25.4.18

手が回らない

しばらくこちらに滞在して手伝ってくれていた母が帰り,やることが山積しているのにどこから手をつけるべきか手をこまねいている。

とりあえずは仕事だ仕事!
 英語のダイアログを聞いて,そこに続く会話を作りなさいって問題の添削をしてた。
A「この間貸したCD,返してよ」
B「えっごめん,無理」
A「なんで?」
でBの返答を作文させる。確かめたいのはここまでの理解と,作文の文法的正確さなわけだから,話がつながれば内容はなんでもいい。
とはいっても「又貸ししてるから返せない」という返答はダメだと思うんだよね。人間的に。勝手に貸すなよ! お前のじゃないよ! と私がAだったら思うわけです。
いいじゃん,「ごめん今日は持ち歩いてないよ,明日持ってくる」でさ。

まあどうでもいいけど。

この辺の春の旬の魚は芝エビ,あさり,きびなごだ。きびなごは小さい。料理屋で刺身が出るけど,よくあんなこまいのをいちいち下すなあと感心する。家ではとてもやってられないので,まるのまま粉を振って揚げる。
ついでに夫の弁当に入れてやった。そしたら「イギリス料理リスペクトしてるんでしょ」とのご感想を受け,スターゲイザーパイを知っているあなたもなかなか……と思った次第。

こういうどうでもいい(二度言った)日記を書いてるから時間が無くなるんだよね。

今したいこと。
月初に行った旅行を振り返りたい。
図書館で借りてきた西加奈子「炎上する君」を読みたい。
お手紙書きたい。うんと長いやつ。
更級日記の大人編がモラトリアムな私にめっちゃ刺さって痛いので早いとこ読み終わりたい。
「ペンタゴン・ペーパーズ」見てから気になってる部分を図書館で調べてまとめたい。
 27日に封切する映画「君の名前で僕を呼んで」見に行きたい。昨年末からちょこちょこ宣伝されているのを見て,見たいなーと思ってきた。こういう恋愛が主題のフィクションは久しぶりだ。 来週の水曜日が狙い目だな―。
 あとあれ,西加奈子の新作が先月出てた。「おまじない」。いつか椎名林檎との対談で「女の子の友達以上恋愛未満の関係を書きたい」と話してたやつだろうと思う。読みたい。

22.4.18

くじ運

雁ノ巣レクリエーションセンターで行われている〈ガンレクフェスタ〉に初めて来た。

ここで普段からやってる子供向けスクールの無料体験の対象年齢に、ようやく次男も達した。よって二人まとめて放り込める。はーここまで長かった。

福岡はホークスもアビスパもあるので、ここの野球教室とサッカー教室は関係者が教えてくれるらしい。なかなか貴重な体験になると思う。近年は子供向けイベントがたくさんあっていいねえ。

ガラポン抽選会に参加したら、次男がアビスパ福岡の選手のサインボールを当ててしまった。すごいくじ運だ。今、井原監督なんだってね。Jリーグ発足時の選手は少しは知ってるけど、さすがにどのサインがそれかは……。

20.4.18

Happy my birthday!


子供が小学校に上がると何かと気ぜわしいもので,こんなに緊張で息を詰めた4月は初めてかもしれない。まだこの先,家庭訪問と親子遠足,その後にPTAイベントが控えているが,入学式・始業式から続く一連の予定は一段落した。ほっとした気持ちで食べるイチゴのショートケーキは至高でした。

こんな派手なガーベラは初めて見た。といっても,花のことはよく知らないけど。
オレンジがかったピンク色の一重のガーベラが似合うと何人かの友達に言われたことがある。はてさて,今もそのイメージは残っているのだろうかね。ちょっと褪せてきてないか? と思わなくもない。がんばろ。

19.4.18

映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を見てきた

働く人たちの話は心が踊るね。おもしろかった。

以下自分のためのメモ。

ペンタゴン・ペーパーズ

主人公;ケイ
ワシントン・ポスト紙の社主。家族経営の地方新聞社だったが、今ではそこそこの規模となっている。45歳の時に入婿で社主を継いでいた夫が亡くなり、専業主婦から自ら社主になる。
もともと聡明な女性、話題も豊富で仕事にも思慮が深いが、自分の意見を述べるののに自信がない。本編冒頭の理事会で株式上場の提案のため、念入りにメモを作っているが、いざその場になると言葉でなくなり、取締役のフリックが代弁した→のちに編集主幹のベンが、まわりからよってたかってお前は求められていないと言われてしまって完全に挫けてしまっていると擁護している。
取締役のフリックはケイのよきアドバイザーではあるが、父時代(または夫時代?)からの側近ゆえに、完全にケイの味方ではない。保守的。
やむを得ず表に立たないといけないときのために十分な準備もしている。夫の葬儀のときにもスピーチのメモを作っていた。遺された新聞社を家族のために守る、けれども新聞社としての理念も守るとする精神がこの時にすでにある。娘がこのメモを引き出してきて、読み上げてもらった時に、当時の精神を思い出したのだろうな。

