5.9.20

ほんとうに困難な境遇にいる人のことは見えない

 「UNHCR難民映画祭」を見た。

全六編。いずれも祖国で安全に暮らせない人々を撮影したもので,難民キャンプに暮らしていたり,すでに他国に逃れたもののその地での身分が安定しなかったり,援助を求めて自らの苛烈な過去を語り訴えたり,様々だ。

映画作品として成立しているので,撮影者の安全やそれを作品として全世界に公開するルートがすでにある。彼らは困難な環境にいるとはいえ,まだ”いい方”だろう。

難民や移民といえば,大学院の時に秋学期の最初のコースで少し触れた程度だった。アメリカに暮らしたときに初めて難民として移民してきた人たちと知り合った。私は何も知らなかった。

ヴィエト・タン・ウェン編「ザ・ディスプレイスト」を読んでいる。編者による前書きに,この本は移民の作家による記憶の記録だが,物語の力に読者が感心しているだけではだめだとある。

読者も作家も,文学が世界を変えると自らを欺いてはいけない。文学が変えるのは読者と作家の世界だ。人々が腰を上げて世界を出て,文学が語る世界のあり方を変えようとなにかをすることで,ようやく文学は世界を変えることができる。

作家や代弁者に頼ることなくすべての声なき者が自分の物語を語ることができ,それに耳が傾けられるチャンスが社会的,経済的,文化的,政治的に確保されている,そんな世界をつくることにこそ,ほんとうの正しさがある。

角度はやや違うが,私の理想のひとつは,誰もが声をあげられる環境が整うことだと思っている。でもそれだけではだめで,受け手がいなければいけないのだな。

初めて読んだ移民の話は Khaled Hosseiniによる"The Kite Runner"だった。夫の留学についていったアメリカ滞在時のことだ。経済的にも社会的にもなんの不安もない状態であったにもかかわらず,私は自分自身に在米する理由が見つけられずとても心もとない気持ちでいた。そんなとき,ディスプレイスメントを受けた小説の登場人物たちに心を寄せて自分を慰めたものだ。しかし,たぶん今なら,そんな行為は文化的盗用だと疑われるんだろうな。