1.3.19

狙ったわけではなかったけれど

今日は朝イチの回で「翔んで埼玉」を見に行くつもりで劇場についたのよ。そしたら、今日だけは9時半の回がお休みだった。次は12時からだった。映画館が入っているショッピングセンターにも用事はあったものの開店前だった。家に帰るのもおっくうだ。よし、違うのを見よう。

というわけで、「アリータ: バトル・エンジェル」を見たの。
原作は漫画の「銃夢」。1990年の作品だって。これを読んだのと同じタイミングで、弐瓶勉の「BLAME!」や「シドニアの騎士」もまとめて読んでいて、どれがどれだったか印象がごちゃごちゃになっていた。どれも近未来、サイボーグ、ヒトの尊厳などぺらっぺらになっているので平気で命が散っていく系統の話。映画を見た後の今になれば、一番人間を描いているのが銃夢だったようにも思う。なんにせよ全部SF系だ。
あっ、今wiki見たら、映画と原作とだいぶ違うなあ。すごい似ている気がしたんだけど。映画は原作よりももっと人の物語だった。

スクラップ置き場に捨てられていた、脳だけが生きていたサイボーグ部品からサイバネ医師のイドが治したのが主人公のアリータだ。記憶はなく、イドの家に世話になりながらこの世界で生きる道を見つけていく。街では義体のパーツ取りのために襲撃に遭うのなんて日常茶飯事で、治安を守るロボットガードは人を守るという目的には全然役に立ってない。というより、それだけ人間に価値がないんだな。劇中でばっさばっさと人は殺されていく。完全な人型アンドロイドはまだおらず、知性があるのは人間だけ。
この話の舞台には、特権階級の暮らす空中都市ザレムと、地上には社会的・物理的に下層レイヤーを成すアイアンシティとがある。イドとアリータはアイアンシティにいる。アリータはある時、ザレムに行くことを夢見て懸命に働くヒューゴに出会う。
サイバーパンクの世界観といえば、返還前の香港のぐちゃぐちゃに建て込んでいた九龍とか、FF7のミッドガルとか、FF10のザナルカンドとか。その町並みが、現在のVFX技術でものすごく緻密に描き込まれていて、パンで映る街全体の画にはほんとしびれた。映画館のでっかいスクリーンだからものすごく迫力があるし、細かいところまで見えちゃうからね。
アリータの監督は「アバター」も過去につくっているので、あーなるほどね、と腑に落ちた。アバターはIMAXの劇場を探してわざわざ行った。ボストンにいるときに。懐かしい。あのときも、ものすごい背景だな―と思ったんだった。帰りの運転中にぽーっとしたもんねえ。

終劇後、子の降園までまだ時間があり、この勢いを逃したくなくて「翔んで埼玉」も見たのだ。やっぱ1000円で見られるってのが大きい。そうでなければそもそも来ないし。

こっちは原作未読だったけど導入部の設定は知っていた。東京都様の前に埼玉がでてくるなぞ頭が高い! 控えおろう! 的な社会。これでもかなり穏当な表現。埼玉人というだけで拘束されて放逐されるのとか、これ日本以外で見せるとかなりやばいんじゃないかって思うね。最近「ナチス第三の男」見たばっかりなので、どうしても重ねてしまう。
まあ、そういう東京を打倒するという流れになるのでいいとは思うけど。
都知事こそ神様みたいな世界観で、その都知事養成のすげえブルジョワ・ハイソな学校に、都会指数の超高いアメリカ帰りの都会エリートが転入してくる。根拠不明の権力を持つ生徒会長がその転入生に鼻をへし折られて…というところから始まる。

映像、展開、ガクトのやけに上手なお芝居、伊勢谷友介の妖しい色気などに惑わされつつも終始肩を震わせてしまった。どっかんどっかん笑うわけでもないんだけど、こう、ばかばかしすぎて笑うしかない感じ。

なんだけど、この話はその生徒会長の子に視点を合わせていると、すごく私の好きなタイプの物語だった。ぜんぜんわかってない箱入り息子が、自力で、他人と協力して、自分の大事なものと引き換えにしても譲れない何かを押し通した。誰かを助けるために働いた、そうして周りの人との関係性も変わっていく、という感じの若者の成長譚。
伊勢谷友介とガクトの官能的な場面もすごかったけど、それより印象に残ってるのはこの生徒会長を演じた二階堂ふみだなあ。

まったくそんなつもりではなかったけど、この二つの話はどっちもそんな風に「育っていく」話だったのよね。リンクしたなあ。

ところでアリータを見てるときに、この上層・下層構造の話で最近読んだ中華SFの「折りたたみ北京」を思い出した。下層の人がなりゆきで上層に届け物をしに行くだけの単純な物語。この北京が文字通り折り畳まれる構造物と化していて、それぞれの層はそのまま社会構造を照射している。それぞれの生活描写があまりにリアルで、これが現在の都市部とその周辺の中国なのかと想像すると苦しい。主人公が上層を知ってなお、自分にはそもそも関係ないことだと手放してしまうのが切ない。ああ、そういえば昔読んだ魯迅の話にいくつかそういうのあったなあ。社会のレイヤーを越えることを端から諦めて、周りに当たるだけの人々を批判する主人公の話。そうそう変わらないということかもしれない。
ただ、そういう社会の層を越えるか否か、越えたいと思えるか否か、難しいんじゃないか、というのは全世界に共通して見られることであるし、日本だってもう例外ではない。

夜にアマプラでペンタゴン・ペーパーズをまた見た。去年劇場で見て大興奮した映画。全部知っててもやっぱり興奮した。話は一本調子の時系列を追うだけだし、特別な演出もないんだけど、主題が圧倒的すぎる。現実はすごいし、現実の方がおもしろいって思ってしまうのは仕方ないよなあ、とこういうのを見て思う。

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