24.12.18

結末

これは肉についてきたレシピで焼いて、一度オーブンから引き揚げた状態。上になってる胸はかろうじて火が通ってたけど、側面は生だった。
焼成中に庫内を開けて、滲み出た脂や煮汁をかけてやるのに、触れてない場所が特にまだ生だった。あれはちゃんと意味があるんだな。

再度焼いて食べ始めるまで、さらに40分以上かかった。オーブンレンジの予熱がその半分くらいを占めている。さらには解体方法が甘くて切り分けが下手くそで食べるのに苦労したので、来年はもっと予習しておこうと思う。

調理に入る前にブラインに三時間以上漬け置いたのは大正解で、あれがなければぱっさぱさの悲惨な出来になっていたはず。サンクスギビングのターキー調理について昔いろいろレシピサイトを漁ったのが、今になって役に立った。

図らずもサンタが来たぞ

今、庫内を焼き切ってる。この後にようやく鶏が焼ける予定。

最近のオーブンレンジは調理メニューのバラエティを増やすことに命かけてんだなってのがわかった。
価格帯は、最上位機種で13万円くらい、普及価格は7万円、過熱水蒸気もので一番安いのは35000円というところだった。昔ながらの横開き扉のやつでも2万円は下らない。

ケーキはできた!

しかしオーブンレンジはお亡くなりになってしまった。ケーキ食べたら買いに行く。

こんなだったっけ

すごい可哀想なことをしているような気分になってきた。

オーブンのスタートボタンが押せないんだけど…ケーキの熱が残ってるからかな。困るなあ。

クリスマスっぽいことをする

これから丸鶏を焼く。
隣のシートケーキはこの後ブッシュドノエルになるはず。けど、この厚さじゃ巻けないな。半分に切るには薄いんだよな。デコは苦手。

16.12.18

夜遊び


お隣佐賀県では、秋頃にバルーンフェスタがある。広い荒野に幾多の気球が並ぶ壮観な図は、毎年九州の新聞の一面を飾っている。五年以上前に宮崎県に住んでいた頃に知って、一度は見てみたいと思いつつも果たせずに今年もまた通り過ぎてしまった。

それが、この年末の時期になって、吉野ヶ里遺跡で週末には気球を膨らませたり(浮いてはない)、連日夜に花火を上げたりイルミネーションを点灯させたりするんだって!

長男が小学生になったこともあり、ついに夜のお出かけを敢行したのだった。まあ依然として次男は園児だけど。この人の就寝時間は2030だけど。それに今、母が来ていたので、ちょうどいい観光になった。

子供よりも熱中して勾玉の形作りのために石を削ったり、気球のバーナーが点火するとものすごい熱気で夜の寒さを忘れそうになったり、それほど混み合ってないところで目の前の花火に感嘆の声を遠慮なく上げてみたり、誰よりも私が楽しんでしまった。それに子供たちも初めての夜遊びにかなり興奮していて、帰りの車の中までずっとはしゃいでいた。

この七年間、夜のイベントに一家で出かけるなんて想像もつかなかったなあ。楽しかった!

23.11.18

紅葉

秋月城址にようやく行けた。昨日、テレビで取り上げられたと出がけに聞いて、はらはらしたけど、昼前に到着したのでぎり渋滞に巻き込まれずに済んだ。

もみじやカエデの赤い色はほかの葉とは少し違うね。
褪せてない。

秋月は桜の頃に来ても良さそうだったな。

10.11.18

ストレス溜まってきた

断られるの前提な営業電話なんて誰もかけたくないよー。ああつらい。

今、我が家には使えるPCが一台しかない。もう一台欲しい。まじしんどい。
私のキーがいくつか死んでるノートはあるんだけど、あまりに古くて実用に耐えない。
なんと2006年製! 今は亡きSONY時代のvaioだよ。

一昔前の充電電池なので、一度全部放出しちゃうと二度と復帰しないタイプだったのかな。もういくら電源ケーブル繋いでも蓄電できなくなってしまった。

そして現代のソフトにスペックが追いつかず、毎回じーっと起動を待ってる。
ネットなんぞに繋ごうもんなら、描画もそうだし、インプットに対する処理、それが返ってきての演算、もう全部ついてこられてない。瀕死になってやってる感じ。
だからたとえローカルでもオフィス系のソフトなんてもう無理よ。無理。
でも必要なんだよ!!!

最近、夫が家でPC使わないといけなくなったから競合するし、もうほんと困るのよ。もう一台欲しい。ほしい。

ストレスで頭がおかしくなりかけているのは認める。あーしんどい。

2.11.18

いよいよ11月

月の数が二桁になると,いよいよ来てしまった感がある。

先週末は幼稚園のバザーと長男のピアノの発表会があった。
今年は園で役員をしていて,バザー中心グループになっていた。もうほんと大変でした。でも手芸班がディスプレイなんかにも造詣が深かったので,開店直前は素敵な出来であった。自分が全然戦力にならんので,おっかなびっくり手伝っているだけだったけど,頑張っただけよかったなって思った。

当日夜の打ち上げは,ここにきて初めての居酒屋で,初めて酔いつぶれ,ものすごく楽しい夜だった。
翌日は午後三時まで死んでいた。

あとは来年のために看板などの整理や知見のまとめ,売れ残り品の処分などの残処理が残っているけど,もう気楽なもんだ。

このバザー当日に長男のピアノの発表会が重なった。春に選曲したときには,当時始めたばっかりの教本の一番最後の曲の一つだったから,半年もかけて準備するのか! とびっくりした。実際,半年かかった。
でも,もうそろそろ私も抜かれる。と同時に,割と家で子どもの指導をしてきたけど,いよいよ難しくなるなと思ったのと,馬を水辺に連れて行っても飲ませることはできないんだってことがしみじみと感じられた。ここから先は彼が自分で音楽の楽しさや,楽器を演奏するための訓練の辛さ,喜びを見つけていかなきゃいけないんだろうなと思う。
当日朝に家で二回弾いたのがこれまでで一番いい出来だった。
そして肝心の本番では,二か所,八分音符が一つ多くなってしまった。
本人なりに思うところはあったようだが,さてこの先奮起してくれるかどうかはわからない。だけど,これを理由に挫けてしまっても,あんまり口を出さないでおこうとだけは考えている。

で,次なる私の仕事は小学校。あーやだやだ,ついに電話が始まるよー。来週から。いやでいやでいやでいやで仕方ない。逃げたい。
が,どうしようもない。がんばる。

24.10.18

映画見てきた

一度行く予定が駄目になって、くさくさしてたら急に二日空いた。
てなわけでようやく行けたよ「恋のしずく」!!

以下全面的にネタバレしていきます。


1.あらすじ
ワインに強い興味を持つ大学生の詩織(川栄李奈)が,不本意にも実習先を酒蔵にされてしまった。日本酒のことは全然知らないし,お酒の席での失敗もあって,日本酒への忌避を隠しもしないで蔵へやってくる。蔵は蔵でお家騒動真っ只中,本当は実習受け入れはしないつもりだったけど,まあなんやかんやで受け入れてやることにしました。

蔵人(酒造りの実労働部隊)で酒米を卸している美咲がいきなりウェルカム態勢。田舎はこんなにオープンじゃないと思うんだけどな。杜氏も最初は詩織に疑いの目を向けていたけど,改心した様子を見せたらすぐにころっといった。この杜氏,ただのエロ親父みたいな部分もあり,若い娘に甘いのかもしれないなあ。

実習先である乃神酒造の蔵元(大杉連)は心臓病で先が長くない。息子の莞爾(小野塚勇人)は中学生の時に母親を亡くした際に泥酔していた父親に納得いかなくて,家業ごと酒から遠ざかっている。んだけど,200石の小規模の蔵で負債も山積み,病気の父親を目の前にして本当は家のために何かしたい。なのにやり方も分からないし助けてくれる人もいない(これまで自分で遠ざけてたんだけど)。で,地元の窯で生産した和食器を使って飲食店とのパイプ作りを目指したり,これからの酒造はデータでやると息巻くうさんくさいコンサル(これは有名なあのかわうその酒の二番煎じ野郎だな)と業務提携を持ち掛けたり,若さゆえの過ちっていうか,ぼんくら二世の大暴走みたいなことになってるんだな。
まあだけど,業務提携云々のところで息子が家を守りたいと思っているのが,杜氏や蔵人にもわかってもらえて,息子の態度が軟化してくる。そもそも蔵元が断ったはずの実習の受け入れを、独断で受け入れることにしたのがこの息子で、若い人に日本酒を伝えたいという動機もあったのだった。
まもなく父親が逝去して,遺品から母親の遺した筆が出てくる。父の酒造りを母が願っていたこと,母に応えようと父は母が死んだときにも必死に酒を飲んで研究していたことがわかって,いよいよ改心して跡を継ぐことを決める。
で,母が望んでいた新しい酒を蔵一丸となってつくり,無事にできて,命名は母の遺した「命なりけり」。酒造りは命を紡ぐこと。杜氏の教えがみんなの思いと一緒になって,いい大吟醸ができました。

詩織は実習期間が終わって帰るんだけど,電車の扉が閉まる瞬間に告白して,突然のことに戸惑って反応もできない息子。車窓に見える西条の海が眩しい。詩織が涙をこぼしつつエンド。

2.物語への雑感
この話ね,詩織がいなくても回るんだよ。というか,主役はどう考えても息子で,蔵の親子の確執から家族が再生するみたいな形を目指したのかなって思った。でも映画としてはそれだとすごい地味だし商売にならないだろうな。だから観客目線のキャラクターとして日本酒素人の詩織が配置され,彼女から見た,とある田舎で起こった平凡な,だけど彼らにはとてもかけがえのない日常を描いた話,となったように思えた。
詩織の存在意義は,あとはまあ,胡散臭いコンサルが実は詩織に前に粉かけてきた怪しいソムリエで,彼女の前で酒造ライセンスとノウハウ目当てだってべらべらしゃべっちゃうから,聞きつけた息子が騙されずに済んだこと。なんて偶然!(棒読み)
詩織は息子の母親にちょっと似てる(またそういうありがちな設定を…)ので,息子の態度の軟化に寄与した,のか?
せっかくリケジョ設定してるんだから,大吟醸を作りたいって息子が寝ぼけたことを言い出した時に,理系な意見を言わせてもよかった。物語の初めの蔵開きで「己のことは忘れろ」って杜氏に言わせてるし,酒造りが太古の昔から培われた知恵でできている,不思議で偉大なものだって考えを大事にするのはいいけど,そのままじゃ息子が危惧したとおりに乃神酒造はいつか死ぬ。新しい世代の風を吹かせてもよかったのに。
そう、詩織のリケジョ設定が完全にアクセサリーでしかないのが残念だった。味覚は鋭い、酒への理解もある、これと決めたら勉強熱心。ということは描かれていたけど、それが物語に直接作用しない。もったいない!
これはサブキャラクターたちにも言えることで、美咲の妊娠がたまたまこの「命なりけり」に取り掛かっているのと並行にわかったけれど、命を繋ぐということを添える意味しかなかったように思う。美咲と有重のエピソードにいたっては、詩織がいないときであっても成立するもの。
有重というキャラクターは重要だったよ。西条の地域で、実直にやっている酒蔵が三年連続金賞をとった、そこの跡取り。ということは、乃神も同じ価値観で酒造りをするのを善とするし、それに反するソムリエ野郎は排除されるべきとなるのは自然の流れ。
美咲とのやり取りの場面はもう少しあればよかった。告白するときに、幼馴染だったなどの大事な設定を言葉だけで説明されたのがもったいない。だったら乃神のこれまで寄り付きもしなかった跡取りとも知り合いだっただろうに。息子に代替わりしてからの一号もろみ初搾りの時になぜか同席していた有重くん、君の立ち位置は美咲の隣だろう! どうして蔵元の隣にいる? と思った。