新聞社のためにコストがかかっても良い記者が必要だとは本編冒頭で述べていて、質の高い新聞作りを強く意識している。よってベンに意見が近い。


ベン 
編集主幹で革新的。今なら事業は女性が継いでもいいと思っている。職場の政権にまったくおもねらない女性記者の記事を一番擁護しているのがこの人。表現の自由をうたった修正一条を誇りに思う。

あらすじ
現地調査員としてベトナム戦争の前線に送り込まれたロンは,従軍調査をしていく中で,戦況悪化にも関わらず歴代政権はその事実を隠して戦争継続していることを知る。そのため,帰国後に一連の戦争報告書である通称ペンタゴン・ペーパーズを,所属のランド研究所へと持ち出した。
そのコピーが初めに持ち込まれたのはNYタイムズ社だった。世紀の大スクープに,主人公ケイが社主を務めるワシントンポストは臍をかむ。が,ポスト社にもコピーの一部が謎の少女によって持ち込まれ,それを端緒にポスト社からロンへの接触もなされ,すべてのコピーが手に入る。
NYタイムズが報じたペンタゴン・ペーパーズの記事はすぐさま政府より差し止め請求がなされ,タイムズ社はそれに応じていた。よって同様の記事を公表しようとしているポスト社は,秘密保持法だけでなく、国家反逆罪にも触れる。さらに情報源が同じならばNYタイムズと共謀罪に問われる可能性があるとわかった。
同時期に進んでいたワシントン・ポストの株式上場は、罪に問われればおじゃん。ここはまとめて解決することになるだろうとは思っていたけど。
新聞社は潰れる、記者たちも捕まる、新聞業界としても言論の自由を奪われる、で、全部潰れる可能性がある。けれども、「発言への圧力は発言にて抵抗する」と,編集主幹のベンは記事にする姿勢を保ち続けた。
記事にするか否かを最終的に決めるのは社主のケイ。父,夫と連なる旧世代の理事たちに猛反対される中,記事にする決断を下す。
高裁ではNYTは差し止め、ポストは御咎めなし。最高裁では6対3で勝ち。賛成派裁判官の意見では「言論の自由はガバナー(政権)ではなくガバーン(国民)のためのもの」であるとした。

雑感
ここまではまるでメディア対国(ニクソン)だけの話で、ラストもウォーターゲート事件を仄めかす形でニクソンを悪役に仕立てて終わっている。ガバーンのためと言いつつ、登場する一般人はデモ活動をしているヒッピーモブくらいだった。

ペーパーの流出からNYTが記事にするまで3ヶ月、それからポストにリークがあった。持ち込んだ少女の身分が明らかにならないまま、リーク元に目星をつけた記者がダンに接近して、ペーパー本体を手にすることができた。少女は最高裁で再登場する。ケイの外見だけは知っていて、自分の身元を明かした。国側代理人のアシスタントだったが、兄がベトナムに送られているというだけの一般人だ。ここで新聞社とは無関係の人物をねじ込んでくることで、この問題がメディアだけではなく、国民全体に関係するものだと示唆する。

思えば初めから登場人物たちの価値観は一定で、約一週間という短い期間で、ケイはほんの小さな意識改革をし、ベンは自分の仕事をしながらもケイやジョイスのような女性たちの立場に意識を広げ、フリックは自分が旧世代であることを認識した。一人一人は本当に小さな変化しか起きていないけど、新しい未来を暗示する変化でもある。

昔の新聞の版下を作る工程、印刷工程なども見られたのが興味深い。活字鋳植やってた。初めて見た。最後の印刷された新聞が天井高くまでコンベアで運ばれていく中をケイとベンが去っていくロングショットは最高だった。「刑事訴追あるかもよ」「そこはあなたがなんとかして」というフランクな二人の会話。ちょっと際どいジョークにニヤリとする。 

この映画は、「レディ・プレイヤー1」の撮影中だったスピルバーグが脚本を見て,今撮るべき映画だと2017年6月から11月6日まで撮影。公開は18年1月。かなり突貫。
だからか,人物描写など少々甘いようにも見えた。粗削りな感じ。Twitterのような映画らしい。今出さないといけない,ということだろう。今見るべきだと思った。

スピルバーグは社会派とエンタテイメントを同時に撮影していくのか? 今回はジュラシックワールドも並行している。かつて,ジュラシックパークとシンドラーのリストを同時制作していたときと同じ手法を使ったらしい。私がかつてみたアミスタッドもロストワールド(ジュラシックパーク)と同年公開だったし。

ところで合衆国憲法修正第一条は「議会は、国教の樹立を支援する法律を立てることも、宗教の自由行使を禁じることもできない。 表現の自由、あるいは報道の自由を制限することや、人々の平和的集会の権利、政府に苦情救済のために請願する権利を制限することもできない」
Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or     prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech,
or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the government for a redress of grievances.

