかな生クリームが脂肪分のベールで覆われる。ほのかな甘みの中で弾けるような酸味とあとからじわりと広がる瑞々しい甘みが渾然一体となって、しあわせの極致に達する。

 でも、苺のそのものは低価格帯のを買っていると、なかなかおいしいのには当たらない。酸っぱくて顎の関節が痛くなったり、味も薄くて水分補給にしかならなかったりする。
 先日、母がお土産にくれた長さ5センチくらいの大物は、そういう特徴の品種だったのかもしれないが、強い香りの割に味が伴わず、加糖練乳を補って食べた。
 そう、コンデンスミルク+苺の組み合わせは至高である。苺を切るか潰すかしてミルクをかけてしばらく置くと、浸透圧だろうか、苺のエッセンスが溶け出してほどよい甘さに薄まる。それに、乳脂肪分のおかげか、苺の強すぎる香りも少しおさまってくれて食べやすい。大変良い。最高。大好き。

 先日、あまおうを買ったのだ。
 あまおうは福岡が誇るブランドで、その名の由来は甘い、丸い、大きい、うまい。
 丸いは確かに丸い。私の実家周辺のは細くシャープな印象があるだけに、並べると違いが際立った。
 大きい。私の購入したのは小さかったのでその分安価だった。だから買った。
 あまい。私の偏見を大きく覆したのはその糖度だった。あまおうの方が甘いのだ。あまおうの前では練乳など乳脂肪の流動体になってしまう。びっくりした。加糖練乳は糖分58%以下と定められていて、メーカーによってその実は異なるだろう。苺は低糖質であり、糖分の摂取を考慮しなくてはならない場合でも比較的受け入れられる果物だと聞いたこともある。多くの場合で練乳が苺より甘いのだろうと推測していた。

 ゆえに、練乳があまおうに負けるとは予想もしなかった。苺観がひっくり返った。「うまい」果物はそのまま食べて十分にうまい。
 と同時に、ショートケーキにおける苺では、ケーキ部分が甘みを担うこと、油脂が酸味をカバーすることから、ブランド苺が必ずしも適しているとは限らないだろうなと思った。

26.4.19

日常生活は簡単に破綻する

 先日の体調不良の予兆はまさしく現実のものとなり,そこからまる二日間寝込んでしまった。発熱は治まったと思えばまた上がり,全身が軋んで,頭痛が続き,食事はにおいだけで抵抗感が出て,食べたら食べたで体が足りないエネルギーを消化に使うからか疲労の波がばさりとかかり,まったく自分が使い物にならなかった。
 専業主婦が突然いなくなると,未就学児のいる家庭は簡単に行き届かなくなりそうだと思った。
 生活を夫婦分業に最適化している場合,母子家庭など,父親がいなくなるリスクばかりが計られる印象がある。たとえば生命保険とか。そしてもし父親が不在となっても,日常生活は母子間で回していけるものだ。金銭的なリスクは負うものの,ただちに立ち行かなくなることはない。ところが逆だったらどうだ。誰が子を幼稚園へ送迎できるのか。誰が子の弁当を用意できるのか。家事は電化製品や購買力で補える。まだなんとかなるだろう。けれども仕事のスケジュールは突然変えられない,かもしれない。長期的には心配はないかもしれないが,今日までやれたことを明日明後日もとは,すぐに対応できない可能性がある。
 今回はたまたま母の滞在中のことで, 私の代理がいたから事なきをえた。幸運だった。 完全分業は効率的だが,両親の健康という薄氷の上で成り立つものだなとつくづく感じた。リスク分散をどうすべきか,この先のことを少し考えたい。と同時に,日常生活をもっと簡素化しておくべきだ。家事は誰でもできるように。仕事と同じだな。標準化しておかないと。
  それともうひとつ,健康は大事。目を開けて視覚情報をとりいれただけで頭痛が起こるというのは,初めての経験だった。目を開けられない。何も見られない。当たり前にできたことができないのは歯がゆいし,くやしいし,つらいものだ。つらいのだけど,頭痛のせいかそのつらさすらも輪郭がぼんやりとしていた。何も考えずにただ目を閉じた。いつか死ぬときには,こんな風に何の感慨もなく,ゆるやかに意識が途絶えるのだろうか。

 

24.4.19

18年ぶりの裁判傍聴

 大学生の時にゼミの先生に連れられて裁判傍聴に行った。あれから早十数年,裁判員裁判を傍聴しに行く機会を得た。やっとタイミングが合った。
 こんなことを記すと非難囂々であろうが,おもしろかった。
 第一に,現実は面白いのだ。大学に入学してから,小説類はほとんど読まなくなった。いや,正確には読めなくなってしまった。大学の講義で紹介される事案がそれにとってかわった。法律論を学ぶ中で出てくる例は限界事例だけあって,どんな事案もエクストリームだ。普通に生活している中ではめったにお目にかかれない出来事が目白押しで,バリエーションに富んでいる。そのあと,私は法律から開発学へと移ったので,分野は違っても刺激的なのは変わらなかった。
 それから,刑事裁判は(ひょっとしたら民事もそうなのかもしれないが),検察官が罪を成立させたいストーリーと弁護士が被告人を護るためのストーリーのぶつかりあいがある。そして証拠に基づき,どっちがもっともらしいか,あるいはそれぞれのストーリーのどの部分に確信がもてるか判断するのが裁判だ。かなり乱暴で正確ではないけれど,ふわふわとそんな風に捉えている。すごい楽しいじゃん。

 質問になると急に裁判そのものが鮮やかに見えてくる気がした。不思議だねえ。肉声の力だろうか。
 なのに,聞けたのは弁護人からの被告人への質問だけで,検察からの質問は小学校からの緊急召喚に遮られてしまった。仕方ないことだが残念。裁判所からの質問も聞きたかったなあ。

 それから,裁判の流れを予習してなかったのがもったいなかったな。
 自分で見ていた感じ+ちらりとググったところによると
  1.  冒頭手続き(被告人の名前を聞いたり,黙秘権があるよって教えてあげたり)
  2.  冒頭陳述(被告人はこういうことをした,こんな罪かもしれないという紹介)
  3.  公判前整理手続きで争いのない争点などの説明
  4.  証拠調べ(検察官が場所の写真とか物とかを紹介する)
      +被告人への質問(これも証拠調べなんだろうね。多分,他にも関係者が出てくるんだろう)
  5.  見てないけどたぶん 論告(検察が,このとき被告人はこんなことを考えていたんでしょうね,的な証拠から導かれる評価を交えてまとめてくれる。このときに求刑もやるのかもね)
  6.  見てないけど弁論(弁護人から,いやいや被告人はこんなに反省しているしみたいなことも含めて,争ったり認めたりするんだろう。見てないから知らんけど)
というところだと思われる。わからんけど。

