31.3.19

三月も終わりだというのに



 これから寒の戻りがあると天気予報が言っていた。あさっての四月一日からがくんと気温が下がるらしい。
 いま、実家に帰省している。
 向こうを出た十日前には、まだ桜がほころび始めたところだった。その後すぐに満開になったと聞いた。
 温暖だと名高いここでは、ずっと天気がぐずつき気温は低いままで、したがって桜の開花も進まない。加えて大気の不安定のためか、あるいは海のそばのためか、日中に春一番が吹き荒れていた。遠州の空っ風とはよく言ったものだが、それとはやや趣の異なる強風ではあるものの、なんにせよ冷たい風に身を晒していると実に体力を消耗する。
 今日になってやっと寒くもなく風もない、待ち望んだ春がやってきた。けれどそれも、夕方からまた束のような雨が降るまでのわずかな間のことだった。
 あさって帰る。彼の地の予想最高気温は11度とある。私のいく先はずっと冬の中にいる。
 このまま今年が冷夏になったらどうしよう。

13.3.19

さむい

 冬が戻ってきた。日差しは春に近いのに,大気が冷たいのでつらい。

 ここ4,5年の夏は,夜にざっと雨が降って,朝一からぎらぎらと太陽が照りつけてくる印象がある。もっと昔はそういう夕立めいたものは夕方に起こっていたのに,それだけ気温が上がり過ぎてうまく雲が形成できなかったり,雨にならなかったりしているのだろう。
 その夜中の嵐が,今,この冬と春の境目に起きている。今年は暖かい冬だったこともあって,例年より暑い大気が入り込んでいるのだろうか。ここ数日は深夜にかかる時間帯になると,砂礫が窓にぶつかっているかのような大騒動が聞こえてくる。
 昔,IF科学読本で,地軸が傾いていなかったらどうなるかというのを読んだことがある。
 太陽からの距離が常に一定になるので,地域ごとに気候差がくっきりと現れるのだそうだ。赤道面は常にスコール,熱帯・温帯・冷帯と温度の異なる大気が混じり合って恒常的な嵐,極地方は氷に閉ざされる。ただ極夜はないので,太陽光が届く分だけ多少は生命が繁栄しそうな気もする。
 そんなことを思い出す大雨の音を聞きながら眠りにつく今日この頃だ。

10.3.19

こんこんこんこんくしゃん!

 今日は一年分くらいまとめてくしゃみをした。もういい加減にしてほしい。私は花粉症ではないし、エコチル調査で調べたIgE値は8だった。ないも同然なのに。
 まあ、昔から鼻炎っぽいのはあった。でもそれはさ、反射だよ。人間だから。鼻に異物が入ったら鼻水出るよ。当たり前でしょ。
 ちなみに夫はすごい。目にくるタイプで、まさにふなっしーが目汁ぷしゃーって暴れてる。信じられない。でもIgE値が300近かったので、やっぱりこれが現実で、お気の毒さまというよりほかない。
 雨の日は花粉の飛散はないと聞いていた。でも、先日お医者が言ってたのは、雨だと地面に落ちた花粉が粉砕されたやつが舞い上がってくるから、やっぱダメだって。逃げ場がない! しかもこの時期大陸からもいろいろ飛んでくるし。そっちのせいでしょ、このくしゃみは。

 ところで、今これiライターズってiPhone アプリで書いてるんだけど、めっちゃいい。超親切。横縦どっちでも書けるし、挙動が速いし、独自の辞書を持ってるし、半角文字列のあとに自動で半角スペース入った。気がする。iPhone の入力UIでは非対応の全角スペースも常時表示のコマンドからタップ一つで入力できる。最高。今後はこれとDropboxでいく。
 iPhone とPCとでやり取りするのにずっとiPagesを使ってたのをやっとやめられる。iPagesは入力時と閲覧時で画面の大きさが自動で切り替わるのがすごい邪魔でね。縦書きアプリの縦式も同じ理由で好きじゃない。とはいえ書くときには縦にはしないけど。

8.3.19

やっぱりこの作者だった

漫画「Blue Giant」を読んでいる。ジャズのテナーサックスを吹く主人公がひたむきに努力していく話。メンバーを見つけて三人でバンドを組んで、それぞれ頑張りながら成長していく。めっちゃ良い。最終巻は全話号泣した。

なのにさ、最後の最後、このシリーズを終わらせるのにええええーって展開になってしまった。あーこの作者、前作の「岳」も…ということを思い出した。
今、続編のシリーズが連載中なんだけど、相変わらず熱くて泣けるんたけど、いつひっくり返るか心配。