「恋のしずく」というタイトルなんだから恋愛ものでもあるわけだけど,恋愛になる要素が少ない。
息子の莞爾はよく描かれてるんだよ。彼はもともと心根は優しい子。月命日に母の植えた花を活けて仏壇に供えようとするくらい。それが母恋しさでこじれちゃっただけのことだったし,解けていく過程をとても丁寧に描いていた。つまり,人間らしい成長の部分を詩織はずっと見てるわけで,その結果,詩織が息子を好きになるのはわかるんだよね。もっとこの先この人が頑張っていくのを見たい,応援したいってそりゃなるわ。観覧者目線でもそうだもん。
でも! それにたいして詩織という人間はどうなの? ちょっと説明が足りないんじゃないの? と言うのが一番の不満。
最後に詩織が好きだと言い逃げして泣くんだけど,なんでだろう。遠距離恋愛の障害は今どきあんまりないだろうなあ。函館に実習に行ってる同級生と夜な夜なビデオチャットしてるから。それに、恋をして泣くのは告白できない前段階か、もう少し後の段階では? 告白直後って盛り上がりすぎてもっと挙動不審になる気がする。アドレナリン出過ぎてると涙は引っ込むはず。もし、もう二度と会えない、きっとこの恋はこれで終わってしまうと思っていたのならば、もう少し、詩織にそういう色が見えたらよかったな。
莞爾の方は、まだ詩織には恋は感じてないと思う。告白されてようやく,ああこれってひょっとして? という始まりへの戸惑いが,ラストのプラットフォームに取り残される姿じゃなかったかなあと。もちろん、気になる存在にはなっていただろうけど。
もし,あの花を活ける場面で,切り花を手早く処理してくれた詩織にときめいたなら,どんだけお前は経験がないのか!(すごく婉曲的な表現)とどつきたい。が、それはあるだろうな。その後から、莞爾は詩織にだけ急に心境を告白し始めたからなあ。私としては、もちろんその場面がきっかけで親近感は湧いたのだろうけど、詩織が他所者であり、ちょっと遠い人だからこそ自分のことを話せる心境だったと捉えたい。西条は田舎で皆に跡取りのことを言われてしまう閉塞感を息子はずっと感じてきた、というように物語冒頭から描かれていたから。
 
3.酒造りについて
高級酒って麹から普通のと作り方違うらしいね。それに生酛ってそれ用の酵母を加えるようだし,途中まで酒造りが進んだ段階で,やっぱこっちやる,って切り替えられるものじゃないと思うんだよね。それで,まあまあの出来の酒が絞れたわけで。ファンタジーだ。

この点,漫画の「もやしもん」は酒蔵の息子が大学の研究室や仲間たちと必死に作るエピソードがあるんだけど,こっちは個性が強すぎてそのままじゃ売れないなという出来だったの。まあでも,杜氏の入ったプロの酒が別途並行して作られてて,そちらは比較的無難だけど及第点という出来だったので,両者をブレンドして商品化しよう,大学で一括で買い取ろう,という結末だった。次年度にもつながっていくし,一過性の話ではなかった。

最初はうまくいかなくて当然だと思うのよ。映画はとんとん拍子すぎた。できた酒の販路も決まってないしね。この先が心配だわ。

4.役者のこと
以上,物語のところはいろいろ言いたいことはあるんですけど,この映画の私の目当ては息子の莞爾を演じた小野塚勇人であった。
映画で見るのは2015年の「丑刻ニ参ル」以来。芝居が細かくなってるなって思った。眼球をきょろきょろさせるとか,目を細めるとか,口角の上げ方や頬のこわばり方,笑い方の制御がすごい繊細になってたなあ。
一番光ってた表情は、飲み比べのときの宣戦布告。挑発に乗ってやろうかどうしようか、完全アウェイ(と本人だけが思っている組合の寄り合い)でぶすくれてる表情を自分でも持て余している、けれどやっぱり乗ってやるぜ、という微妙に嬉しそうな顔! 役者を100%有効活用していたな。
ほかに覚えているのは歩き方。両親のことをよく知っている宮司に母親のことを尋ねているときの、やや緊張しているのかひょこひょこ飛び跳ねるような歩き方,橋づくしで願掛けをしているときの頭と肩の位置がまったく上下しない平行早歩き,詩織の橋づくし後に,彼女と一緒にリラックスした気分で神社の階段を降りるときのチンピラ歩き(これはキャリアがあるね! さすがLDHの人)。
あ,チンピラ歩きのときに詩織に振った「絵馬に何書いたの。あ,身長ほしいって?」ってのはアドリブだろう! と思いました。
苦悩している芝居,閉塞感にさいなまれる芝居は相変わらず素晴らしかった。そもそもその手の役しかやってないだろう! 今度はもっと恋愛的にどろどろになってる芝居を見たい。

川栄李奈のラストの泣き顔はとてもよかった。この人は抑えた芝居がほんとうまい。川栄さんは良かったけど、詩織というキャラクターが惜しかったな。 

大杉漣は迫真に満ちていた。直前の印象が「バイプレイヤーズ」だったので、なおさら注目した。息子と言い合いして狭心症の発作が起きた芝居にはハラハラしたもの。ニトロがあってよかった。でも息子はそんな頓服薬の存在すら知らなかったのよね。
父親からすると無念だったろうな。早くに妻を亡くして、遺品を箪笥の奥の方に隠すようにしまってあり、どれだけ大切にしていたか。なのに結局、妻が応援してくれた大吟醸には自力では到達できなかった。それだけでも切なくなるのに、息子には誤解されて反発され続けた。最後の最後、息子がせめて家を大事にしたいと思っているのがわかってどれだけ肩の荷が下りただろう。けれども、もう思い残すことはないということは、生への執着を手放すのと同じ。西日の縁側で、父親の輪郭が儚く消えてしまいそうだった。思い出すだけで胸が締め付けられる。あの次の場面が葬式なのひどいよ! 美咲の父親である宮司がぐでぐでに酔っ払って泣きながら息子に跡継げ! って絡むの、本当に泣けた。そして絡まれた息子に喪失感・後悔・焦燥、ありとあらゆる不安定な気持ちが増幅していくのが手に取るようにわかった。沈痛な精進落しで臨席した誰もが苦しかっただろうな。それだけ大きな存在だったんだよね、父親が。
そういう蔵元像が、劇途中までの出演にも関わらず、ちゃんと描かれていたのがすごかったし、演じた大杉漣もすごかった。

10.10.18

シチューをご飯にかけるか問題

今日は雨が時折ぱらつく曇天の一日で、やや肌寒かった。
だから、夕飯にはクラムチャウダーを作った。

子供の習い事が時間差になっているため、送迎と夕飯の時間が互い違いにやってくる。
空腹に耐えられない次男は一人で食べることになる。

家事をしながらチラ見していると、次男はクラムチャウダーの大きめのボウルにご飯をどかんと投入していた。溢れそうになっているので、ついつい「ご飯、全部入れちゃったの?」と非難めいた色を出さないように告げた。対して「お茶碗半分しか入れてないよ〜」との反論。まあバレバレだったわけだ。

便宜上、ご飯をつけているものの、クラムチャウダーはそれそのもので完結する味付けになっている。おかずとして別に大根と手羽元の塩煮込みとひじきのサラダをつけている。
よってここでの私の率直な感想は、わっ入れた、げっ混ぜた、嘘でしょ、別々に食べなさい! である。

シチューをご飯と食べるか否かってのは、たまに話題になる話だ。ましてやご飯にかけるなんて、という論調だったけれど、いつのまにかその注目を逆手にとって、ご飯にかけるシチューをそのまま商品名にしたルーすら、昨年あたりから販売されるようになった。

しかし、ちょっと待てよ、と思う。
私はこれで完成した、と思って供しているが、それをどうこうするのは受け取った側の自由かもしれない。
ご飯とおかずがあればとりあえず載っけて丼にするのが至高だと信じている次男にとっては、スープボウルに盛られたクラムチャウダーそれだけでは未完成だったのだろう。

ということが、実はシチューに限らない話なんじゃないかな、と思ったのだった。
ネットに晒した私の文章も、PTAの会議での私の意見も、今日、必死になって印刷した全校配布書類も。

ここからは、愚痴みたいなものです。
あとからアンケート回収があるので、封筒に入れて配布する紙を、本日小学校に行って印刷したのだった。
私らの委員は少人数かつ勤労者が多いが、作業の分担には責任を持って手を挙げてくれる方ばかりだ。ありがたい。
なので、昼に印刷した分をみんなが夜に持ち帰り家で折って封入して、翌日に学校に持ってきてね、ということにした。翌々日に先生経由で子どもに配布するのだ。
そしたら、一人だけ連絡がつかないでいる。作業飛んじゃってるかも。
まいったな。明日の早朝に取りに行くか……。こういう時に責任とるのがいいんちょでしよ。しゃーない。
まあね、作業の負担感の見通しが甘かったよね。せめてもう一日は必要だっただろう。ごめんなさいとも思う。
けど、私はね、明日の午前中は幼稚園のPTA作業があるんよ! 昼過ぎに……がんばります……

胃がキュッとする。ひゃー

追記

その後、連絡が取れた。よかったー。明日明後日はイベントがあるので、会議室に荷物を置いておけないんだよね。朝早くに行ってくれとは伝えたけど、汲んでくれるといいな。
いや、もう私の手を離れたことだ。考えても詮無いこと。忘れよう。

5.10.18

給食あり運動会のススメ

今週半ばに小学校の運動会があった。
平日に延期されたので給食があり、親子で昼食とはならなかった。そもそも平日で、学校に来られない保護者も多かったことだろう。我が家も夫は出勤、次男は登園となり、私一人の参観となった。

のだが、これが本当によかった。
とにかく気楽。
まずは弁当事情。家族全員の弁当を作るという負担がなく、運動会ならではの豪華弁当を考える必要もなく、心軽く迎えた当日の朝、部屋に差し込む陽の光がなんとも眩しかったことよ!
そして観覧の適当さ。弁当がないということは、つまり荷物も最小限で済むということ。単身で来るならば、自分用の敷物一つ、あるいはキャンピングチェア一脚あれば十分。
小学校の運動会は、児童数が多いため、おおよそ三種類の演物を学年別に行う。徒競走(個人競技)、表現、団体競技。それに選抜者のリレーと応援合戦。なので、自分の子の学年が終わると、しばらくは待機時間となる。ここの小学校は校区がかなり狭いこともあり、帰宅する人も多くいたことだろう。私も二度帰った。
だらっと見て、好きなときに帰れる。
運動会の辛さは、実は、一日中地べたに座ってあの場にいなければならない、という点にあるのではないかと思った。

グラウンドの広さにおける人口の割合もほどほどで、人混みで観覧が厳しい近隣校に比べたらかなり恵まれた環境だった。こういう運動会なら毎年来たいものだ。
長男も私が見に来たことに気づいて喜んでおり、その日の夜は寝るまで上機嫌だった。