 証拠調べのときには,検察が起訴に当たって集めた証拠を一つ一つ教えてくれる。そのときには検察はその証拠から考えられること,つまりは評価だよね,はしないのよね。弁護側も同じで,質問は被告人の言動やそのときの考えなどを尋ねるだけで,弁護人の意見は出てこない。だから,質問が下手な人なら質問の意図が全然わからなくなるだろうし,逆にうまい人ならば見ている人に被告人の物語を想起させるんだろうと思った。
 で,最後の論告・弁論で,全部を一つの物語にまとめていくんだろう。証拠調べはさながら伏線で,それを回収する場。
 そういう構成の小説ってあるある。よっぽど途中の書き方がうまくないと難しいやつだ。

 勉強になった。朝から夕方までぶっ通しだが,午後になってぐっと人が減って,普段着ライクな傍聴人はみんなメモ取りをしていた。傍聴プロもいるんだろうなーと思った。

23.4.19

outbreak

 金曜の早朝,トイレに起きた次男が布団に戻るなり盛大に吐いた。清めて寝かせて一時間後にお腹が痛いと呟き,夜が明けたら発熱していた。それから約二日間,食いしん坊で限界まで食べ物を求める彼が,ご飯はいらないと茶碗を押し返してぐったり過ごした。
 幸い,日曜の夜には回復して,翌週からは元気に登園している。
 その月曜の夜,風邪で発熱しても食欲だけは衰えないのが自慢の夫が,夕飯はいらないと帰宅早々寝床に就いた。
 さらに翌火曜,つまり今日だが,長男の学校から彼の顔色がとても悪いから迎えに来いとの連絡があり,共に帰宅すると,つい二時間前までランチを共にして先に帰宅した母までも伏せっていた。
 全員ほぼ同じ症状だ。これは,移ったんだろうなあ。ウイルス性か何か,原因は分からないが感染性の胃腸炎。stomach flu, 正しくはViral gastroenteritis. 風邪はほら,上気道にできる炎症が元だから。お腹に風邪はできないから。
 私も夕飯の後より,肩から背中にかけてだるい。寒気なのか,雨天のための冷えなのかわからないが,ぞくぞくしている。やばい。はよ横になりたい。でも明日は今日より悪化しそうなので,今日のうちに洗濯機を回しておきたい。我ながら超えらい。しかしつらい。横になったら起きられない気がするので,今こうやって日記を書きながら必死に座位を保っている。

13.4.19

手に余る

 新しいお役目をいくつかいただいて、四月なので一斉に走り出したわけです。
 もうすでにぽろぽろ落ちかけてる。どうしよう。
 同時並行のスケジュール管理なんていつ以来だ。というか、そんなのほぼやったことなかった。短期記憶が弱いのはわかってるのだけど、それを補うためのリマインダーがきちんとセットしきれないとか、操作を誤ってるとか、セットするのを忘れる!! とか、落とし穴がいくつも空いてる。
 でまた、それらに対する心配が、時と場合に限らず泥熱泉のようにぼこぼこと脳裏に浮かんでくるので、読み進めたい本に集中できない。文が頭に入らない。読めない。困ったな。などと足踏みしながらファクトフルネスをちまちまめくっている。ちなみにこの日記のフリック入力のミスタッチ率も上がっている。でも今日、ドラマ「きのう、何食べた?」はなんとか見られたので、まだ限界ではない。映像なら理解できる。大丈夫、いける。などと自己暗示をかけている。

31.3.19

三月も終わりだというのに



 これから寒の戻りがあると天気予報が言っていた。あさっての四月一日からがくんと気温が下がるらしい。
 いま、実家に帰省している。
 向こうを出た十日前には、まだ桜がほころび始めたところだった。その後すぐに満開になったと聞いた。
 温暖だと名高いここでは、ずっと天気がぐずつき気温は低いままで、したがって桜の開花も進まない。加えて大気の不安定のためか、あるいは海のそばのためか、日中に春一番が吹き荒れていた。遠州の空っ風とはよく言ったものだが、それとはやや趣の異なる強風ではあるものの、なんにせよ冷たい風に身を晒していると実に体力を消耗する。
 今日になってやっと寒くもなく風もない、待ち望んだ春がやってきた。けれどそれも、夕方からまた束のような雨が降るまでのわずかな間のことだった。
 あさって帰る。彼の地の予想最高気温は11度とある。私のいく先はずっと冬の中にいる。
 このまま今年が冷夏になったらどうしよう。

13.3.19

さむい

 冬が戻ってきた。日差しは春に近いのに,大気が冷たいのでつらい。

 ここ4,5年の夏は,夜にざっと雨が降って,朝一からぎらぎらと太陽が照りつけてくる印象がある。もっと昔はそういう夕立めいたものは夕方に起こっていたのに,それだけ気温が上がり過ぎてうまく雲が形成できなかったり,雨にならなかったりしているのだろう。
 その夜中の嵐が,今,この冬と春の境目に起きている。今年は暖かい冬だったこともあって,例年より暑い大気が入り込んでいるのだろうか。ここ数日は深夜にかかる時間帯になると,砂礫が窓にぶつかっているかのような大騒動が聞こえてくる。
 昔,IF科学読本で,地軸が傾いていなかったらどうなるかというのを読んだことがある。
 太陽からの距離が常に一定になるので,地域ごとに気候差がくっきりと現れるのだそうだ。赤道面は常にスコール,熱帯・温帯・冷帯と温度の異なる大気が混じり合って恒常的な嵐,極地方は氷に閉ざされる。ただ極夜はないので,太陽光が届く分だけ多少は生命が繁栄しそうな気もする。
 そんなことを思い出す大雨の音を聞きながら眠りにつく今日この頃だ。

10.3.19

こんこんこんこんくしゃん!

 今日は一年分くらいまとめてくしゃみをした。もういい加減にしてほしい。私は花粉症ではないし、エコチル調査で調べたIgE値は8だった。ないも同然なのに。
 まあ、昔から鼻炎っぽいのはあった。でもそれはさ、反射だよ。人間だから。鼻に異物が入ったら鼻水出るよ。当たり前でしょ。
 ちなみに夫はすごい。目にくるタイプで、まさにふなっしーが目汁ぷしゃーって暴れてる。信じられない。でもIgE値が300近かったので、やっぱりこれが現実で、お気の毒さまというよりほかない。
 雨の日は花粉の飛散はないと聞いていた。でも、先日お医者が言ってたのは、雨だと地面に落ちた花粉が粉砕されたやつが舞い上がってくるから、やっぱダメだって。逃げ場がない! しかもこの時期大陸からもいろいろ飛んでくるし。そっちのせいでしょ、このくしゃみは。

 ところで、今これiライターズってiPhone アプリで書いてるんだけど、めっちゃいい。超親切。横縦どっちでも書けるし、挙動が速いし、独自の辞書を持ってるし、半角文字列のあとに自動で半角スペース入った。気がする。iPhone の入力UIでは非対応の全角スペースも常時表示のコマンドからタップ一つで入力できる。最高。今後はこれとDropboxでいく。
 iPhone とPCとでやり取りするのにずっとiPagesを使ってたのをやっとやめられる。iPagesは入力時と閲覧時で画面の大きさが自動で切り替わるのがすごい邪魔でね。縦書きアプリの縦式も同じ理由で好きじゃない。とはいえ書くときには縦にはしないけど。