一生懸命がんばっている姿に胸を打たれることが増えた。年を取ったからかな。10代、20代、30代と、ひねくれたり斜に構えたりいじけたりしてきた。そういう曲がった自分の視線が、最近、ようやくまっすぐになりつつあるのわかる。
去年知ったエレカシに感銘を受けたのも、一周回って素直に前を向いている彼らの姿が、自分の流れに沿うものだったからと思う。
命の残り時間ということを考える。回り道をしているのがもったいない。

来月には40才になる。まさかこんな年齢まで達するとは、と不思議な気分でいる。
あと二年で、私は父を追い越す。

3.3.19

おまじない

ようやく読めた。西加奈子の「おまじない」。図書館のウェイティングリスト143位が1位になるまで一年くらいかかったぞ。もう買ったほうが早いんだけど、まあねえ。図書館を無料貸本屋と取り違えてる。ごめんね。

PR誌に掲載された短編連載をまとめた一冊で、どれも女性を主人公にしている。年は子供から大人までいろいろ。掲題作「おまじない」はストレートに、他の作品はその程度に差はあれど、どれも”おまじない”に導かれ、あるいは縛られている様子が綴られる。
言葉や考えがわたしの生き方に自ずと限界を作る場合がある。それは目標だったり、過去に諦めたなにかだったりしたのだろう。けど、頭の中でこねくり回して、年月がすぎて、変質したものであっても、もう一度見直してみればまた違った形でわたしを照らすかもしれない。そしたら別の世界が眼前に広がっているかもしれない。し、そうでないかもしれない。なぜならその世界がどうあるのか、どう見えるのかはわたし次第だからだ。
世界の見え方はいつも一通りではないこと、自分次第で変わることを、どの話もささやかに見せてくれる。

ということはこう、読んでるとぼんやりとわかる。上の部分はほぼ指先だけで書いた。それくらい適当な感想。

この本ね、全然違うところでめっちゃえぐってきた。
この人の、語彙、文章の長短から表れるリズム感、ここで改行入れるんだ入れるよね! 的な文章の流れ、内容では小さな発見を必ず仕込んでくるところ、おおよその登場人物にきちんと歴史があること、もう全部が全部、私の理想のはるかその先だった。この文章の海に落ちたら、私なんかもう溶けてばらばらになってなくなる。だってここに全部あるんだもん。すごい羨ましいし、悔しい。

この前に読んだのは2010年発刊の「炎上する君」だった。このときは登場人物の心情へがつがつ踏み込んでいく感じだったんだけど、今回は作者はより控えめに登場人物を眺めているように思えた。前のは馴染みないこともあってとても新鮮だった。でも今回の方が親しみを感じる。そりゃそうだ、ベクトルが近いんだもの。

ということばかりがちらちらと頭によぎって、内容は上っ面にしか読めなかった。その上で、正直、展開が急だなと思うこともあったし、前に読んだのに比べてその心情の因果関係甘くない? と思うこともあった。
でもその飛躍感も含めてすごい「わかる」。
書かれている物語すら通り越して、作者のなにか魂みたいなのに手を伸ばしながら読んでいたような気がする。
とても悔しい。私はとてもこんなのは書けない。書きたい。書けない。でも書きたい。
 
上滑りにしか読んでないけど、悔しすぎて読み返すことができない。
貸出票には、私の後ろに予約がついてるよとご丁寧にも注意書きがついている。はやいとこ返却しに行こう。 でもきっとこの感情はしばらくおさまらないだろうな。

1.3.19

狙ったわけではなかったけれど

今日は朝イチの回で「翔んで埼玉」を見に行くつもりで劇場についたのよ。そしたら、今日だけは9時半の回がお休みだった。次は12時からだった。映画館が入っているショッピングセンターにも用事はあったものの開店前だった。家に帰るのもおっくうだ。よし、違うのを見よう。

というわけで、「アリータ: バトル・エンジェル」を見たの。
原作は漫画の「銃夢」。1990年の作品だって。これを読んだのと同じタイミングで、弐瓶勉の「BLAME!」や「シドニアの騎士」もまとめて読んでいて、どれがどれだったか印象がごちゃごちゃになっていた。どれも近未来、サイボーグ、ヒトの尊厳などぺらっぺらになっているので平気で命が散っていく系統の話。映画を見た後の今になれば、一番人間を描いているのが銃夢だったようにも思う。なんにせよ全部SF系だ。
あっ、今wiki見たら、映画と原作とだいぶ違うなあ。すごい似ている気がしたんだけど。映画は原作よりももっと人の物語だった。