というやつで、いろんな自由を規定している。
このうちの言論の自由については,起草者の意図なども残っておらず,その意図するところは不明。ただ,本国イギリスでも検閲からの自由が求められてきたのだから,合衆国憲法においても検閲を排除するのが第一の目的となろう。(「アメリカ憲法入門」松井茂記、有斐閣2007)
政治的な意思を自由に表明しあえる環境にあることで、意見ももみ合って発展していくし、結果としてよりよい社会が築けるところに、言論の自由を尊重すべき理由がありそうだ。

イギリスの表現の自由はどうなってんだろう。と思うだけで調べずにいる。

15.4.18

1000年前と変わらないものだなあ

更級日記を読み始めた。まだ冒頭だけど、とにかく本を読みたい菅原孝標女にめっちゃ共感する。

十七段の「早く帰って部屋に閉じこもりたい。念願の源氏物語を、寝っ転がって(ここ大事)、一巻から順番に読むんだ…! 最高でしょ?!」とこの時代に文字で表現してるのすごい。
后の位も何にかはせむ。入内するより今こうして読みふけっている方がずっと素晴らしいんだって、とんでもない感覚だ。

さらに「昼も夜もなく読みまくってるから、自然に暗唱しちゃうのすごくない?」とか「今のアタシはお世辞にも器量良しとは言えないけど、年頃になればきっと(儚くて美しかった)夕顔や(薫が入れ込んだ)浮舟の姫君みたいになれるに違いない」とか、若い娘のふわふわした感想が続く。

このあと、大人になって筆者がやるせない日々を送ると文庫裏表紙のあらすじでネタバレされている。だからこその、こんな少女時代なのかもしれない。

13.4.18

三種の神器

アンバーエール、チップス、モルトビネガーは至高。

大人だけで夜遊びだなんて、最高だね!

ついでだから、まあ聞いてよ

最近、テレビドラマを見るようになった。というのも、ちょっとついった再開しようかなと思って、いろいろ見てくうちに割と好きな感じのツイートをしている人たちがこぞって趣味としてのドラマ実況をしていて、その影響で見た前期の法医学ドラマ「アンナチュラル」がめちゃめちゃツボにはまり、すごく面白かったのよ。

でももともと継続する力がない私、すでに大河ドラマの「西郷どん」は脱落。もちろんNHKの朝ドラは見てない。有働さんイノッチ柳澤さんが卒業となったあさイチですら、最後20分となったところで気づいて急いで録画ボタンを押す感じ。テレビをそもそも見る習慣がないよ。なのですぐ忘れる。

今、昔の朝ドラの再放送をしてる。朝は「マッサン」、夕方は「カーネーション」。後者はとくに、最後まで見ればものすごいお釣りがあると既視聴者たちがこぞって褒め称えてるから、録画はしてる。でも見れない。見てない。溜まってく。見たいんだよ! でも見る心の余裕がない。

子供のついでに見てる「仮面ライダービルド」だって、ここ二回見られてない。話が一気に動いたし、監督が私の好きな人なので見たいんだけど、なかなか手が伸びない。

今期は検察官ドラマの「正義のセ」、海堂尊の「ブラックペアン」があるので気にはなってるのだけど、原作があるとなると、本読めばいいじゃん、と思ってしまう。

映像って、まどろっこしくて見られなかったな。人が朗読するのだって聞いてられない。小学生のころ、国語の時間に他の児童が当てられて本を読んでる時、聞くのに集中できなくてページをめくって勝手に読んでた。そんなのが原初体験みたいになっちゃって、先入観から抜けられなかったんだけど、映画やドラマが前よりは見られるようになってきた。というのも最近、本を読んでて理解スピードが落ちてきたからだ。暴走列車のような脳みそがちょっと力尽きてきたんだろうな、と思ってる。つまり耳から入る情報の処理サーキットが弱かったのに加えて、他の能力も落ちてきたってこと。