8.3.19

やっぱりこの作者だった

漫画「Blue Giant」を読んでいる。ジャズのテナーサックスを吹く主人公がひたむきに努力していく話。メンバーを見つけて三人でバンドを組んで、それぞれ頑張りながら成長していく。めっちゃ良い。最終巻は全話号泣した。

なのにさ、最後の最後、このシリーズを終わらせるのにええええーって展開になってしまった。あーこの作者、前作の「岳」も…ということを思い出した。
今、続編のシリーズが連載中なんだけど、相変わらず熱くて泣けるんたけど、いつひっくり返るか心配。

一生懸命がんばっている姿に胸を打たれることが増えた。年を取ったからかな。10代、20代、30代と、ひねくれたり斜に構えたりいじけたりしてきた。そういう曲がった自分の視線が、最近、ようやくまっすぐになりつつあるのわかる。
去年知ったエレカシに感銘を受けたのも、一周回って素直に前を向いている彼らの姿が、自分の流れに沿うものだったからと思う。
命の残り時間ということを考える。回り道をしているのがもったいない。

来月には40才になる。まさかこんな年齢まで達するとは、と不思議な気分でいる。
あと二年で、私は父を追い越す。

3.3.19

おまじない

ようやく読めた。西加奈子の「おまじない」。図書館のウェイティングリスト143位が1位になるまで一年くらいかかったぞ。もう買ったほうが早いんだけど、まあねえ。図書館を無料貸本屋と取り違えてる。ごめんね。

PR誌に掲載された短編連載をまとめた一冊で、どれも女性を主人公にしている。年は子供から大人までいろいろ。掲題作「おまじない」はストレートに、他の作品はその程度に差はあれど、どれも”おまじない”に導かれ、あるいは縛られている様子が綴られる。
言葉や考えがわたしの生き方に自ずと限界を作る場合がある。それは目標だったり、過去に諦めたなにかだったりしたのだろう。けど、頭の中でこねくり回して、年月がすぎて、変質したものであっても、もう一度見直してみればまた違った形でわたしを照らすかもしれない。そしたら別の世界が眼前に広がっているかもしれない。し、そうでないかもしれない。なぜならその世界がどうあるのか、どう見えるのかはわたし次第だからだ。
世界の見え方はいつも一通りではないこと、自分次第で変わることを、どの話もささやかに見せてくれる。

ということはこう、読んでるとぼんやりとわかる。上の部分はほぼ指先だけで書いた。それくらい適当な感想。

この本ね、全然違うところでめっちゃえぐってきた。
この人の、語彙、文章の長短から表れるリズム感、ここで改行入れるんだ入れるよね! 的な文章の流れ、内容では小さな発見を必ず仕込んでくるところ、おおよその登場人物にきちんと歴史があること、もう全部が全部、私の理想のはるかその先だった。この文章の海に落ちたら、私なんかもう溶けてばらばらになってなくなる。だってここに全部あるんだもん。すごい羨ましいし、悔しい。

この前に読んだのは2010年発刊の「炎上する君」だった。このときは登場人物の心情へがつがつ踏み込んでいく感じだったんだけど、今回は作者はより控えめに登場人物を眺めているように思えた。前のは馴染みないこともあってとても新鮮だった。でも今回の方が親しみを感じる。そりゃそうだ、ベクトルが近いんだもの。

ということばかりがちらちらと頭によぎって、内容は上っ面にしか読めなかった。その上で、正直、展開が急だなと思うこともあったし、前に読んだのに比べてその心情の因果関係甘くない? と思うこともあった。
でもその飛躍感も含めてすごい「わかる」。
書かれている物語すら通り越して、作者のなにか魂みたいなのに手を伸ばしながら読んでいたような気がする。
とても悔しい。私はとてもこんなのは書けない。書きたい。書けない。でも書きたい。
 
上滑りにしか読んでないけど、悔しすぎて読み返すことができない。
貸出票には、私の後ろに予約がついてるよとご丁寧にも注意書きがついている。はやいとこ返却しに行こう。 でもきっとこの感情はしばらくおさまらないだろうな。

1.3.19

狙ったわけではなかったけれど

今日は朝イチの回で「翔んで埼玉」を見に行くつもりで劇場についたのよ。そしたら、今日だけは9時半の回がお休みだった。次は12時からだった。映画館が入っているショッピングセンターにも用事はあったものの開店前だった。家に帰るのもおっくうだ。よし、違うのを見よう。

というわけで、「アリータ: バトル・エンジェル」を見たの。
原作は漫画の「銃夢」。1990年の作品だって。これを読んだのと同じタイミングで、弐瓶勉の「BLAME!」や「シドニアの騎士」もまとめて読んでいて、どれがどれだったか印象がごちゃごちゃになっていた。どれも近未来、サイボーグ、ヒトの尊厳などぺらっぺらになっているので平気で命が散っていく系統の話。映画を見た後の今になれば、一番人間を描いているのが銃夢だったようにも思う。なんにせよ全部SF系だ。
あっ、今wiki見たら、映画と原作とだいぶ違うなあ。すごい似ている気がしたんだけど。映画は原作よりももっと人の物語だった。

スクラップ置き場に捨てられていた、脳だけが生きていたサイボーグ部品からサイバネ医師のイドが治したのが主人公のアリータだ。記憶はなく、イドの家に世話になりながらこの世界で生きる道を見つけていく。街では義体のパーツ取りのために襲撃に遭うのなんて日常茶飯事で、治安を守るロボットガードは人を守るという目的には全然役に立ってない。というより、それだけ人間に価値がないんだな。劇中でばっさばっさと人は殺されていく。完全な人型アンドロイドはまだおらず、知性があるのは人間だけ。
この話の舞台には、特権階級の暮らす空中都市ザレムと、地上には社会的・物理的に下層レイヤーを成すアイアンシティとがある。イドとアリータはアイアンシティにいる。アリータはある時、ザレムに行くことを夢見て懸命に働くヒューゴに出会う。
サイバーパンクの世界観といえば、返還前の香港のぐちゃぐちゃに建て込んでいた九龍とか、FF7のミッドガルとか、FF10のザナルカンドとか。その町並みが、現在のVFX技術でものすごく緻密に描き込まれていて、パンで映る街全体の画にはほんとしびれた。映画館のでっかいスクリーンだからものすごく迫力があるし、細かいところまで見えちゃうからね。
アリータの監督は「アバター」も過去につくっているので、あーなるほどね、と腑に落ちた。アバターはIMAXの劇場を探してわざわざ行った。ボストンにいるときに。懐かしい。あのときも、ものすごい背景だな―と思ったんだった。帰りの運転中にぽーっとしたもんねえ。