ちなみに、一年生の出場種目は高学年に比べるとやはり簡単なものが多く、まだまだ幼稚園の延長だなと思う部分もあった。けれど、大きな子たちを見慣れた保護者からは、一年生なんてその場で動いているだけで愛らしく見えるようで、いるだけでおーるおっけー! 全部かわいい!! で済まされていた。私もそれには同意する。

今どきだなと思ったのは、競う方法について。
各クラスとも二分割され、紅白組に分かれて競技ごとの点数を競う。よって、徒競走では56人が同時に走るものの、一位の児童が紅白どちらの組に属するかだけを見ており、順位はつけなかった。 最後、紅白どちらが勝ったかで優勝旗を授与するので、それなりに競争本能は満たされている様子だった。

4.10.18

映画

先月から劇場に行ったりレンタルDVDしたりしていくつか見た。
  1. 判決、ふたつの希望
  2. プーと大人になった僕
  3. 去年の夏の仮面ライダー映画と去年の冬の仮面ライダー映画 
  4. Mother!
  5. この世界の片隅に
1.判決、二つの希望
これね、レバノン映画だった。ヨルダンと間違えてた。レバノンは共和制だし、フランス寄りなんだろうな。ヨルダンは立憲君主制。でも抱えている歴史や社会問題は似ていると思う。

映画は、レバノン人の男の家の水道管が壊れたので、直してもらおうと思ったんだけど、ささいなきっかけで作業員のパレスチナ人の男と喧嘩が起こり、裁判沙汰になってしまった。 二人のつまらない喧嘩が元だったのに、二人の民族の違いがだんだん大事になって、国中を巻き込む騒ぎになってしまう……というお話。

タイトルから分かる通り裁判劇で、レバノンの司法制度なんて全然知らないので、興味深く見た。基本的には弁論主義っぽかった。裁判官は三人で、裁判長は女性。代理人弁護士はいずれも法服みたいのを着てた。
そして、ほんとにしらないなーと痛感したのはレバノンの戦後の歩みね。第○次中東戦争を振り返っていくんだけど、もう彼らのやった・やりかえすの繰り返しはどうにも止められないんじゃないかって暗い気持ちにもなる。ただそれは、相手を〇〇人という型にはめて見ている限り起こることだから、そうじゃなくて、一対一の関係になったらどうなのか。そこから未来へつながるんじゃないかな。

元のタイトルはThe insult。それでも十分に内容を示した題名だと思う。けど、邦題の「判決、ふたつの希望」もいい訳だった。
話の構成はピースの細かいパズルのようで、見ながらそれらが嵌っていく爽快感があった。
いい映画でした。
あとこの映画は町山智浩さんの解説(ほぼ全ネタバレ)がすごいよかった。

この人のお話おもしろいね。最近はテレビの「町山智浩のアメリカの今を知るtv」も楽しみに見てる。BS朝日なのが残念だけど、公式サイトのまとめもなかなかよい。先日やってたアメリカの白人至上主義グループの代表者へのインタビューがすごい考えさせられた。

2.プーと大人になった僕
半年前のティザーからずっと楽しみにしてた映画。予想通り、ロンドンとイギリスの森がたくさん出てきて、イギリスの風景を見たい私には大満足の画面でした。話はディズニー制作だけあって、やさしくてわかりやすい。子どもと人形たちががんばるのがとにかくかわいかった。
上映時間的に字幕でしか見られなかったんだけど、英語セリフも易しくて聞きやすいし、芝居がよくわかってよかった。つきあわされた長男(7才)には漢字混じりの字幕はかなり厳しかったみたいなので悪かったなー。

Twitterにも書いてるんだけど、娘がおずおずと Do you think you can read to me for a minute? って父親に尋ねる場面がめっちゃ切なかった。そんな「本読んでほしい」があるかよ!と思った。 ボーディングスクールに入る11-13歳の子なんだよ。賢くて親の顔を伺い、親の喜ぶ顔を見たくて自分を押し殺している子。泣けてくるね。

子供の頃は「何もしないことをしてい」られたのに、いつのまにか大人になって「何かをしないと何も得られない」としか考えられなくなってしまう。そんな疲れた大人に送る物語だった。 Doing nothing often leads to the very best of something.
こういうプーさんのいいセリフが多くて、それを聞くのも楽しい。
ここに鑑賞者が印象的だったセリフがいっぱい投稿されてる。

 3.去年の夏の仮面ライダー映画と去年の冬の仮面ライダー映画
二年前の「仮面ライダーエクゼイド」 から子どもたちと一緒に特撮を見始めた。モチーフがゲームと医者ってことで、ゲーム的なエフェクトの散る画面が楽しいし、医者ドラマってのも好きだしでちょうど私の関心に飛び込んできたんだよね。

夏に完結編とも言える小説版が出て、そこから逆算して見返してる。初見時には「うんうんいいよね」と思ってただけの脚本が、小説版を踏まえて考えると「げーそんな背景が含まれてたの…死ぬ…」みたいなことになるので、復習を…と思ってレンタルしてきた。
でも最初から世界観が完璧に出来上がっていたわけじゃなくて、かなり水物というか、役者の演技や視聴者の反応でずいぶんストーリーが変わったみたい。
あとからつじつま合わせたって側面もあるけど、それにしてもうまく拾ったなと思う。

4.Mother!
アマプラにあって、Twitterの洋画クラスタの人が言及してたから見たかったんだよ。日本では上映中止になった作品。サスペンス。

これね、映画として流れているストーリーが、本当はまるっきり別のモチーフの別の主題を描いているってタイプの話だった。本に例えれば、普通に書かれている文章が映画の画面に現れているものとして、全く違う話(本質的には同じなんだけど)がずーっとルビで語られているって感じ。
それを読み解くのはめっちゃ楽しいんだけど、でも、肝心の流れているストーリーが……。とにかく胸糞、不快、えぐい、ひどい。ただひたすらイライラした。なんでそうなのかは、ルビの方に思い至れば至極当然なんだけど、それを置いても不快。
たぶん、二度目は見ない。だけど、こういうのをつくりたかった制作陣の気持ちはなんとなくわかる気がする。作ってみたいよ。

5.この世界の片隅に
私はこの原作者のこうの史代が大好きで、著作は全部あるくらいなんだけど、なのでこの映画の監督がどれくらい原作リスペクトで原作オタクでっていうのはよくわかった。削ったエピソードは泣く泣く削ったんだなってことも伝わった。しかもそこらへんを足したロングバージョンを12月からまた劇場公開するって話じゃないの。
まあなので、2時間という枠に収めるためにどれだけがんばってるかってのもわかるわけです。画面の切り替えが早いな―とかね。
作画も声優陣のお芝居も音楽もすごいいいと思うよ。トータルでいい映画だと思う。
だけど私は漫画が好きだ。原作が至高だな。

この秋、残ってるのは「恋のしずく」「A ghost story」。それとトレーラーで見かけた1987、ある闘いの真実「愛と法」は見たい。あっ、年末には「シュガー・ラッシュ オンライン」も!

29.9.18

ピザナイト

半年ほど、月一回の料理教室に通っている。世界のチーズを活用する世界の料理を教えてくれるもので、九月はピザだった。

というわけで、台風メニューは復習を兼ねてのピザでした。習ったのはクワトロフォルマッジとマスカルポーネのデザートピザだけど、うちでやったのは上からクワトロフォルマッジ、マルゲリータ、フンギ。私はピザは野菜たっぷりのやつがベストだと思ってんだけど、次点はキノコのホワイトソース(にんにく含む)だなー。

ボストンのレッジーナのピザのベジーのは本当に美味しかった。ピザはアメリカだな。あとボストンのおされイタリアンで食べた干しイチジクのも良かった。

最後の西海岸縦断旅行で、オレゴン州の小さな町で選びようがなくて入ったピザ屋も超絶おいしかった。

全然関係ないけど、アリゾナ旅行した時のBLTも超超超美味しかったなー。サブウェイ的なサンドイッチで、分厚いベーコンがこれでかって詰め込まれてて、そこにたっぷりのマヨネーズ!!もちろんレタスもトマトも盛りだくさん。

そこらへんは、集落が全然ない荒野をずーっと運転した果てにやっと見つけたドライブイン的な小さな商店で、疲れてヘトヘトだったから更に輝いた思い出になってるんだと思う。

家のピザいいよ。
強力粉140g、砂糖大さじ1、塩小さじ1/3、イースト小さじ1/3を空気を含むように軽く混ぜて、40度の水80mlとオリーブオイル大さじ1をドバッと入れてこねるこねるこねる、テーブル上でVの字を描くようにたなごころで押し付けるように転がしてこねてから、発酵30分。半分に分けてベンチタイム10分ののち、25センチに広げたら、縁から1センチ空けて具をのせてオーブン250度10-15分焼成。縁が焦げる前にあげても良いかな。
一時間半あればまあなんとか。一番難しいのは生地を広げるとこ。

28.9.18

ワタシ的贖罪

先週、仕事でやらかした分、今週はすっごい目を皿のようにして直してやったよ。がんばった、私。そしてがんばらされた、大変な答案。これまでで最も書いてあげたなってくらい紙面が真っ赤になってしまった。でもしかたない、必要なことを埋めてったらそうなっちゃったんだもん。私マジ赤ペン先生。

ちょうどこの月末が半期分の成績開示時期だった。結果は並。これで四回目なんだけど、二回目のときに優秀者に選ばれて金一封もらっている。なので今回もと狙ってたのに、先週ので一気に評価が落ちたと思う。残念だ。次回頑張ろ。

それとは別に、自由英作文の添削という別業務の勧誘も来たんだけど、今はほんと時期が悪すぎる。業務内容的にもちょっと荷が重いってこともあって、見送り。英訳はなー。もう離れて久しいし、まあもともとそんなに出来はよくない。

英語ね。ここいらでもう一歩先に進むか考えたほうがいいかもと思わんでもない。専門的な勉強が必要だと思ってる。翻訳とか。

ただ、最近、google翻訳が急に流暢になったよね。それに、AI搭載の携帯型通訳機とかちらほら出てきてるんだよね。将来的には、日常的なやりとりなら外国語を学ぶ必要はなくなると思う。国連の会議でインカムを通じて即時通訳された言語がすぐに流れてくる、みたいなことが日常的に実現しているんじゃないかな。子どもたちが大人になるころには。簡単なことなら機械翻訳が早いし安い。

外国語を学ぶ意義ってのは、たとえば、文学作品の中に通底している文化的なニュアンスを捉えるとか、相手の文化に入り込みたいときに出てくると思う。まあでも、それらも日本語に翻訳されたものが蓄積していけば、どんどん変わっていくだろうね。歴史などの知識の蓄積の中に手がかりがあるものだし。
あとは専門的な論文などを読むときとか? そんなの今でもそうだし、なんなら日本語の専門的なやつを一般レベルに引き直すのも翻訳みたいなもんだけど、求められてることは言葉それそのものではない。
そうそうなんだよ、外国語そのものを使えるようにするんじゃなくて、その先に目標をセットして学んでいかないとどうしようもないのだ。

なので翻訳はどんどん買い叩かれて、通訳も機械に置き換えられて、先がないじゃん。
先の話ね。今は大事だよ。まだまだ人間でないとだめな分野だと思う。

あと個人的な問題として、そもそも私は通訳は無理。耳から入る人の言葉が脳へ繋がらない。そこんとこの回路がめためただ。よって外国語は無理。そのため日本語も無理。
目で見るやつ限定で。

ずいぶん話が違うところに行ってしまった。

違うんだよ、台風のおかげで、今年の小学校の運動会は弁当を作らなくて良くなった! ヒャッハー!!!!!! ということがいいたくて今日の日記の投稿画面を出したのだ。
日曜なんだけど、市全体で一斉休校になったので平日に延期。平日なので給食がある! いえい! 
来週の幼稚園の方は、もともと午前中だけだから弁当いらんし、もう最高ですよね!!!!