スクラップ置き場に捨てられていた、脳だけが生きていたサイボーグ部品からサイバネ医師のイドが治したのが主人公のアリータだ。記憶はなく、イドの家に世話になりながらこの世界で生きる道を見つけていく。街では義体のパーツ取りのために襲撃に遭うのなんて日常茶飯事で、治安を守るロボットガードは人を守るという目的には全然役に立ってない。というより、それだけ人間に価値がないんだな。劇中でばっさばっさと人は殺されていく。完全な人型アンドロイドはまだおらず、知性があるのは人間だけ。
この話の舞台には、特権階級の暮らす空中都市ザレムと、地上には社会的・物理的に下層レイヤーを成すアイアンシティとがある。イドとアリータはアイアンシティにいる。アリータはある時、ザレムに行くことを夢見て懸命に働くヒューゴに出会う。
サイバーパンクの世界観といえば、返還前の香港のぐちゃぐちゃに建て込んでいた九龍とか、FF7のミッドガルとか、FF10のザナルカンドとか。その町並みが、現在のVFX技術でものすごく緻密に描き込まれていて、パンで映る街全体の画にはほんとしびれた。映画館のでっかいスクリーンだからものすごく迫力があるし、細かいところまで見えちゃうからね。
アリータの監督は「アバター」も過去につくっているので、あーなるほどね、と腑に落ちた。アバターはIMAXの劇場を探してわざわざ行った。ボストンにいるときに。懐かしい。あのときも、ものすごい背景だな―と思ったんだった。帰りの運転中にぽーっとしたもんねえ。

終劇後、子の降園までまだ時間があり、この勢いを逃したくなくて「翔んで埼玉」も見たのだ。やっぱ1000円で見られるってのが大きい。そうでなければそもそも来ないし。

こっちは原作未読だったけど導入部の設定は知っていた。東京都様の前に埼玉がでてくるなぞ頭が高い! 控えおろう! 的な社会。これでもかなり穏当な表現。埼玉人というだけで拘束されて放逐されるのとか、これ日本以外で見せるとかなりやばいんじゃないかって思うね。最近「ナチス第三の男」見たばっかりなので、どうしても重ねてしまう。
まあ、そういう東京を打倒するという流れになるのでいいとは思うけど。
都知事こそ神様みたいな世界観で、その都知事養成のすげえブルジョワ・ハイソな学校に、都会指数の超高いアメリカ帰りの都会エリートが転入してくる。根拠不明の権力を持つ生徒会長がその転入生に鼻をへし折られて…というところから始まる。

映像、展開、ガクトのやけに上手なお芝居、伊勢谷友介の妖しい色気などに惑わされつつも終始肩を震わせてしまった。どっかんどっかん笑うわけでもないんだけど、こう、ばかばかしすぎて笑うしかない感じ。

なんだけど、この話はその生徒会長の子に視点を合わせていると、すごく私の好きなタイプの物語だった。ぜんぜんわかってない箱入り息子が、自力で、他人と協力して、自分の大事なものと引き換えにしても譲れない何かを押し通した。誰かを助けるために働いた、そうして周りの人との関係性も変わっていく、という感じの若者の成長譚。
伊勢谷友介とガクトの官能的な場面もすごかったけど、それより印象に残ってるのはこの生徒会長を演じた二階堂ふみだなあ。

まったくそんなつもりではなかったけど、この二つの話はどっちもそんな風に「育っていく」話だったのよね。リンクしたなあ。

ところでアリータを見てるときに、この上層・下層構造の話で最近読んだ中華SFの「折りたたみ北京」を思い出した。下層の人がなりゆきで上層に届け物をしに行くだけの単純な物語。この北京が文字通り折り畳まれる構造物と化していて、それぞれの層はそのまま社会構造を照射している。それぞれの生活描写があまりにリアルで、これが現在の都市部とその周辺の中国なのかと想像すると苦しい。主人公が上層を知ってなお、自分にはそもそも関係ないことだと手放してしまうのが切ない。ああ、そういえば昔読んだ魯迅の話にいくつかそういうのあったなあ。社会のレイヤーを越えることを端から諦めて、周りに当たるだけの人々を批判する主人公の話。そうそう変わらないということかもしれない。
ただ、そういう社会の層を越えるか否か、越えたいと思えるか否か、難しいんじゃないか、というのは全世界に共通して見られることであるし、日本だってもう例外ではない。

夜にアマプラでペンタゴン・ペーパーズをまた見た。去年劇場で見て大興奮した映画。全部知っててもやっぱり興奮した。話は一本調子の時系列を追うだけだし、特別な演出もないんだけど、主題が圧倒的すぎる。現実はすごいし、現実の方がおもしろいって思ってしまうのは仕方ないよなあ、とこういうのを見て思う。