終劇後、子の降園までまだ時間があり、この勢いを逃したくなくて「翔んで埼玉」も見たのだ。やっぱ1000円で見られるってのが大きい。そうでなければそもそも来ないし。

こっちは原作未読だったけど導入部の設定は知っていた。東京都様の前に埼玉がでてくるなぞ頭が高い! 控えおろう! 的な社会。これでもかなり穏当な表現。埼玉人というだけで拘束されて放逐されるのとか、これ日本以外で見せるとかなりやばいんじゃないかって思うね。最近「ナチス第三の男」見たばっかりなので、どうしても重ねてしまう。
まあ、そういう東京を打倒するという流れになるのでいいとは思うけど。
都知事こそ神様みたいな世界観で、その都知事養成のすげえブルジョワ・ハイソな学校に、都会指数の超高いアメリカ帰りの都会エリートが転入してくる。根拠不明の権力を持つ生徒会長がその転入生に鼻をへし折られて…というところから始まる。

映像、展開、ガクトのやけに上手なお芝居、伊勢谷友介の妖しい色気などに惑わされつつも終始肩を震わせてしまった。どっかんどっかん笑うわけでもないんだけど、こう、ばかばかしすぎて笑うしかない感じ。

なんだけど、この話はその生徒会長の子に視点を合わせていると、すごく私の好きなタイプの物語だった。ぜんぜんわかってない箱入り息子が、自力で、他人と協力して、自分の大事なものと引き換えにしても譲れない何かを押し通した。誰かを助けるために働いた、そうして周りの人との関係性も変わっていく、という感じの若者の成長譚。
伊勢谷友介とガクトの官能的な場面もすごかったけど、それより印象に残ってるのはこの生徒会長を演じた二階堂ふみだなあ。

まったくそんなつもりではなかったけど、この二つの話はどっちもそんな風に「育っていく」話だったのよね。リンクしたなあ。

ところでアリータを見てるときに、この上層・下層構造の話で最近読んだ中華SFの「折りたたみ北京」を思い出した。下層の人がなりゆきで上層に届け物をしに行くだけの単純な物語。この北京が文字通り折り畳まれる構造物と化していて、それぞれの層はそのまま社会構造を照射している。それぞれの生活描写があまりにリアルで、これが現在の都市部とその周辺の中国なのかと想像すると苦しい。主人公が上層を知ってなお、自分にはそもそも関係ないことだと手放してしまうのが切ない。ああ、そういえば昔読んだ魯迅の話にいくつかそういうのあったなあ。社会のレイヤーを越えることを端から諦めて、周りに当たるだけの人々を批判する主人公の話。そうそう変わらないということかもしれない。
ただ、そういう社会の層を越えるか否か、越えたいと思えるか否か、難しいんじゃないか、というのは全世界に共通して見られることであるし、日本だってもう例外ではない。

夜にアマプラでペンタゴン・ペーパーズをまた見た。去年劇場で見て大興奮した映画。全部知っててもやっぱり興奮した。話は一本調子の時系列を追うだけだし、特別な演出もないんだけど、主題が圧倒的すぎる。現実はすごいし、現実の方がおもしろいって思ってしまうのは仕方ないよなあ、とこういうのを見て思う。

28.2.19

ねほぱほ無戸籍の人の回


【ねほりんぱほりん】壮絶 戸籍のない人生(NHKどーがれーじ)
これね。ようやく見たんだけど、すごいもやもやしているのでその気持ちを残しておく。

二人のゲストのうち、片方は出生届を出せる状態ですらなかったけど、もう一人の方は嫡出推定との兼ね合いで届出られなかったパターン。後者は今では社会問題化したので、行政も対応している(「民法772条(嫡出推定制度)及び無戸籍児を戸籍に記載するための手続等について」法務省ウェブサイト)。自治体によっては学校にも行けるようだ。

で、その後者の話。
夫の著しい暴力から逃げたために離婚ができない(離婚手続きのためとはいえ夫に再会したら殺されると思っている)
→新しい夫と出会って子を成した
→前の夫との婚姻継続中なので、生まれた子はその人の嫡出子と推定される
→そんなの嫌だから出生届を出さない
→戸籍ができないからその子は社会的には存在しないも同じ
という流れ。新しい夫とは事実婚の状態。

番組の中で、子は無戸籍であることを隠されていて、望んだ通学もできなかったし、三十年家の中だけで過ごしたのだと説明していた。親を恨んで反抗して心も病んだ。でも、自分と同じように無戸籍状態の人がいるのだと報道で知って、支援団体を通じて母親の離婚を成立させ、自分の戸籍を復帰させたそうだ。復帰でもないのか。
彼女がいうには、もう親のことは恨んでない、病んでた時も見捨てられなかったし支えてくれた、親は親だし、やっと名実ともに家族になれたから今度は私が社会に出て支えていきたい、んだそうだ。

あなたは、もう親の事情は考えなくていい、あなただけの選択肢を選んでいいんだよって、ものすごく訴えたかった。
だって親にも事情があったとはいえ、自分の人生半分くらい捨てさせられてんだよ。病むなんて当たり前じゃん。そりゃ、30年前はまだ、こういうケースに行政を絡めても円満解決は難しかっただろうし、前の夫に実力行使に出られたらそれこそ命に関わるし、わかるけど。彼女も30歳を越えて親の事情を理解できるほどに成熟して、自分の戸籍を得てとりあえずは満たされているのもわかるけど。
見捨てなかったのは、果たされるべき親の責任だ。それについて子が感謝こそすれ、代わりに自分の人生を差し出す必要はまったくないと思っている。そしてそんなのは理想論だと重々わかっている。 その上でそう訴えたいの。

自由になったようでいて、全然自由じゃない。しかもそのことには渦中にいたらきっと気づけない。私が彼女だったとしても難しいと思う。人はこれまで経験してきた環境の範囲でしかものを考えることはできない。
そんなことが見えてくる気がして、歯がゆい。

ちなみにもう一人のゲストは実の母も育ての母ももう他界し、身寄りはないと話していた。彼は出生届が出されておらず、出生証明書も現存しない。そのために日本人であることの証明すらできない。結果として、戸籍をつくるのにとても難儀しているらしい。それでも支援団体の力を得て住民登録はでき、今では住所もあるし就職もできたし携帯電話だって自分の名義で持てた。これから生活実績を積んで、それが直接役に立つかどうかはわからないが、いつか戸籍の登録までできたらいいなと願う。

26.2.19

映画いろいろ2

2018年の終わり頃は韓国映画づいていた。韓国映画はとてもよいんだけど、人名が覚えきれなくていつも困ってる。幸い、顔が判別しやすいのでまだ今のところは大丈夫だけども。
  1. 1987、ある闘いの真実
  2. タクシー運転手 約束は海を越えて
  3. 名もなき野良犬の輪舞
  4. jam
  5. 映画 刀剣乱舞
  6. ナチス第三の男