20.9.18

やってしまった

初めて仕事に穴を開けてしまったよ…

専用のプログラム上で配信されるデータに書き込んでいくもので、知らんかったのよ、締切の時間をすぎると自動的にアクセスできなくなるなんてさあ。
せめて枚数が少なくてよかった。赤ペン先生的なお手紙欄だけが空欄だったけど、添削部分は全部見ておいたから、昨夜遅くまでがんばっといてよかった。

園の行事の準備は今日の午前中をまるまるつかって、参加者の手も速く、ほどよい達成感とともに終えたんだよ。だからすっかり忘れてしまった。買い物がてら昼食を食べることしか考えなかった。

あーーーー自己嫌悪。まあ過ぎたことはしかたない。来週はきちんとしよう。

19.9.18

いらん野暮用が多すぎる

絵本の読み聞かせの亜種に,本を使わないでお話を話すというのがある。この近所で勉強会をやっているのに参加している。詳しく書いてもしばれたらまずいのでぼかして書く。

今,忙しすぎてやばいのに,どうにも叫びたい気分なのでここに書き付けることにした。

耳から言葉をただ聞くだけで理解するための私の脳のチャネルは弱い。と思ってきた。

小学生の時,年に一度の市内統一テストがあった。
国語は毎回第一問目が先生の話す短い文章を聞き,紙に書かれた問いに答えるという形式だったんだけど(まさにリスニングだね),必ずどこかを間違えた。聞き終えてから問題文を見て解答を書く時には頭が真っ白になってるんだよね。思い出そうとすればするほど,頭の中が消しゴムでこすられてぼんやりとした範囲が広がっていく感じ。
自分で言うのもあれだけど国語の成績は良かった。でもこのリスニング部分だけはとにかくダメだった。
それがショックだったんだろうな。当時はメモもとっちゃいけなかったし。大人になってみればやり方一つで克服できることだ。けど,ショックさだけが残ってて,そのままなんとなくリスニングは難しいって印象が残っている。英語はずっと苦手だった。我ながらよく留学したな。学部時代、英語の単位は二回落としたぞ。

で,今日の講義で「実演される語りを聞きましょう,メモもぜひ取らないで耳からの物語に身をゆだねてください」って言われてね。
どうなったか。寝たよ。
数人の話者が交代で語って,それぞれに特徴があって,すごく上手い人もいたんだけど,全員等しく眠気が襲ってきた。

お話を語るというのは,完全に覚えた上で,物語に心をゆだねて自然に発話して聞き手に届けるというもの(すっごく抽象的だな)。要は昔話とかを本を見ないで話すのね。

だけど話者の中には,本なんてもとよりなくて,真実その人の言葉で語っているように聞こえてくるというのもあったんだよね。相当な技術だと思う。

にもかかわらず,私は眠かった。ほんとごめんなさい。

その後の講義や質疑応答などでメモを取れたら眠気は飛んだ。何か一緒にやることがあればいいんだと思う。

そんなんで大学の講義とかどうしてたんだろうってふと疑問になったんだけど,ああそうだ,かなりさぼってたわ。

 ということがあり,そのあとに園のクラスの送別ランチがあり,子供の習い事の係りで時間的に拘束され,やっと帰ってきたら今度はPTA。今週の仕事量は少ないけど,まだ残ってる。明日も午前中は園だし,小学校も行かなきゃだし,あーーーーーーー!!1!!

10.9.18

忙しいのの何が嫌かって

今の私にとって、予定ってのはぜんぶ「非日常」なんだよね。イレギュラー。

やることが山積みでも、日々のルーチンになってればそれほど苦にはならん。今は違うけど、たとえば、毎日子供の弁当を作るのだって、毎日のことになれば自然と体が動く。いちいち段取りに悩まない。

疲れのもとは、不確定なことをあれこれ想像していかなくちゃならないこと。エラー要素を探せば、いくらでも分岐は広がっていく。場合ごとの対処を考えなくちゃいけないと思うとほんと疲れる。しかもそうやってシミュレーションしたことは、ほとんど全部捨てることになる。

添削バイトは毎週一回正午の配信で、二日後の午後が締め切りの在宅仕事。量こそ毎週異なるけど、やることは同じなのでそれほど辛くない。ただ、ルーチンとして慣れてくるのに比例して作業感も高まり、別のところでダルさが増してくるのが厄介だけど。率直に言えばめんどくさい。

まあ仕事は概して、取り掛かるまではめんどくさいもんだ。走り出せば楽しいんだけどね。

そういえば、やる気ってのは起こそうと思って出てくるもんじゃなくて、たとえば、ジョギングしているうちに走るペースが上がっていく、そんな風に体と心が乗ってくる状態らしいね。だから、あと何分したらやる! みたいなのは実はとてもエネルギーが必要だし大変。そうじゃなくて、まず立ち上がる、水を飲む、ペンを握る、などの何らかの小さな行動を起こして、続けてまた別の行動を起こして……って助走をつけていくのがいいみたいよ。

明日は午前も午後も予定があるけど、仕事は明日中になんとか仕上げたい。水曜はわたし、レバノン映画見に行くんだ……!!!!  レディースデーめっちゃ大事。

そんな感じで今日は慣れない手芸を頑張ったよ。息をするのも忘れて布の端をミシンで処理して、糸の処理を終えたときについた一息が大きすぎてみんなにすっごい心配されてしまった。すぐ左遷されました。ビーズでブレスレット部隊へ。それはそれで配色を考えるのが楽しかった。

だから昼食は〈とら食堂〉でチャーシューワンタン麺(1140円)キメてきた。初訪問の店ではレギュラーメニューを頼むという自分の方針を曲げて、一番豪華メニュー頼んだったわ。

自家製の平打ち麺にこの地では珍しい醤油ラーメン、おいしゅうございました。今は亡き〈旅の途中〉(新高円寺)で大好きだった三河屋製麺の平打ち麺を〈はやしまる〉(高円寺)のワンタン麺につっこみたいという私の夢がかなった感じ。

6.9.18

気持ちだけ多忙

今年は小学校のPTAの委員になってしまった。来年の会長とかのPTA役員をリクルートするってやつ。電話で勧誘するんだって。二学期から始めるってことで、ついに二学期が来てしまった。

二学期、秋といえばバザーです。幼稚園も今年は役員なの。でも今年の役員はバザー要員で、ほぼ専任なのが助かった。去年は全行事に駆り出されてたからなあ。で、バザーの係の方々が、みんなプロ級の手芸の腕があって、兄弟児の小学校等でノウハウをすでに持っている人ばっかり。なのですごい熱が入ってる。私は、針に糸を通すのも糸通しが必要だし、玉結びが一番キライ。そういうレベルです。
よってできるとこで手伝います。適材適所だ。

あのね、今月のNHKの「100分de名著」はウンベルト・エーコの「薔薇の名前」なの。読んだことないの。だから読みたいんだけど、まだ表紙すらめくってない。すでに一回目の放送は先週終わった。見逃した。再放送も逃した。このパターンでは全部逃しそう。

それからね、この秋、いろいろ見たい映画があるの。
  • プーとおとなになった僕(ロンドンとタンブリッジウェルズの風景めっちゃ見たい)
  • 判決、ふたつの希望 (ヨルダン映画。今中東ものが熱い。ちょっと前にLast Man in Aleppoっていうドキュメンタリー映画を見たんだけど、それと同じサンダンス映画祭で注目されたらしい。エルサレムへのアメリカ大使館移転がネタになっている様子)
  • 恋のしずく(主演二人が見たい)
  • A Ghost Story(何度か映画館でトレーラーを見て気になってるんだけど、それっぽくほのめかすだけのティザーだったかもしれん。蓋を開けてみないとわからん。事前にレビューは見ない)
少しずつ公開時期は違ってるんだけど、非日常に逃げ込みたいので見たい。だから明日にでもなんか見たい。でも一番近いやつで来週からだ。

年末にむかって頑張るよ。で、気持ちだけから回って疲れる。いつものパターン。

17.8.18

約二か月ぶりにエアコンを稼働しない朝

まるで九月のよう! 日差しは眩しくも、気温がぐっと下がって、ともすると素肌を冷たい風が触れていく。からっとしてて気持ちがいい。
というのもこの天気図を見ればさもありなん。

平成最後の八月、人類が秋に触れたのもこれが最初で最後であった。

なんてことにはならないように…

15.8.18

うさぎちゃん!

今年は一年半ぶりに帰省している。

で、地元の友達と二年ぶりに飲み会に行った。

飲み会、たのしーねー!!
二次会にうさぎさんのいるお店で初めてバカラやった。運ゲーな印象だったので、何も考えずにチップをかけるだけなんだけどおもしろかった。
でも、もう翌日を棒に振るような飲み方はいかんわね。

来年、ダブル成人式するんだって。幼小中の仲間たちなので、24-33年のつきあいだって。まあ間は空いてるとしても。信じられん。

31.7.18

みとめたくない、人はいつか死ぬということ

 ※これはただの日記です。

 一言でまとめようとすると、タイトルのようにどうしようもなく陳腐な言い回しにしかならない。だけど、これは、私が一番直視したくないことであり、しかも厄介なことに年々その思いが強くなっている。
 そして、テレビ画面の中で宇多田ヒカルが「夕凪」という新曲を滔々と歌うのを見て、この人は私がまだ踏み越えられない一線を越えていったのだなと思った。
 そのことにものすごい衝撃を感じた。だからこうして言語化してみようと思ってこれを書いている。

 7月16日放送の「プロフェッショナル仕事の流儀 宇多田ヒカルスペシャル」を録画しておいたのを、先日ようやく見た。内容は前回のアルバム「Fantome」から三年、新譜「初恋」のレコーディングを追うというもの。 
 その中で一曲だけ、ものすごい難産な様子をずっとカメラは追っていた。
 もう三年も悩んでいる楽曲だと宇多田ヒカル本人は言う。当初の仮タイトルは「Ghost」。ロンドンのレコーディングスタジオのレンタル期間には、この曲の歌を残して他の楽曲も含めて全部録り終えていた。その後、またしばらくの時間をおいて「夕凪」というタイトルで完成が告げられ、歌入れの風景とともにフルコーラスが流れて番組は終わった。

 番組では宇多田ヒカルの生い立ちを振り返っていた。彼女は幼少時からずっと両親の仕事に合わせてスタジオ生活を送っていたようだ。八歳の時に母に勧められて歌い始め、歌をつくることで、抑えてきた自分の思いを託すことができるようになったらしい。そしてその母との別れ。