物語に没入すると、目は文字を追っていながら、脳内にはその映像がぶわっと広がっていて、登場人物たちがリアルに動いているんだよね。本を読む、というより、頭の中に再構成された映像を見て理解している、という感じ。そういうのは物語とか、物語性の強いエッセイでしか起きないんだけど、とにかくそうやって私はずっと本を読んできた。それこそ物心がついたときから。
だから法学部の学生になっていわゆる基本書を読み始めてから、眼の前で文字通りスパークした感覚に何度もなって、内容が入ってこなかった。現代文の授業で読んできた論説文とも違う、完全に内容を伝えるためだけの文章を読むのはあの時が初めてだったのかもしれない。映像に置きかわり得ない、文字そのもので内容を理解するということね。論説文は現文の国語の授業で扱う題材だし、文章そのものの芸術性みたいなものも見え隠れしていたと思うんだよね。そっちのほうが、それまで読んできた一般的な「本」に近かったと思う。


ところで読解力と言えば、ミスチルの歌に「ニシエヒガシエ」ってのがあるんだけど、歌詞の冒頭で

(前略)すっぽんぽんにしちゃえばおなじもんがついてんだ
めんどくさくなって送るのもよして
一人きり情熱を振りかざすバッティングセンター

のとこは、脱がせたら同性(この場合は男性同士)だってことが分かって、部屋からおざなりに追い出して、白けたぜ、って感じで本当にバッティングセンターに行ったと思ってた。歌舞伎町の北の端にあるあのバッティングセンターね。だから舞台は新宿。
この歌が出たときからだから、大学生くらいからかな。

という話を、こないだ、同じくミスチル好きの夫にしたら
「読解力がなさすぎる」
と一刀両断されてしまった。いや、だってさ、女子大生にはその隠語はわからんよ。多分日本国内に300人位は同じ想像した人がいるよ、きっと。

さーくら、さいたら、一年生

長男が小学校に入学した。入学式の日は晴天に恵まれ、私達と同じように正門へ向かう親子連れの後ろ姿が春の白い陽光の中で眩しかった。

教室に子を送り届けてからは、親は帰る間際に教室で担任の先生の挨拶を受けるまで、完全に傍観者となった。子どもの独り立ちのはじまりだと思った。

入学式は在校生は六年生だけが参加していた。さすがに一年生の倍の年齢だけあって、体格も何もかもほぼ大人なんじゃないかと錯誤してしまいそうになる。全然そんなことないはずなんだけど。
六年生は各教室で新入生に席に案内したり、帽子などの配布をしたり、名札を胸元につけたりしてくれた。また、親に対して確認したいことがあるときに、礼儀正しく「本日はおめでとうございます。お尋ねしたいのですが……」と声をかけてくれる。あとから聞いたところによると、空いた時間では読み聞かせやクイズなどで世話をしてくれたらしい。もちろん、今日この日のために周到な準備をしてきただろうけれども、あらかじめなされた指示をきちんと守り、大人に働きかけて目的を果たせるものだと感心した。入学式の中でも、児童だけで歌と寸劇で小学校の一日を紹介する場面があったが、先生は完全にノータッチだった。ちょっと感動しちゃったなあ。

そしてPTAの選考。係をくじで引いてしまった…。非常にシステマチックに現役員さんが仕切って、あっというまに決まった。別の担当で立候補しようか迷ったんだよね。ただ今年は次男の幼稚園で役員をするので、やるのはやぶさかではないけどできれば来年でとも考えていた。ああ、こんなことなら手を挙げときゃよかった。担当内容は平たく言えばヒューマンリソース。こんなの社会人としても経験ないし、そもそも私は顔と名前を覚えるのはちょっと弱い。全然向いてない。逃げたい。

帰宅後、山程持ち帰った書類を端から記入しながら、今後の不安が頭の中を重量を持って広がっていくのがわかった。適当に見切りをつけて、這々の体で書類を片付けてから(放置しないのが偉いなあ、私。自画自賛)もうムリ、と倒れ込んだ。久しぶりに脳がはちきれそうだった。イベント後の疲れがあったからなおさらだわ。

先週の旅行のことを振り返ったり、今読んでる本をまとめたり、懸案事項をもう少し考えたりしたかったんだけど、しばらくは難しいな。次は幼稚園の新年度イベントだ。
来週後半にはちょっとは楽になるはず。がんばれ、わたし。来週末には誕生日だからそこまでは…! ってもノープランだけど。

そういえば、入学式のその寸劇の中で「ドッキドキドン一年生」を歌ってたんだけど、今でも歌ってんだなーとびっくりした。私が幼稚園児の時にテレビの「ひらけ!ポンキッキ」で流れてた。まだ歌えるぞ。今年の春で(後継の)番組はついに終わっちゃったんだよね。ガチャピンとムックもおつかれさまでした。IPとしていろんな商品にまだ出てくる気もする。