韓国の現代史などもうほぼ全部忘れている。でも「1987、ある闘いの真実」はこの年代の社会の様子を登場人物のセリフでも説明してくれるので助かった。
この年、韓国は盧武鉉が民主化を宣言した。でもそうなると反動が起こるので、特に北朝鮮の工作も激化していたんだろうな。大韓航空機爆破事件が起きている。同年、ゴルバチョフとレーガンがINF全廃条約を締結しているけども、朝鮮半島は変わらずきな臭いままだったんだろう。
映画は同年明けてすぐの頃、全斗煥(軍事クーデターで大統領になった人)に対して民主化運動の機運が高まっていた頃の話。韓国の情報部や私服軍人が、潜んでいる共産党員を端からひっ捕まえて拷問などにかけ、とにかく「アカ」を駆逐するのに必死。そこに大学生を中心にした民主化運動が混ざってくるのでもう大変。その中で、とある大学生が拷問の末死亡した。情報部は秘匿しようとしたけれども、とある検察官がそれを阻んでいく。
でもこの構図は前半までで、後半はその隠された真実を、善意の細い糸をたどって世間に公表される、というところまで展開する。
硬い話かと思えばそうでもない。情報部司令官と検察官が路地裏で直接対峙するところなんて現実にはまずありえないファンタジーだけど、すごくかっこいい場面だった。思わず検察官の役者を確認してしまった。
とにかく登場人物が多いこと、要素がたくさんあること、当時の映像をそのまま使っているのと、それを現代のVFXを駆使して再現している本物のような画面。映画ってこういうの! と見せつけられている感じ。韓国映画の熱量はものすごい。踏ん張ってないと倒れる。


で、この映画の前日譚を描いたのが「タクシー運転手 約束は海を越えて」 、光州事件の話。大学生を中心とする民主化運動が起きたので、全斗煥政権は村を完全封鎖して住民を浄化しようとしていた。その噂を聞きつけたとある外国員特派員が現地に潜り込みたいとやってきたのを、ソウルで適当に暮らしているタクシー運転手の主人公が提示された金額に目がくらんで事情も知らずに請け負う。
この映画、冒頭はものすごーくお気楽な人情ものみたいな入り方をしている。中盤からどかんと落としてくるんだけど、そのギャップ! ひどい! 2018年冒頭詐欺映画大賞を差し上げたい。
このタクシー運転手が情けない男で、酒浸りになって妻に逃げられ、幼い一人娘がいるんだけど満足に育ててあげられてない。愛情はあるけどカネがない。タクシー運転手の稼ぎではまだまだ…という感じ。これが光州に入ってあれよあれよと巻き込まれて、だんだん父親、というか一人の大人の男性、に変わっていくのがいい。
こちらは過去の映像は使っていないものの、シリアスな画面は照度をぐっと落としていて思わず眼を閉じてしまうほどの恐ろしさがあった。
この映画はいっちばん最後にそれ持ってくるの!? というエピソードがあって、泣いた。ほんと落差がひどい映画だった。ひどすぎて最高。


上述の二作とは全然毛色の違う、韓国の任侠もの、ノワール映画。フラッシュバックでヒントを散りばめながら構成されていて集中力が必要な映画ではあるけど、そういう頭の疲れ方はむしろ気持ちがいい。
おっさんと青年の交流話(すごい語弊があるな)。師弟関係に目覚めそうだった。
話の肝は潜入捜査なんだけど、緩急がすごくて、ラストショットまでずっと気を張り詰めて見てしまった。余韻もすごい。青年は終劇後、死んでしまうかもしれないとずっと思っている。韓国エンタテイメントすごい。


出演俳優の舞台挨拶のために見に行った。「名もなき野良犬の輪舞」を見た直後だったので、暴力的世界観が重なって印象が薄れるのはどうしても仕方ない。
物語中に出てくるストーカーめいた女性が素晴らしかった。彼女の言動や思考回路だけでなく、台所に立ちながら片足の指先でもう片方の足首を掻く仕草や、年甲斐のない服装、そこに顕れるだらしなく緩んだ体つき、もう全部が全部完璧に仕上がっていたのが今も頭から離れない。見た目も中身も一部の隙もなくキャラクターを体現していて、俳優ってこういうことかと震えた。


来年の秋の刀の展覧会に向けてゲーム刀剣乱舞を始めて、ミュージカルを追った特集番組を見て、ついでだから映画も、となって行ってきた。漫画の実写化はコスプレになるという批判も多くてどうなることやらと思っていた。でもそれほど違和感はなかった。特撮番組を見ているので多少は目が慣れているというのはある。それを置いても、主人公の三日月宗近は完璧にキャラクターの顕現だった。そういう点では、上記「jam」の女優さんと同じかもしれない。キャラクターによってはウイッグの髪の流れがどうにも不自然なのが気になったりもしたけど、難しいことだね。
歴史の謎を話の主軸に持ってきつつ迫力のある殺陣を交えて時代劇を成立させ、クライマックスでの新戦士の投入、ラスボス戦、という流れるようなバトルものの展開は、こういうのに慣れ親しんでいると見ていて自然と盛り上がる。特にラスボス戦は、攻撃の順番や画面の切り替えの速さ、効果音など、ゲームそのものだった。レンタルになったらまた見よう。


 前半と後半で全然ちがう話が始まったぞおい! と内心ツッコんで見た。同じ題材の映画「ハイドリヒを撃て!」は2016年にやってるのよね。これは原作小説「HHhH プラハ、1942年」があるので、多少は異なるのかもしれないけど。
なんにせよ戦争はいかん。



韓国映画はいくつか気になるのが残っている。「いつか家族に」、「共犯者たち」、「スパイネーション/自白」。うしろ二つはそれぞれ二日間限定上映なので、時間が合うかどうかわからないが挑戦したい。あとはイギリスの荒涼とした風景が見たい「ゴッズ・オウン・カントリー」と5月公開予定「RBG」。その他、オスカー受賞作はレンタルでいいかな。
「RBG」とか先日のポストの「愛と法」とかもそうだけど、この公開で見逃すとおそらく配信はなく円盤化すら…という映画が結構あるものだ。そういうのは見るのにエネルギーもいるので、映画館で見られたら万々歳ではある。

23.2.19

四分の三

インフル二巡目?! ではなかったものの、私を除く家族全員が伏せってしまった。子供たちは発熱。先日から片方がひどく咳き込み始めて、花粉症で後鼻漏的なことかなと思っていたのだけど、高熱じゃなあ。花粉じゃなかったのかー。