 そんな番組のつくった「物語」を見ながら、自分の腑に落ちるストーリーラインを自分の頭に再構成し、紹介される楽曲を眺めていた。
 前アルバムは宇多田ヒカルのお母さんが亡くなり、物理的にお別れをするための言葉を歌に載せたのだろうと思う曲がいくつかあった。例えば「花束を君に」。例えば「道」。どちらも、そのとき離れていく母へ向けた想いが歌になっていて、歌詞における出来事の描写は極めて具体的であり、個々のエピソードが目に浮かぶ。それらきれいな思い出とともに手を放そうとするイメージがある。
 そこから三年、宇多田ヒカルは出産も経験したはずだ。そうして、もっと後ろから物事を見るようになったのかなと思った。

 失っていくだけじゃない。命が自分の手の中にある。初めて赤子を抱いたときの温みが、私個人の思い出として蘇った。そのときに感じたのは、命への歓びだけではない。
 命を自分の実感として得ることができたからこそ、いつか本当に終わってしまうのだとわかるというのは、なんとも皮肉なことだ。

 歌詞は夕凪の風景を淡々と描きだす。風もなく、ただ静かに寄せては返すを繰り返す穏やかな波に、命が近づき、やがて去っていくさまを見出すのは難しいことではない。それは例外なく起こること。誰にも。
 その場に居合わせた、明言されない私は、小さくなった「あなた」を抱きしめ、しかしその風景にはどんな価値をも見出さない。ただ眼前に起きていることをそのまま受け止める。「夕凪」はそんな曲だと思った。

 極めて個人的な話になるが、私は死が恐ろしい。不老不死の薬があるなら、泰山に登って祈祷を捧げたいほどだ。
 おそらく、自意識が芽生えるか否かの思春期にさしかかる微妙な時期に身内の死を経験したからだと思う。呪いのようなもので、もう干支を何度か周回しているというのに、まだ消化しきれていない。だからなおのこと、誰も死んでほしくないと割と本気で思っている。自分が死ぬのだって怖い。
 そして独り残された母がここ数年、ものすごい勢いで小さくなっていくのを見るたびに、その思いは強くなる。ずっと今のままならいいのにと。

 もし私が夕凪の浜辺にいたら、あなたを私の視界に入らないところに置いて、ばしゃばしゃと波の中に飛び込んでいっただろう。そうして腕を振り回し、水面を踏み散らして、「鏡」を割ろうとしただろう。
 それから、決して割ることができないとわかって、きっと泣くんだろう。

 番組を見終わった後、私は「テレビって物語があるのがずるいよね」と隣で一緒に見ていた夫にこぼし、顔を上げないようにしてティッシュの箱をひっつかんで鼻をかんだ。でもきっと全然、ごまかせてはいなかっただろうと思った。

 やっぱり言葉にしきれない。あのとき鼻水と一緒に顔からひっぱりだしたはずの涙の残滓は、今も自分の中にある。
 ただわかるのは、最後の歌録りで宇多田ヒカルがマイクに向かっていた姿は、とてもとても美しかったということだ。

23.7.18

晴れてきたので

夏休みの宿題を一つこなした。

毎朝、窓を開けると

大気中に充満した水蒸気が朝日ですでに温められている。私的最高気温から一日が始まることにうんざりして、エアコンのドライを冷房に切り替えている。日中も夕立が恋しくなるほどの晴天で、洗濯物を干しにベランダに出るあの一瞬で、さらした腕や首筋に、じりじりと照りつける陽光が痛い。

そして毎日思っていたのだ、梅干しをはよ天日干ししなきゃなーって。

そしたら、今日はめっちゃ曇りだよ!

晴れてる日は風呂場を歩いている気分になる外が、今日は亜熱帯植物園。何この湿度。家の中にこの空気が入ってきたら、きっと壁に結露する。やばい。窓は締め切っとこ、いつも通り。

梅、干せないなー。残念だなー。

21.6.18

タコの季節

店先に生の蛸が並んでいる。

生の蛸と言えば、鮨にしてぽん酢をかけたり、カルパッチョにしたり、ということくらいしか想像できなかった。
蛸にはもともと塩気があるし、嚙み切れる程度の歯ごたえもよい。それほど手をかけることもない。

蛸はトマトと煮込むと化ける。
オリーブオイルとニンニクを大目に垂らして、蛸とフレッシュトマトを重ねて煮込んでいく。アヒージョのイメージである。
トマトから大量の水が出るので、しばらく熱し続けて飛ばし、赤い油が分離してチリチリ音を立てたら完成だ。
しかし、蛸は煮込みすぎると生臭くなる。生のトマトは別の鍋で半分ほど水分を飛ばしてから投入した方がよかったな。
あるいは、缶のトマトの方が適しているかもしれない。

数年前からBSプレミアムで「世界入りにくい居酒屋」という番組が流れている。
タイトル通り、世界の地元民ご愛用、日本人は旅行者として現地に行ったら入りにくいだろうという居酒屋を紹介する内容だ。
そこで、ポルトガルのポルトが取り上げられた。

地中海沿岸では蛸はよく食べられるようだ。蛸は悪魔の使いなどと忌避する文化を先に知っていたので、一瞬、意外だなと思った。
しかし、海が近く、漁業が主要産業の地なら、捕りやすい魚介は食糧として定着するだろう。
居酒屋よりもむしろお酒も飲める飯屋といった趣のある、主人夫婦が営む小さな店では、女主人がかまぼこ板を3枚ほど重ねた大きさに切り出した蛸の足をフリッターにして、トマト煮込みをかけていた。

合わせるのは、初夏ということもあり、甘く濃厚なポルトワインではなく、グリーンワインだ。瓶内発酵の微発泡白ワインはグラスに注いで陽にかざすと、かすかにグリーンがかって見える。
朝晩は少し涼しく、日中も日差しこそ暑いが日陰を渡る風は爽やかなこの時期にふさわしいワインだと思う。
うちの近所で取り扱う酒屋があるのでまた飲みたいものだなあ。

そして今日は夏至だった。
Happy solstice!

26.5.18

五月の九重高原

先週末は九重高原のあたりに行ってきた。新緑がきれいで癒される。主に眼が。
阿蘇から九重にかけての国立公園・国有林のあたりは全然開発されておらず,場所によっては低木と草原になっていて,見渡すかぎりのローリングヒルなのがたまらない。大地がなだらかにうねるのは,渓谷と並んでずっと眺めていたい景色の一つだ。



この辺の山の上に咲くミヤマキリシマも今が旬なので,ロープウェイで鶴見岳の山頂付近までワープする。石の敷かれた遊歩道をぐるぐると歩くと,ロープウェイ駅から山頂までの往復で約一時間ほどだ。子供たちは車に押し込まれた体を存分に開いて飛び回っていた。

ミヤマキリシマはつつじっぽい低木で,しかしながら高山植物らしく花びらも葉も小さく可憐だった。


いつか子供たちといっしょに山歩きしたいものだなあ。私自身,登山はやったことないけども。7歳児でも3時間半は登れるという話を先日聞いたのでがんばりたい。その前に自分が登れるかも怪しいが……。


まさか別府までまた車で来るとは思わなかった。片道2時間強,運転できるもんだな。

大分の竜門の滝。夏場は滝滑りができるらしい。
イサカのバターミルクフォールを思い出させる。









17.5.18

暑くて融けそう

30度ってこんなに暑かったっけ。外を歩いていて、浴室内を回遊しているような錯覚に陥った。

こんな季節になると、ありとあらゆる皿に薬味を一掴みぶちこみたくなる。

幸い、今は店先に新生姜が並んでいる。茗荷、大葉、分葱などとともに刻んで、さっと水にさらしてあくを抜き、タッパに入れたらキッチンペーパーで覆ってから蓋をする。そうしたら、ひっくり返してから冷蔵庫にしまうのだ。もちろん、使う時には天地返してから開ける。でなければ全部溢れる。

こうしておくと、抜けた水分はみんな吸収されるけど、蓋を開けるたびにペーパーを取り替えることでつねに余分な水分を取り除くことができる。

薬味は味噌汁椀に投入するもよし、納豆に山盛りのっけるもよし。

ついでに今は鰹が出てきたので、すし飯にこの薬味といりごまをたくさん混ぜ込み、皿によそって、揉み海苔を敷き、醤油、みりん、酒で漬けにした鰹を並べれば初夏のお手軽ちらし寿司である。
暑いからほの甘い酸味のあるすし飯がおいしいし、薬味の香り、ごまの弾ける食感、生姜の優しい刺激が鰹に合うんだな。

この場合、加える辛味はわさび一択だ。
鰹の刺身にはおろしにんにくとおろし生姜を混ぜて醤油に合わせるという、大変下品美味しい食べ方もアリだが、にんにくは薬味の爽やかさを全部踏み潰すからもったいない。

というのが今日の夕飯でした。おいしかったー。

11.5.18

創作物を楽しむために必要なこと

本でも映画でも絵画でも、作品それだけの範囲で理解して楽しめれば十分なのはわかっているけど、その作品や創作者の属する流れ(時代とか社会状況とか作者の個人的な事情とか)、言い換えればその作品を取り巻く文脈を知っていれば、もっと楽しいだろうし、そういうのまで理解したいものだなあと思った。
ありきたりなことだけど。

そういう姿勢を突き詰めていくと、例えば読書だとすると、文字そのものの意味ではなく、行間や背景の感情ばかりを探ってしまうし、その結果、書かれた内容からは的はずれな考えに陥ってしまう恐れも出てくる。私自身は。なので、きちんと踏みとどまらなければいけない一線はある。

ともあれ、昨日の投稿をごちゃごちゃ書いてる時に、父親がモンテーニュを引用する下りで強く思ったんだよね。
父子の会話の中でフランス語のフレーズが突然混在してきて、見ている立場では引っかかるんだけど、登場人物は当然の顔をして流している。彼らはフランス語も話すので混ざったのかもくらいの気持ちでいた。字幕版だったから、その部分の違いもせいぜいフォントがイタリックになっているくらいしかなかったし。
そしてあとから、あああれは何か名言を引いてるのかと思い至ったときに、調べるすべがない。いやま、今回はたまたま私が聞き取れるくらい超絶簡単なフランス語のフレーズだったからちょっとググればすぐ出てくるんだけど(それに幸い今回は、多分シェイクスピアくらいの名言だったから)、これがギリシア語だったら完全にスルーしてた。
劇の前半で主人公は読書が趣味だと見せて、中盤でガールフレンドが読書が趣味なんて暗そうで公表できないよ、と言っているし、母親が民俗話を読み聞かせる場面もあるので、古典からの引用が出てくる伏線はあるのだけど。伏線というほどでもないな。そういう設定がきちんと描かれていたってこと。
で、その引用の重力というか、当該エピソードにおける重さが全然わからなくて残念だなと思った。


 先日、更級日記を読み終えたんだけど、あれも様々なところから引用や仄めかし、借用があって、注釈を見れば理解はできるけど、その味わいまでには至らない。
更級日記の作者は物語に夢を見ているから、当然源氏物語や紫式部日記からの引用は多くあるし、他にも俊成とかからもなぞらえた表現がガンガン出てくる。
それに作者の菅原孝標女は父方を辿れば菅原道真に行きつくし、母方には蜻蛉日記の藤原道綱母が中の良い叔母として存在する。
だからこその表現になってくるのだけど、作者の家族構成なんて読書においては本当は知らなくてもいいことなんだよね。まあ更級日記はエッセイだから普通の小説とはジャンルが違うので、知っていてもいいけど。

そういう「創作者が受け手に期待する前提知識」は悉く持ってないな、と自分にがっかりしたということを記録しておこうと思ってこの日記を書いた。
こういうのが積み重なって教養になるんだろうな、と思った。

