31.7.18

みとめたくない、人はいつか死ぬということ

 ※これはただの日記です。

 一言でまとめようとすると、タイトルのようにどうしようもなく陳腐な言い回しにしかならない。だけど、これは、私が一番直視したくないことであり、しかも厄介なことに年々その思いが強くなっている。
 そして、テレビ画面の中で宇多田ヒカルが「夕凪」という新曲を滔々と歌うのを見て、この人は私がまだ踏み越えられない一線を越えていったのだなと思った。
 そのことにものすごい衝撃を感じた。だからこうして言語化してみようと思ってこれを書いている。

 7月16日放送の「プロフェッショナル仕事の流儀 宇多田ヒカルスペシャル」を録画しておいたのを、先日ようやく見た。内容は前回のアルバム「Fantome」から三年、新譜「初恋」のレコーディングを追うというもの。 
 その中で一曲だけ、ものすごい難産な様子をずっとカメラは追っていた。
 もう三年も悩んでいる楽曲だと宇多田ヒカル本人は言う。当初の仮タイトルは「Ghost」。ロンドンのレコーディングスタジオのレンタル期間には、この曲の歌を残して他の楽曲も含めて全部録り終えていた。その後、またしばらくの時間をおいて「夕凪」というタイトルで完成が告げられ、歌入れの風景とともにフルコーラスが流れて番組は終わった。

 番組では宇多田ヒカルの生い立ちを振り返っていた。彼女は幼少時からずっと両親の仕事に合わせてスタジオ生活を送っていたようだ。八歳の時に母に勧められて歌い始め、歌をつくることで、抑えてきた自分の思いを託すことができるようになったらしい。そしてその母との別れ。

 そんな番組のつくった「物語」を見ながら、自分の腑に落ちるストーリーラインを自分の頭に再構成し、紹介される楽曲を眺めていた。
 前アルバムは宇多田ヒカルのお母さんが亡くなり、物理的にお別れをするための言葉を歌に載せたのだろうと思う曲がいくつかあった。例えば「花束を君に」。例えば「道」。どちらも、そのとき離れていく母へ向けた想いが歌になっていて、歌詞における出来事の描写は極めて具体的であり、個々のエピソードが目に浮かぶ。それらきれいな思い出とともに手を放そうとするイメージがある。
 そこから三年、宇多田ヒカルは出産も経験したはずだ。そうして、もっと後ろから物事を見るようになったのかなと思った。

 失っていくだけじゃない。命が自分の手の中にある。初めて赤子を抱いたときの温みが、私個人の思い出として蘇った。そのときに感じたのは、命への歓びだけではない。
 命を自分の実感として得ることができたからこそ、いつか本当に終わってしまうのだとわかるというのは、なんとも皮肉なことだ。

 歌詞は夕凪の風景を淡々と描きだす。風もなく、ただ静かに寄せては返すを繰り返す穏やかな波に、命が近づき、やがて去っていくさまを見出すのは難しいことではない。それは例外なく起こること。誰にも。
 その場に居合わせた、明言されない私は、小さくなった「あなた」を抱きしめ、しかしその風景にはどんな価値をも見出さない。ただ眼前に起きていることをそのまま受け止める。「夕凪」はそんな曲だと思った。

 極めて個人的な話になるが、私は死が恐ろしい。不老不死の薬があるなら、泰山に登って祈祷を捧げたいほどだ。
 おそらく、自意識が芽生えるか否かの思春期にさしかかる微妙な時期に身内の死を経験したからだと思う。呪いのようなもので、もう干支を何度か周回しているというのに、まだ消化しきれていない。だからなおのこと、誰も死んでほしくないと割と本気で思っている。自分が死ぬのだって怖い。
 そして独り残された母がここ数年、ものすごい勢いで小さくなっていくのを見るたびに、その思いは強くなる。ずっと今のままならいいのにと。

 もし私が夕凪の浜辺にいたら、あなたを私の視界に入らないところに置いて、ばしゃばしゃと波の中に飛び込んでいっただろう。そうして腕を振り回し、水面を踏み散らして、「鏡」を割ろうとしただろう。
 それから、決して割ることができないとわかって、きっと泣くんだろう。

 番組を見終わった後、私は「テレビって物語があるのがずるいよね」と隣で一緒に見ていた夫にこぼし、顔を上げないようにしてティッシュの箱をひっつかんで鼻をかんだ。でもきっと全然、ごまかせてはいなかっただろうと思った。

 やっぱり言葉にしきれない。あのとき鼻水と一緒に顔からひっぱりだしたはずの涙の残滓は、今も自分の中にある。
 ただわかるのは、最後の歌録りで宇多田ヒカルがマイクに向かっていた姿は、とてもとても美しかったということだ。

23.7.18

晴れてきたので

夏休みの宿題を一つこなした。

毎朝、窓を開けると

大気中に充満した水蒸気が朝日ですでに温められている。私的最高気温から一日が始まることにうんざりして、エアコンのドライを冷房に切り替えている。日中も夕立が恋しくなるほどの晴天で、洗濯物を干しにベランダに出るあの一瞬で、さらした腕や首筋に、じりじりと照りつける陽光が痛い。

そして毎日思っていたのだ、梅干しをはよ天日干ししなきゃなーって。

そしたら、今日はめっちゃ曇りだよ!

晴れてる日は風呂場を歩いている気分になる外が、今日は亜熱帯植物園。何この湿度。家の中にこの空気が入ってきたら、きっと壁に結露する。やばい。窓は締め切っとこ、いつも通り。

梅、干せないなー。残念だなー。