私も若干喉が痛いようなそうでもないような。自覚したら負け。

22.2.19

映画いくつか

年末から映画をいくつか見ては,すごく穿たれつつも消化しきれずにずっとお腹の中にため込んでいた気がする。


1 教誨師

昨年逝去した大杉漣がプロデューサーと主演を務めた映画。
教誨師とは,受刑者の心と向き合う人のことで宗教系の人が多いのかな。大杉漣がプロテスタントの死刑囚専門教誨師・佐伯となって, 何人もの死刑囚と対話を始める…という話。
順繰りに死刑囚が登場して,何周も重ねる会話の中でそれぞれの罪状や人となりが少しずつ明らかになっていきながら,同時に佐伯自身の事情も見えてくる。
罪の意識の軽重は人それぞれ。十分に反省していて実は不十分な裁判を経てここにきてしまったのではないかと疑いすら生じさせる人,そもそも現状の認識がずれている人,大事件を確信犯的起こしたのだと自分に言い聞かせている人…とまあいろいろ出てくる中で,最も大きな罪を犯したであろう若者に焦点をあててくる。この若者のお芝居が迫真的で,彼の山場はいつまでも頭から離れない。
死刑を言い渡されるということは,しでかしたことが相当ひどくて,裁判というプロセスにおいてもきちんと証拠調べがなされて間違いなくこの人が犯人だと確信がもたれているものと聞く。まして執行されるとすれば,再審にもかからず,十分に判決の確かさが関係者で共有されているものだろう。
死刑囚は,普通に生きている私たちからすればあちらの世界の人だ。
しかし,佐伯とともに彼らの話を聞くにつけ,彼らと私たちは壁一枚程度しか隔てていないものかもしれない,とも思う。同じ世界に住む人間には違いない。
でもやっぱり,普通はその壁は乗り越えない。他人を殺すなんてことはしない。
死刑囚の人々の境遇を聞きながら同情しそうになりつつも,それでも彼らの犯してしまった罪はなかったことにはできない。その手段をとらずにいられるためにはどうしたらよかったのか,ということを考えたくなる。けれどもそこで一番大きな制動をかけてくるのが,佐伯の過去だった。
この映画のことを思い出すと,何重にも思考が回り始める。簡素なつくりの非常に低予算な映画だけれども,いつまでも私の中に残っている。
こういう映画をつくろうとした大杉漣をなくしたのが本当に惜しい。


 2 愛と法

「弁護士夫夫」としてゲイカップルであることをカミングアウトしている弁護士を中心としたドキュメンタリーフィルム。国内よりも国外を意識しているのか,全編英語字幕付き。
社会的に少数派に属する人たちの問題に取り組む弁護士的側面から問題を拾い上げていくので,話題は彼ら自身のLGBT的な物語に限らない。ろくでなし子さん事件,無戸籍問題,シングルマザー,施設から出ざるを得なかった後見中の子。自分らしく生きていたいと思っても,それを実現するにはなんと障害の多いことか。やるせなくなる。
無戸籍については少しずつ復籍が進んでいるようで,そういった制度的な側面は少しずつ進展しているように思う。
だけれども,社会,他人,私たちが勝手に「世間」と呼んでいる目につきやすい意見は,まだまだ冷たいことが多い気がする。そりゃあ優しい人だっているけれども,たとえば8人に受け入れられたとして,残り2人に殺される勢いで否定されたらきっとダメージは受ける。そんな2人に出会う確率が,きっと彼らは平均よりも多い。
夫夫のうち,カズさんのお母さんは二人の関係を比較的すんなりと受け入れていたそうだ。パートナーのフミさんが後見人となっていた少年が施設にいられなくなり,一時的に二人の家に身を寄せた。この少年が二人のパートナーシップを自然にあるものとして受け入れる姿勢,カズさんのお母さんが家族という関係を広く捉えていることがこの映画全体の中でものすごく救いになる。カズさんの家族が映った集合写真の笑顔はとても美しかった。そしてこの少年は独立していく。
この映画の中でろくでなし子さんの作品を初めて見たのだけど,ものすごくアートだと思った。彼女は女性器を型取りしてオブジェにしている。その中でも,原発からの汚染水があふれ出る様子を表現したものにはとても目が引かれた。とても可愛らしいのよ。でもそこには現実を風刺する鋭い批判眼があった。


3 女王陛下のお気に入り(The Favourite)※ねたばれします

ユナイテッド・シネマの500円会員になると,毎週金曜は1000円で映画が見られる。そもそも毎週水曜はレディスデーなのでどこの映画館でも1100円になるが,水曜は都合が合わないことが多い。最近,近所に映画館が開いたので非常に助かる。全国規模の映画ならここで済む。
まあ依然として,上記12のようなのは街中まで行かねばいかんけれども。そこはそこで,朝8,9時台に上映開始の映画が1100円になるのですごい助かるのよねえ。ありがたい。そこはたいがい上映期間短いけど。2も最終日にやっと行けたんだよなあ。

それはともかく,ステュアート朝最後のアン女王の物語ということは,18世紀イギリス! 名誉革命で戴冠したオラニエ公ウィレムの次のクイーン! めっちゃ見たい! ということで行ってきた。
お転婆な娘が侍女に配置されて,偏屈女王様が心を開いていくハートフルストーリーと美しいイギリスの風景を眺めながら近代の幕が上がる…と勝手に想像していたら,とんでもない。そんな話はどこにもなかった。
イギリスの大奥だよこれ。ドラマの大奥は見てないけども。

時代考証は多分ものすごくやっている。厨房の仕事の様子,騎兵,馬車,パレスのインテリアなどなど,もう本当に豪華。眼福。お貴族さまたちもしょっちゅうくだらないあそびに興じている。もちろん,出てくる人たちはだいたい議員でもあるから,中には国のことを考えている人もいる,のか? いやないな。貴族は貴族で自分の領地のことを第一に考えているだろうし,女王陛下の味方をする人は,多分,女王という人,王制という制度に組しているのであって,広く国全体とは思っていない。おそらくこの時代はイギリスという国=クイーンだったろうから。
またお屋敷の庭,というか森がきれいでねえ。撮影は秋ごろだったのかな,ふかふかに積もった枯れ葉とか,ぼさぼさのびている広葉樹の落葉した枝とか,にもかかわらず乾燥している感じ。ほんといいわ。あーこれイギリスの森だって思った。映像は超絶きれいだった。眼は本当に楽しめた。

アン王女には古くからの友人のサラが第一側近みたいな感じで常についていて,また彼女はとある貴族の奥さんでもある。レディなの。だからその従妹のアビゲイルも貴族に連なる身分なのだけど,家が没落してしまい,なんとかサラの伝手でクイーンのお屋敷で働けないかとやってくる。というところから始まる物語。
いやこれが,百合・NTRになるとは本当に全然予想もしなくてねえ。事前にあらすじとか読まなかったからびっくりした。
冒頭から,サラは糖尿病を患う女王の手足,時には代わりに政治を動かし,超絶優秀で遠慮がない冷たい人,アビゲイルは頭の切れる親切な美しい娘,というように描かれていく。
けれども,実はアビゲイルは家の没落によって一度は娼館にまで身を落としたこともある。だからものすごく上昇志向が強い。
一方でサラは本心からアンに尽くしていた。国のことも考えている…のだけどこの人は自分の夫を戦争に出していて,そこはどうしたって守りたいんだよね。だから一度の勝利を収めても,講和に傾くことなく対仏戦争を継続することを要請する。自分の領地への重税を回避したい若い貴族議員がずっと講和を訴えているのだけど,サラは受け入れない。
アビゲイルはこれを好機ととらえてサラを貶めようとする…。