実に自分には教養がない。けど、そんな教養を問われるような作品こそ次も見たいとも思った。



「君の名前で僕を呼んで」にはヨーロッパ映画を下敷きにした表現なんかも多く散りばめられているらしい。全然わからん。しかも監督は美しい映像で有名な人だったんだって。過去作も見てみたい。若かりし頃のヒュー・グラント主演の「モーリス」は画像検索したらめちゃめちゃキレイでびっくりした。あとは「日の名残り」。これは原作も読みたいと思ってるんだけど、映画が先か、本が先か。
この監督、自宅のインテリアもとても素敵で、美への感覚がかなり鋭いのかなって感じ。


更級日記はおもしろかった。
中盤以降は、親に言われるままに出仕して、年頃になってまた親に引っ張られて結婚する。憧れた「浮舟の君」にはなれず、されど受領の娘にふさわしい受領の夫を得て、子供時代と変わらずそれほど苦しくもない生活をおくる中で、物語からも離れ、どうももだもだしている作者の心情がありありと浮かんでくる。この辺は「報われない」気持ちを「芹をつむ」という語を交えた歌で表現してる。
それから子供もできて、また再雇用されて現場復帰するんだけど、職場から離れていたからさほど経験があるとも言えず、かと言って年的にもう若手には混ざれないし、パートタイムだしと言い訳できるほどに本人もその仕事(出仕のことね)に生きがいを見いだせないでいる。現代と変わらないよね。
楽しみといえば、同僚のうち数人は話が合って文を交わせるような仲になれたこと、たった一度だけ(しか書かれないけど)、出仕先で同僚と歌比べをしたのをうまく両者引き分けにしてくれた源資通にちょっと心が動いたこと。このとき夫は単身赴任でいなかったんだよね。
そして夫は先に亡くなり、物語に没頭している時間にもっとお経を唱えておけばよかった(経文が当時の日々なすべき努めであり、学ぶべきことだったんだよね。子供の頃から物語ばっかり読んでないでおべんきょしなきゃ、と書いている)と何度も後悔している。子も甥姪もときどき訪ねてくれるけど、退職して同僚とも離れてしまった孤独感はどうにもできないよう。かつての友が筑前に下り、まるで恋文かというくらい千千に乱れた心境も残している。

途中から、古文を読んでるという意識は全くなくなった。作者の言いたいことが現代とそれほど変わらないんだもの。普通にエッセイを読んでる気分になって、気がついたら終わってた。まあそもそも、全体的に薄い本ではあるけれども。

以上のことは次の段に書いてある。
17(前に書いた「后の位も何にかはせむ」)
56(物語のようにはいかないなという諦観)
57(宮家に出仕するも居場所がない)
62(資通すごい)
72(友よ、その1)
73(友よその2、恋と読み取れるが友情だろうとの注がわざわざ書いてあった)

角川ソフィア文庫の原田文子編集のがすごいよかった。

10.5.18

映画見に行った「君の名前で僕を呼んで」

昨日、立てたフラグはへし折られることなく、無事に「君の名前で僕を呼んで(Call me by your name)」を見てこられた。映像が美しすぎてちょっと現実に帰ってこられない。以下、ネタバレ配慮なくまとめる。長い。

北イタリアの別荘で夏の休暇を過ごす主人公一家。1983年、考古学者の父のもとに、その年も若手研究員がやってきた。6週間の滞在中、父親について研究をするらしい。24歳のアメリカ人と主人公のひと夏の逢瀬を描いた作品。原作の小説あり。

別荘は古いが大きな邸宅で、母親が手をいれる果樹園があるほど広い庭園もある。石造りのプール付き。何かと木漏れ日の下にテーブルをセットし、昼から正餐をしていた。もちろんお手伝いの人もいる。街並みも石畳が町の広場まで続くようなところで、ヨーロッパ外の人が憧れる「ザ・ヨーロッパ」って感じ。映像が美しすぎてワンショットワンショットが絵画のよう。

主人公は17歳、同年代の友人たちも同じようにここへ夏の間だけ来ている様子。主人公はフランス人、家で雇われているのはイタリア人、そして今回やってきたアメリカ人、彼らに対し三種の言語を流暢に使い分ける。また、楽器の演奏も得意で、趣味は読書と編曲。ちょっと内気でインドアな内面を裏切らない外見は、まだ体格が出来上がっていないと思わせる筋肉の薄い細身の身体、栗色の巻き毛になんならそばかすもありそう。白磁のような肌に主張する眉と大きな瞳。
なんだこれ、マッチョ文化における理想の「はかなげでいて強さを秘めたヨーロッパ美少年」だろ。と言いたくなっちゃう。

そう、主人公もアメリカ人も男。主人公エリオはそんなわけで、オリバーのいかにもアメリカ人な無神経で勝手で、いつのまにか町の飲み屋で顔なじみを作っていたり、自分の友達にも気に入られちゃっているような、アウトゴーイングなところがちょっと気に食わない。食わなかったんだけど、あれこれあって近づいていく、という流れ。

17歳と24歳という設定が絶妙、というのが一番の感想だった。
17歳といえば身体機能は大人にかなり近づいているけれど、完成してはいない。性的衝動は進展していても、理性的に説明するすべがまだない。精神的な経験不足もある。心も身体もまだ成長の余地がある状態だ。劇中で何度か登場する、庭のアプリコットの甘酸っぱく、少しかたい果肉のイメージと重なる。
一方で、1983年の24歳はかなり成熟している。ただこの映画はほぼエリオの視点から描かれているものだと終劇後に思ったので、その分、実際のオリバーよりも大人びて描かれているのかもしれない。後半に出てくる桃(おそらくネクタリン)はアプリコットよりも酸味は控えめで果肉は柔らかく、果汁も多い。オリバーになぞらえているような場面で登場する。
エリオはアプリコットから桃への変化の入り口に立っているのかもしれない。

ストーリーに沿って思い出すと、エリオにはオリバーがいつの間にか気になってしまっている。ここの転機ははっきりとは描かれていないけれど、エリオとオリバーは同じくユダヤに繋がる血筋だぞ、とか、オリバーが思ったよりちゃんと研究者しているぞ、とか、エリオの女友達の一人の腰に手を回してキスするのを見たりしているうちに、 
I want you to know me.  あなたに僕を知ってほしい
と伝えてしまう。エリオが自覚した感情は「好き」という言葉で表されるものではなかった。けれど、オリバーに気持ちが向いていて、近づきたいという欲求という点では根本では同じ性質のものだろう。何度も繰り返す。自分に言い聞かせるように、自分の説明しようのない感情に輪郭を与えるように。そしてダメ押しの 
Because there is no one else I can say this to but you(この台詞はスクリプトを探して確認した)
唱えている内に感情が高まってきちゃったんだろうな。衝動的に口をついたという印象に17歳らしさ、未成熟さが見える気がする。
そうか、感情というより衝動といった方が近いのかも知れない。全身から出てくる性急な何か。気持ちなどと言葉で説明できるようなものではなく、もっと本能的なもの。
それに対してオリバーは「自分の言ってることわかってんのか? 買い物へ行く」と逃げる。ここがエリオとの対比になっていて、大人のずるさを感じる。オリバーへのもやもや感がここからだんだん増えていったな。

エリオは自分だけのお気に入りの川べりにオリバーを連れ出す。そこで二人は雰囲気にのまれて口づけを交わす。
つまるところオリバーが止めていたのは自分自身であり、初めからオリバーはエリオが気になっていたわけだ。ここのキスを仕掛けたのはオリバーなのがまた……もやもやする。
ただ、二人の性指向については触れられない。

エリオにはおそらく数年来の仲の良いガールフレンドがいて、この夏に友達以上の関係になるかもしれないという雰囲気の中にいる。帰宅以来、オリバーはエリオから距離を置こうとしていて、二人の仲がぎくしゃくしている。そんな中で先日のキスから性的な興味が強く生じている様子のエリオは、ガールフレンドと彼にとっても初めての性行為を果たす。
エリオにとって彼女は気心知れた友人で仲もいいんだけど、ここでの行為は興味本位というか、年齢相応の生理的衝動の強さを感じたなあ。そもそもエリオから彼女へのときめき的な描写はほとんどない。二度のセックスシーンも全然色気がなかった。 

で、不穏な空気のオリバーに、エリオから勇気を出して「仲直りしたい、沈黙は嫌だ」とのメモを渡すと、返答は「真夜中に会おう」だった。確信を得てからアプローチをしてくるオリバー、ひどいやつ! 
 それから、エリオは時計を見まくったり、カウチに昼寝しようと横になっても何度も寝返りを打って寝られなかったり、オリバーがエリオの父親と共にギリシア彫刻のスライドを確認しながら、男性像の上半身のしなやかさをうっとりと眺めていたりする。
見てるこっちにも彼らの緊張や昂りが伝わってくるわけですよ。
その後、夜中にバルコニーで会ってようやく言葉を交わせた二人は、どどどっと深い関係へとなだれ込んでいく。のだけど、こっちは彼女との関係に比較して、直接的なところはまったく映していないのにエロティックな映像になってた。

タイトルの回収はここ。後朝の歌ではないけど、翌朝目が覚めた二人が顔を寄せたところにオリバーがささやく。 
Call me by your name 
エリオに自分に向かって「エリオ」と呼びかけさせ、「オリバー」とエリオへ告げる。
エリオが「自分を知ってほしい」と言ったことの延長線上にこの行為があるんだろうなと思った。知ってほしいし、もちろん言うまでもないがあなたのことも知りたい。知ることは近寄ること。目いっぱい近寄って、相手との境界もなくしたい。あなたと自分を同一視してしまうくらいに。
となれば、肉体的にも繋がりたいとなって、きっちりやっちゃったのね。オリバー、鬼の所業だね。罪深い。

エリオにとって、生物として成長していくときにパートナーとなりえるのは女の子のガールフレンドだったけど、精神的にぐっと近寄れるような相手はオリバーだったということかな。この後、ダメ押しのようにエリオの自慰シーンがあるんだけど、普通に男の子だった。まあちょっと普通じゃないけど。桃つかってた。
余談で、エリオの役者のインスタグラムに梨の画像が掲載されて、そこにオリバーの役者が「桃から梨に浮気したの?」ってコメントしてるの。すごいよねえ。爆笑ですよ。

ちなみに字幕版で、「好き」だと言っているところはオリバーからの一言だけだったし、劇の終盤で彼女がエリオを訪ねてきて「私ってあなたの彼女?」と問う場面があるのだけど、周りの人達は恋愛の定番を理解していて言語化している。だけど、エリオとオリバーの関係、オリバーへに向けた感情についてはエリオの口からは言葉による説明はない。ここの対比もすごいと思うんだよね。
エリオは彼自身にとって消化しきれない、けれども深い関係を誰かと結ぶという稀有な体験の真っ只中にいて、当然のことながら初めての経験(出会い)でもあったってこと。エリオの知っていた恋愛とは違っていた、とはいいすぎかもしれないけど。
あとから振り返れば、あれは恋だったのかもなとぼんやり思い当たるという感じかな。やってることはやってるんだけど。その頃って心と身体が一体化しきれてないし、そのことに無自覚なように思うので。成熟してくると、自分の意志で分離しようと思えば可能なようになっていくと思うけども。