百合だけど全然甘くない。むしろ女王をめぐっての三角関係で,女同士の醜いばちばちがもうほんとにひやひやするし,あるあるって感じ。しかも輪をかけて悪いのは,女王様はこの状況を喜んでいる節があるの。サラとしてはたまらないよね。群像劇のはずが,いつの間にかサラにめちゃくちゃ感情移入してしまった。

女王役のオリヴィア・コールマンはおそらく糖尿病,かなり進行の進んでいる肥満体,をよく表していたと思う。まあでも女王は病むよ。こんな来歴があって,こんな環境じゃあなあ。アン女王は史実通りに描かれていたから。

イギリスという国全体の,特に名誉革命の後で王政は残ったものの,議会がだんだんと力を持ち,それまでの支配階級は少しずつ衰えていく時代だ。ささやかではあるけれども確実に,彼らの中には閉塞感が高まっていくのだろうと思われる。そのぐったりとした空気感がラストカットで表現されているのだろうな。いやー非常にいいね。この厭世的なエンド。くらーく終わって最高でした。
あと,イギリス人のむず痒い会話の応酬,めっちゃいいね。回りくどいと思えば突然すぱっと切り込んでくる感じ。冒頭のアンとサラのやりとりは軽妙で機知に富んでいて,とても賢いやりとりだった。ああいうの見るのすごい好き。
それからサラ役のレイチェル・ワイズはとても美しかった。私の好きな顔。

21.2.19

また飛んだ

今日は事前に出席確認のあったイベントの日だったのに、完全に頭から飛んでいた。キャンセルさせてもらったけど、もう自分が嫌になる。誰かに迷惑かけるのほんとさあ。
一昨日の衝撃を引きずってて、そこから逃げるように本を読みながら現実も捨てていたみたいだ。そう、それに加えて急激に花粉症の悪化した長男を通院させるのに、二人の習い事との時間のやりくりに朝から悩んでて、目を開けたくなかったのだった。
生活の仕方を見直そう。だめだこのままじゃ。現実に生きなくては。

19.2.19

穴を掘って隠れたい

一年ほど前にちょっとしたお話を書き始めた。それをネット上に公開して,同好の人たちとささやかな交流をしている。

今日は雨の中,太宰府天満宮まで「応天の門」展を見に行った。
これは今連載中の漫画だ。天才菅原道真(18)と在原業平がバディとなったサスペンス物語…と思って読み始めたら,業平周りの大内裏の権力闘争は始まるし,そこに道真は否応なく巻き込まれていくし,すごいぎらぎらとした物語だった。一方で,道真は自分の才が机上の学問でしかないことを折に触れて体験して,少しずつ現実にすり合わせていく知恵をつけていく,という眩しい若者の成長譚も並行して語られる。めっちゃくちゃ面白い。
作画も大変美しい。芸術方面はよくわからないけど,この作者の人はきっと特別な教育を受けている人なんだろうと思わせられる線,そして色彩。うっとりしてしまう。
それが,この展覧会では生原稿が飾られているということで,夢中になって眺めてきた。
プロット,ネーム,ペン入れ原稿,水彩の施されたアナログのカラー原稿。絵の力を感じたなあ。本当に感動した。

私は芸術,ことに絵画を見る目はない。美術館など大人になるまで遠い場所だと思っていた。それから初心者向け芸術鑑賞の本などを読んだりして全くのゼロではない状態になったものの(とは言え,限りなくゼロのままだけど),今度は絵を読もうとしてしまうようになった。
同じ絵であっても,漫画は違う。小さなころから身近にあった。今はストーリーを捉えながら絵を追うこともできるようになったが,基本的には本から与えられた画面,絵をそのままに見ていいなあと素直に感じることが比較的できていると思う。
漫画は一コマのその絵だけで意味を持つことはあるけど,ストーリーや台詞と絵が混然一体となって大きな流れをつくるものだ。なので,絵画と違って自分から本へ向けた圧力を分散することができるのだろうな。

飾られていたカラー原稿の水彩画が本当に美しくて,私もこういうのを表現したいなと思った。絵は描けないので文字で。本音は絵を描いてみたいけど,コピーを作っても仕方がない。自分だけのやり方で,となると文字となる。

さて,帰宅後にネットをつらつら眺めていたら,前にブックマークしておいた小説の読み方指南の記事が更新されていた。テーマは「小説を書かれたとおりに読む方法」,次のリンク先だ。水城正太郎の道楽生活 小説の読み そのに
書かれていないことを勝手に補完しないで,字義通りに読んでいくことを説明されていた。
鼻っぱしを殴られた気分になった。
記事はとある小説の冒頭を例示して具体的に示していた。字義どおりに読んでいくからこそ,作者が仕掛けたトリック,語り手の認識のずれが見える。
そのためにこの物語がリアリティのあるものなのか,それとも寓話的なものなのか,ファンタジーなのか,ということまで見せているのだと思う。記事の筆者はそこまでは言及していなかったけれども。
私はそこまで自覚的に読んではいなかった。わかっていたつもりで全然わかっていなかった。

しかも「字義通りに文章を読む」というのは,私の英語添削バイトの方でわりあいよく伝えていることだ。わかっていないのに偉そうに。でも,その部分はまだいい。

文章で虚構を書く,つまり小説を書く,とは文字という手段でしかできない芸術表現だ。その手法の一つが上記のようなものになるだろう。私が今日の展覧会で見た絵,それを文字で示したい。それだって一つの表現ではある。でも小説ではない。以前,某サイトの添削スレで「思い描いた映像をそのまま文章に落としても小説にはならない」と言われたことがある。当時はこの意味もよくわからなかったのだけど,一年以上たった今になってようやくつながった。
字義通りに読んで、それでもひっかかって、次へと頁をめくらせる。そこに描写や修辞法を駆使していく。そうして全体で伝えたいテーマをストーリーに載せて届ける。そういった読み方に耐えうるものこそ小説だ。
今の時点で、私が思う「小説」とはそういうものだ。

と同時に,最近,自分の書いたものに対して好意的な感触を受けて天狗になっていたことに気付いて,自分がものすごく恥ずかしいと思った。上の定義に照らせば、本当に文の羅列でしかなかった。いや、もともと小説には至っていないと思っていたけれども、これほどまでに乖離があるとは思わなかった。なんという傲慢だったのだろう。

私は今、小説を書きたいと思っている。

それにしてもこの年になってこういう羞恥心を感じるとはつゆにも思わなかった。
しばらく勉強します。どこから手を付ければいいんだろう。小説だってそれほど読んできちゃいないのだ。とりあえず図書館などで手がかりを探してみる。

5.2.19

その時が来るのは,わりともうすぐなのかもしれない

 先日,次男の幼稚園の音楽発表会があった。年中になって多くの子が4月からカリキュラム内で習い始めた鍵盤ハーモニカを吹く中,子は鉄琴を担当した。彼はこの春からピアノを習っているからか,違う役を振られたようだ。
 しかし約一か月の集中練習の中でインフルエンザで数日欠席したり,そもそも彼自身,自分のことを家で話さないタイプで,一体何をしているのか全然知らなかった。

 私は親の係として前日のリハーサルから詰めていたのだが,いやもうびっくりした。
 先生もよくこんな楽譜選んだなと思ったのだけど,鉄琴がソロでサビの主旋律奏でてるぞ! しかもノーミスでこなした。うそでしょ。思わず口からこぼれたよ。
 翌日の本番は満席の熱気あふれる会場に当てられたのか,全体的に演奏が走り気味になって,子もそれに違わず戸惑っていた部分もあったようだった。何か所か間違えたり,危うくなって伴奏の先生のピアノにフォローされたりしていた。それでも十分こなしたと思う。あとから何人かの大人にありがたくももったいないお褒めの言葉をちょうだいした。それを伝えるたびに彼は恥ずかしがって顔をしかめた。

 長男は昨年,年長組で鉄琴を担当した。また,習い事としてピアノを始めてもう四年目になる。
 次男にとって長男は神様のような部分もあり,彼が園で行ったことには憧れがあるようだった。だから今回も夢中になって取り組んだのだと思う。次男はピアノの練習もそっちのけで,この課題曲を繰り返し奏でていた。
 兄弟でも全然性格が異なっていて,長男はこつこつ努力ができるタイプだが,次男はちょっと注意されるとすぐにあきらめる節がある。長男ほど物事に没入もしない。だから伸びしろはあるかもしれないが,それを活かせないのがもったいないと思っていた。
 でも彼なりに園で練習を重ねるうちに,褒められ,励まされて成功体験を重ねて,さらに努力することができたのだろう。
 私の見ていないところですべては行われ,結果だけが呈示された。

 私がこれまで自分の頭にため込んできた役に立つのか立たないのかわからない大量の雑学は,今のところ子供にささげることしかできないと思っている。私が興味をもって何かをしている姿勢を見せて彼らの刺激になればいいし,何か困ったときに手助けできることもあるかもしれない。
 だからときどきアドバイス,あるいはクソバイスをして,わざと悪い言い方をすれば誘導もしてきた。例えば彼らの習い事は,私がやらせたものがほとんどだ。
 でも,そういった小細工がいつまで彼らに受けいれられるのかはわからない。

 長男は昨年秋に初めてピアノの発表会に出た。そのあとには,もう私が彼に何かできることはほとんどないのではと思った。
 次男もきっとすぐに,私の手を離れていくのだろう。

 この時が来るのをずっと待っていた。
 子どもたちが自立し始め,私が自分のことだけ考える割合を増やしていけるときを待っていたんだよ。
 けれどいざそれが眼前に呈示されると,もう少しだけ現状にしがみついていたいと思ってしまうのだ。

15.1.19

1/24

もう一月も半分過ぎた。でもまだ半分。

よって毎年この時期の日記のタイトルは1/12 has passed的なやつになるのだけど、さらにその半分というわけです。

年末に佐賀の方へ2泊旅行してきた。初めに佐賀県立宇宙科学館目当てに武雄へ。
いやー武雄って小さい町なんだね。人口は約五万人、かつて住んでた延岡の半分。ツタヤ図書館も見学してきたんだけど、町の中にはあとはゆめタウンが一つ、ロードサイドのチェーン店がちらほらあるだけの中では異彩を放っていたし、住民は嬉しかろうなと思った。図書館としての観点からは批判もあるだろうけど、最も利用する人たちに便利ならそれでいいじゃんね。
子連れ旅行的には、競輪場の敷地内に真新しい遊具の公園が造られていて、さらには自転車を貸し出してのBMX体験のできるコースまで常設されていたのがよかった。子供たちは大興奮でここが一番楽しかったらしい。強いリクエストに負けて、初日だけでなく3日目と2回も来たよ。となりのゆめタウンも3回行った。ぜんぜん旅じゃない…。
科学館はまあ普通、と思ってたら、ここは宇宙の展示よりも周辺の環境展示にものすごく力を入れていて(佐賀の自然、的なやつ)、そっちの方が断然面白かった。
特にムツゴロウの水槽! 水辺から泥の岸へと上がるのに、よく発達した胸ビレ二枚をまるで腕を振り回して匍匐前進するようにしてるの。古代、生き物が海から陸に上がったって言われるのはこういうのを経てのことなんだろうと自然に思った。本で読む限りは全然ぴんとこなかったんだけど。めっちゃかわいい。

それから南下して太良へ行った。有明海の西側の岸辺、さらにその西には大村市。折しも夕暮れ時、日の沈むのとは反対側の方角に、空が薄桃色から藤色へと変化して、境が曖昧になっていく内海を左手にちら見しながら運転した。チラ見! どっかに停車して眺めればよかったなー。とおくけぶる海の表面に、いくつもつきだした黒い爪楊枝、もとい海苔養殖のための杭がほわーっとぼやけているのがすごい幻想的でね。写真撮りたかった。一枚もない。老後に住んでもいい。いややっぱり大変そうだからやめる。

思えば有明海はこれが初めてだったのだ。泊まった温泉宿ではこの辺りの名物竹崎ガニ、カキ、イカをよく食べた。カニとイカはもともとここで獲れるものだったらしいが、カキは宮城から導入して10年ほどだそうだ。以前の主要品目だった貝類(名前忘れた)が激減して、代替品として持ち込んだところ、海流や水温がカキに合ったのか、成長率が二倍で、今ではすっかり定着したとのこと。
みかんも産地だが、温州みかんやはるか、ぽんかんなどだけでなく、スペイン原産のクレメンタインもよく見られる。

そういえば、科学館に郷土の偉人の紹介がいくつもあって、西欧の進んだ技術を取り入れる土壌はもともとあるのかもしれないなと思った。牛痘の導入は佐賀の鍋島藩が全国に先駆けていたし、電信の原型や、ああ、我らの大隈重信も佐賀出身だ。拓けた土地なのかもしれない。

三日目は一年半ぶりの長崎バイオパーク。リスザルの猛攻に負けて、あいつら私の布袋から大切な高級手袋持って行きやがった! 手首のファーをべろべろにしゃぶっていたけど、15分ほど待ったら飽きたのか樹上から投げ捨ておった。返ってきてよかったよ。帰宅してすぐに洗った。動物に餌やりできるのがウリで、いいのかなーと思いつつも楽しんでしまった。それから競輪場に再度寄って帰路についた。

佐賀大好き。