そうして気がつけばオリバーはそろそろ帰国する時期。両親は二人の仲を勘づいているけど、エリオに干渉することはなく、それどころかオリバーの大学見学旅行についていけと勧めてくれる。最後の数日、げらげら笑って過ごして、ミラノの空港行き電車に乗るオリバーと、エリオはほとんど言葉もなく抱擁しあってから見送り、二人は別れる。
このときのオリバーが車窓に肘をついて切なそうな横顔を見せるのに、くそアメリカ人め! とちょっと怒りにも似たものが湧いてきた。真夜中に会ってからのオリバーは率直にエリオを愛しがる。見返りを確保してから自分を見せるというやり方にちょっとした憤りを覚えるね。だからここで悲しい顔を見せるのに対して、見ているこっちは素直に残念だねと思えない。
それに17歳エリオはどうしたらいいかわからなくて呆然としてるのに。ずっと駅のホームのベンチから立ち上がれず、家に電話して母親に車で迎えに来てもらうんだけど、その車の中で子供みたいにひくひく泣くのよ。ちょっと収まってもまた泣けてきちゃってさ。お母さんは運転しながら、片手でひたすら頭をなでるんだけど、ここからもう親目線でしか見えなくなった。親に何もできることないよなあ。

そして帰宅後、父親がエリオを慰め、諭す。このシーンはちょっと説教臭いかなと思ったけど、でもこういう親になれたらなと思う場面だった。両親は、エリオとオリバーのことはわかっていて、例えば同性愛的なことは全然言及しない。それどころか、こんな密な関係性を築けることは幸運だという趣旨のことを言う。Parce-que cetait  lui ; parce-que cetait moi. (直訳すれば「それは君だったから、それは僕だったから」)とモンテーニュを引用して、エリオとオリバーはかつてモンテーニュがラ・ボエシと結んだ深い友情にも匹敵したのだと伝える。学者の父親からこういう言葉が出てくるということは、息子の行動への賛辞にほかならないだろうな。
加えて、親としては子供が傷つくのを避けたいと思うけど、逃げてばかりでは先に心が死ぬ。そうでなくても、年をとれば心はいつかすり減っていく。容姿も衰え、誰も見向きもしなくなる。心と体が同時に満ちたりて、その状態で向き合える人と関係性が持てたのはすばらしいことだとエリオの経験を全肯定する。
この場面では、父親がメガネを初めて外す。すべての演出が父親としての威厳や確かさ、そして頼りがいのようなものを補強していると思う。その中で、自分はもう心がすり減ってきたと告白する誠実さ。対して、17歳エリオの命の輝きが増して感じられたなあ。

オリバーは結局、エリオの眩しさに目がくらみ、若い肢体に溺れただけだろうとあてこすりたくなる。エリオを傷つけてくれちゃって! でもエリオはそれでもオリバーと近づきたかったんだよね。しかたないか。

半年後、雪のクリスマスもこの別荘で過ごす。ユダヤ系なのでハヌカだけど。
そこに鳴る一本の電話はオリバーから。結婚するという。しかも、彼女とはもう二年のつきあいだったらしい。オリバーはエリオの両親から夏の間に温かくもてなしてもらったことに改めて礼を述べ、自分の父親とは同性に好意があるなんてことを言える関係性はないと説明した。
エリオはいとおしそうに「エリオ」と呼びかけ、オリバーも「オリバー」と返す。そして加えて、I remember everything...ここの字幕が「僕は決して忘れない」
オリバー、お前、そこでそれを言うのか! ばか! と怒りに震えたのは私だけではあるまい。

エリオがリビングの暖炉の前を陣取って、焦点を合わせることなく揺れる炎を見つめる。その顔の横に映し出されるクレジット。後ろでは母親と手伝いの人がハヌカのディナーの用意をしている。エリオが目をゆがめたり、眉間をおしたり、あれこれ手を尽くすけど、一筋の涙がこぼれると、声も出さずにさめざめと泣く。
この泣き方が、夏の日の大泣きとは全然違っててね。17-18歳の成長は目を見張るね。そしてエリオに気付いた母親が優しく声をかけるところで暗転。終劇。

ほらアメリカ人への煮え切らない気持ちが湧いてくる。原作ではオリバーの心情が説明されていて、このもやもや感が払拭されるようだけど、流石にそこまで手を伸ばすエネルギーは今はないなあ。

立ち返って、この映画のOPでは、古い写真がテーブルの上にいくつも積み重ねられていくのだけど、その殆どはローマ・ギリシア時代の彫刻で、父親の研究対象かなと思わせるもの。けど合間に、煙草とか時計とか、ちょっと違ったものが混ざってくる。
ひょっとしたら、後年、エリオがこの別荘にやってきて荷物の整理でもしていたかもしれない。そして当時の物がいろいろ出てきて、思い出を振り返った本編だったのかもしれない。 
OP後、本編冒頭で、タイトルカットと同じくハンドライティングで「1983年、北イタリアのどこか」 と表示される。本編を思い返せば、別に「どこか」と曖昧にする必要はなかったと思う。オリバーが帰国する直前の二人の旅行でははっきりと地名の説明がなされるし、見送った後に母親に電話するときにも駅名を述べている。ましてや物語の舞台となった別荘のある町の名だってもう少し細かく説明してもいいのに、してない。もう忘れてしまったのか、それとも思い出したくないのか、あるいは大事な思い出としてそっとしておきたいのか。そんな記憶をエリオが辿り直している、というイメージが浮かんだ。

以上です。

8.5.18

フラグ立てじゃない!

今週のタスクは今日中に終わらせて、明日わたし、映画見に行くんだ…!

昨年12月に、在英の人のレビューを見てからずっと気になってた映画がある。
"Call me by your name". どんぴしゃの恋愛映画。
最初に見かけた記事の中で何が自分に刺さったのかさえ全く思い出せない。ただ、青空を背景に、黄色のハンドライティングでタイトルが書かれたキービジュアルだけが、強く印象に残っている。

 恋愛が中心主題の映画って全然見てこなかったなあ。Love actually以来(しかもビデオだった)かもしれない。あっ、Twilightもあった。

明日は水曜レディースデーでちょっと安い。700円オフって大きいよねえ。
今からがんばるよ、私。

25.4.18

手が回らない

しばらくこちらに滞在して手伝ってくれていた母が帰り,やることが山積しているのにどこから手をつけるべきか手をこまねいている。

とりあえずは仕事だ仕事!
 英語のダイアログを聞いて,そこに続く会話を作りなさいって問題の添削をしてた。
A「この間貸したCD,返してよ」
B「えっごめん,無理」
A「なんで?」
でBの返答を作文させる。確かめたいのはここまでの理解と,作文の文法的正確さなわけだから,話がつながれば内容はなんでもいい。
とはいっても「又貸ししてるから返せない」という返答はダメだと思うんだよね。人間的に。勝手に貸すなよ! お前のじゃないよ! と私がAだったら思うわけです。
いいじゃん,「ごめん今日は持ち歩いてないよ,明日持ってくる」でさ。

まあどうでもいいけど。

この辺の春の旬の魚は芝エビ,あさり,きびなごだ。きびなごは小さい。料理屋で刺身が出るけど,よくあんなこまいのをいちいち下すなあと感心する。家ではとてもやってられないので,まるのまま粉を振って揚げる。
ついでに夫の弁当に入れてやった。そしたら「イギリス料理リスペクトしてるんでしょ」とのご感想を受け,スターゲイザーパイを知っているあなたもなかなか……と思った次第。

こういうどうでもいい(二度言った)日記を書いてるから時間が無くなるんだよね。

今したいこと。
月初に行った旅行を振り返りたい。
図書館で借りてきた西加奈子「炎上する君」を読みたい。
お手紙書きたい。うんと長いやつ。
更級日記の大人編がモラトリアムな私にめっちゃ刺さって痛いので早いとこ読み終わりたい。
「ペンタゴン・ペーパーズ」見てから気になってる部分を図書館で調べてまとめたい。
 27日に封切する映画「君の名前で僕を呼んで」見に行きたい。昨年末からちょこちょこ宣伝されているのを見て,見たいなーと思ってきた。こういう恋愛が主題のフィクションは久しぶりだ。 来週の水曜日が狙い目だな―。
 あとあれ,西加奈子の新作が先月出てた。「おまじない」。いつか椎名林檎との対談で「女の子の友達以上恋愛未満の関係を書きたい」と話してたやつだろうと思う。読みたい。

22.4.18

くじ運

雁ノ巣レクリエーションセンターで行われている〈ガンレクフェスタ〉に初めて来た。

ここで普段からやってる子供向けスクールの無料体験の対象年齢に、ようやく次男も達した。よって二人まとめて放り込める。はーここまで長かった。

福岡はホークスもアビスパもあるので、ここの野球教室とサッカー教室は関係者が教えてくれるらしい。なかなか貴重な体験になると思う。近年は子供向けイベントがたくさんあっていいねえ。

ガラポン抽選会に参加したら、次男がアビスパ福岡の選手のサインボールを当ててしまった。すごいくじ運だ。今、井原監督なんだってね。Jリーグ発足時の選手は少しは知ってるけど、さすがにどのサインがそれかは……。

20.4.18

Happy my birthday!


子供が小学校に上がると何かと気ぜわしいもので,こんなに緊張で息を詰めた4月は初めてかもしれない。まだこの先,家庭訪問と親子遠足,その後にPTAイベントが控えているが,入学式・始業式から続く一連の予定は一段落した。ほっとした気持ちで食べるイチゴのショートケーキは至高でした。

こんな派手なガーベラは初めて見た。といっても,花のことはよく知らないけど。
オレンジがかったピンク色の一重のガーベラが似合うと何人かの友達に言われたことがある。はてさて,今もそのイメージは残っているのだろうかね。ちょっと褪せてきてないか? と思わなくもない。がんばろ。

19.4.18

映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を見てきた

働く人たちの話は心が踊るね。おもしろかった。

以下自分のためのメモ。

ペンタゴン・ペーパーズ

主人公;ケイ
ワシントン・ポスト紙の社主。家族経営の地方新聞社だったが、今ではそこそこの規模となっている。45歳の時に入婿で社主を継いでいた夫が亡くなり、専業主婦から自ら社主になる。
もともと聡明な女性、話題も豊富で仕事にも思慮が深いが、自分の意見を述べるののに自信がない。本編冒頭の理事会で株式上場の提案のため、念入りにメモを作っているが、いざその場になると言葉でなくなり、取締役のフリックが代弁した→のちに編集主幹のベンが、まわりからよってたかってお前は求められていないと言われてしまって完全に挫けてしまっていると擁護している。
取締役のフリックはケイのよきアドバイザーではあるが、父時代(または夫時代?)からの側近ゆえに、完全にケイの味方ではない。保守的。
やむを得ず表に立たないといけないときのために十分な準備もしている。夫の葬儀のときにもスピーチのメモを作っていた。遺された新聞社を家族のために守る、けれども新聞社としての理念も守るとする精神がこの時にすでにある。娘がこのメモを引き出してきて、読み上げてもらった時に、当時の精神を思い出したのだろうな。

新聞社のためにコストがかかっても良い記者が必要だとは本編冒頭で述べていて、質の高い新聞作りを強く意識している。よってベンに意見が近い。


ベン 
編集主幹で革新的。今なら事業は女性が継いでもいいと思っている。職場の政権にまったくおもねらない女性記者の記事を一番擁護しているのがこの人。表現の自由をうたった修正一条を誇りに思う。

あらすじ
現地調査員としてベトナム戦争の前線に送り込まれたロンは,従軍調査をしていく中で,戦況悪化にも関わらず歴代政権はその事実を隠して戦争継続していることを知る。そのため,帰国後に一連の戦争報告書である通称ペンタゴン・ペーパーズを,所属のランド研究所へと持ち出した。
そのコピーが初めに持ち込まれたのはNYタイムズ社だった。世紀の大スクープに,主人公ケイが社主を務めるワシントンポストは臍をかむ。が,ポスト社にもコピーの一部が謎の少女によって持ち込まれ,それを端緒にポスト社からロンへの接触もなされ,すべてのコピーが手に入る。
NYタイムズが報じたペンタゴン・ペーパーズの記事はすぐさま政府より差し止め請求がなされ,タイムズ社はそれに応じていた。よって同様の記事を公表しようとしているポスト社は,秘密保持法だけでなく、国家反逆罪にも触れる。さらに情報源が同じならばNYタイムズと共謀罪に問われる可能性があるとわかった。
同時期に進んでいたワシントン・ポストの株式上場は、罪に問われればおじゃん。ここはまとめて解決することになるだろうとは思っていたけど。
新聞社は潰れる、記者たちも捕まる、新聞業界としても言論の自由を奪われる、で、全部潰れる可能性がある。けれども、「発言への圧力は発言にて抵抗する」と,編集主幹のベンは記事にする姿勢を保ち続けた。
記事にするか否かを最終的に決めるのは社主のケイ。父,夫と連なる旧世代の理事たちに猛反対される中,記事にする決断を下す。
高裁ではNYTは差し止め、ポストは御咎めなし。最高裁では6対3で勝ち。賛成派裁判官の意見では「言論の自由はガバナー(政権)ではなくガバーン(国民)のためのもの」であるとした。

雑感
ここまではまるでメディア対国(ニクソン)だけの話で、ラストもウォーターゲート事件を仄めかす形でニクソンを悪役に仕立てて終わっている。ガバーンのためと言いつつ、登場する一般人はデモ活動をしているヒッピーモブくらいだった。

ペーパーの流出からNYTが記事にするまで3ヶ月、それからポストにリークがあった。持ち込んだ少女の身分が明らかにならないまま、リーク元に目星をつけた記者がダンに接近して、ペーパー本体を手にすることができた。少女は最高裁で再登場する。ケイの外見だけは知っていて、自分の身元を明かした。国側代理人のアシスタントだったが、兄がベトナムに送られているというだけの一般人だ。ここで新聞社とは無関係の人物をねじ込んでくることで、この問題がメディアだけではなく、国民全体に関係するものだと示唆する。

思えば初めから登場人物たちの価値観は一定で、約一週間という短い期間で、ケイはほんの小さな意識改革をし、ベンは自分の仕事をしながらもケイやジョイスのような女性たちの立場に意識を広げ、フリックは自分が旧世代であることを認識した。一人一人は本当に小さな変化しか起きていないけど、新しい未来を暗示する変化でもある。

昔の新聞の版下を作る工程、印刷工程なども見られたのが興味深い。活字鋳植やってた。初めて見た。最後の印刷された新聞が天井高くまでコンベアで運ばれていく中をケイとベンが去っていくロングショットは最高だった。「刑事訴追あるかもよ」「そこはあなたがなんとかして」というフランクな二人の会話。ちょっと際どいジョークにニヤリとする。 

この映画は、「レディ・プレイヤー1」の撮影中だったスピルバーグが脚本を見て,今撮るべき映画だと2017年6月から11月6日まで撮影。公開は18年1月。かなり突貫。
だからか,人物描写など少々甘いようにも見えた。粗削りな感じ。Twitterのような映画らしい。今出さないといけない,ということだろう。今見るべきだと思った。

スピルバーグは社会派とエンタテイメントを同時に撮影していくのか? 今回はジュラシックワールドも並行している。かつて,ジュラシックパークとシンドラーのリストを同時制作していたときと同じ手法を使ったらしい。私がかつてみたアミスタッドもロストワールド(ジュラシックパーク)と同年公開だったし。

ところで合衆国憲法修正第一条は「議会は、国教の樹立を支援する法律を立てることも、宗教の自由行使を禁じることもできない。 表現の自由、あるいは報道の自由を制限することや、人々の平和的集会の権利、政府に苦情救済のために請願する権利を制限することもできない」
Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or     prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech,
or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the government for a redress of grievances.

というやつで、いろんな自由を規定している。
このうちの言論の自由については,起草者の意図なども残っておらず,その意図するところは不明。ただ,本国イギリスでも検閲からの自由が求められてきたのだから,合衆国憲法においても検閲を排除するのが第一の目的となろう。(「アメリカ憲法入門」松井茂記、有斐閣2007)
政治的な意思を自由に表明しあえる環境にあることで、意見ももみ合って発展していくし、結果としてよりよい社会が築けるところに、言論の自由を尊重すべき理由がありそうだ。

イギリスの表現の自由はどうなってんだろう。と思うだけで調べずにいる。

15.4.18

1000年前と変わらないものだなあ

更級日記を読み始めた。まだ冒頭だけど、とにかく本を読みたい菅原孝標女にめっちゃ共感する。

十七段の「早く帰って部屋に閉じこもりたい。念願の源氏物語を、寝っ転がって(ここ大事)、一巻から順番に読むんだ…! 最高でしょ?!」とこの時代に文字で表現してるのすごい。
后の位も何にかはせむ。入内するより今こうして読みふけっている方がずっと素晴らしいんだって、とんでもない感覚だ。

さらに「昼も夜もなく読みまくってるから、自然に暗唱しちゃうのすごくない?」とか「今のアタシはお世辞にも器量良しとは言えないけど、年頃になればきっと(儚くて美しかった)夕顔や(薫が入れ込んだ)浮舟の姫君みたいになれるに違いない」とか、若い娘のふわふわした感想が続く。

このあと、大人になって筆者がやるせない日々を送ると文庫裏表紙のあらすじでネタバレされている。だからこその、こんな少女時代なのかもしれない。

13.4.18

三種の神器

アンバーエール、チップス、モルトビネガーは至高。

大人だけで夜遊びだなんて、最高だね!

ついでだから、まあ聞いてよ

最近、テレビドラマを見るようになった。というのも、ちょっとついった再開しようかなと思って、いろいろ見てくうちに割と好きな感じのツイートをしている人たちがこぞって趣味としてのドラマ実況をしていて、その影響で見た前期の法医学ドラマ「アンナチュラル」がめちゃめちゃツボにはまり、すごく面白かったのよ。

でももともと継続する力がない私、すでに大河ドラマの「西郷どん」は脱落。もちろんNHKの朝ドラは見てない。有働さんイノッチ柳澤さんが卒業となったあさイチですら、最後20分となったところで気づいて急いで録画ボタンを押す感じ。テレビをそもそも見る習慣がないよ。なのですぐ忘れる。

今、昔の朝ドラの再放送をしてる。朝は「マッサン」、夕方は「カーネーション」。後者はとくに、最後まで見ればものすごいお釣りがあると既視聴者たちがこぞって褒め称えてるから、録画はしてる。でも見れない。見てない。溜まってく。見たいんだよ! でも見る心の余裕がない。

子供のついでに見てる「仮面ライダービルド」だって、ここ二回見られてない。話が一気に動いたし、監督が私の好きな人なので見たいんだけど、なかなか手が伸びない。

今期は検察官ドラマの「正義のセ」、海堂尊の「ブラックペアン」があるので気にはなってるのだけど、原作があるとなると、本読めばいいじゃん、と思ってしまう。

映像って、まどろっこしくて見られなかったな。人が朗読するのだって聞いてられない。小学生のころ、国語の時間に他の児童が当てられて本を読んでる時、聞くのに集中できなくてページをめくって勝手に読んでた。そんなのが原初体験みたいになっちゃって、先入観から抜けられなかったんだけど、映画やドラマが前よりは見られるようになってきた。というのも最近、本を読んでて理解スピードが落ちてきたからだ。暴走列車のような脳みそがちょっと力尽きてきたんだろうな、と思ってる。つまり耳から入る情報の処理サーキットが弱かったのに加えて、他の能力も落ちてきたってこと。

物語に没入すると、目は文字を追っていながら、脳内にはその映像がぶわっと広がっていて、登場人物たちがリアルに動いているんだよね。本を読む、というより、頭の中に再構成された映像を見て理解している、という感じ。そういうのは物語とか、物語性の強いエッセイでしか起きないんだけど、とにかくそうやって私はずっと本を読んできた。それこそ物心がついたときから。
だから法学部の学生になっていわゆる基本書を読み始めてから、眼の前で文字通りスパークした感覚に何度もなって、内容が入ってこなかった。現代文の授業で読んできた論説文とも違う、完全に内容を伝えるためだけの文章を読むのはあの時が初めてだったのかもしれない。映像に置きかわり得ない、文字そのもので内容を理解するということね。論説文は現文の国語の授業で扱う題材だし、文章そのものの芸術性みたいなものも見え隠れしていたと思うんだよね。そっちのほうが、それまで読んできた一般的な「本」に近かったと思う。


ところで読解力と言えば、ミスチルの歌に「ニシエヒガシエ」ってのがあるんだけど、歌詞の冒頭で

(前略)すっぽんぽんにしちゃえばおなじもんがついてんだ
めんどくさくなって送るのもよして
一人きり情熱を振りかざすバッティングセンター

のとこは、脱がせたら同性(この場合は男性同士)だってことが分かって、部屋からおざなりに追い出して、白けたぜ、って感じで本当にバッティングセンターに行ったと思ってた。歌舞伎町の北の端にあるあのバッティングセンターね。だから舞台は新宿。
この歌が出たときからだから、大学生くらいからかな。

という話を、こないだ、同じくミスチル好きの夫にしたら
「読解力がなさすぎる」
と一刀両断されてしまった。いや、だってさ、女子大生にはその隠語はわからんよ。多分日本国内に300人位は同じ想像した人がいるよ、きっと。

さーくら、さいたら、一年生

長男が小学校に入学した。入学式の日は晴天に恵まれ、私達と同じように正門へ向かう親子連れの後ろ姿が春の白い陽光の中で眩しかった。

教室に子を送り届けてからは、親は帰る間際に教室で担任の先生の挨拶を受けるまで、完全に傍観者となった。子どもの独り立ちのはじまりだと思った。

入学式は在校生は六年生だけが参加していた。さすがに一年生の倍の年齢だけあって、体格も何もかもほぼ大人なんじゃないかと錯誤してしまいそうになる。全然そんなことないはずなんだけど。
六年生は各教室で新入生に席に案内したり、帽子などの配布をしたり、名札を胸元につけたりしてくれた。また、親に対して確認したいことがあるときに、礼儀正しく「本日はおめでとうございます。お尋ねしたいのですが……」と声をかけてくれる。あとから聞いたところによると、空いた時間では読み聞かせやクイズなどで世話をしてくれたらしい。もちろん、今日この日のために周到な準備をしてきただろうけれども、あらかじめなされた指示をきちんと守り、大人に働きかけて目的を果たせるものだと感心した。入学式の中でも、児童だけで歌と寸劇で小学校の一日を紹介する場面があったが、先生は完全にノータッチだった。ちょっと感動しちゃったなあ。

そしてPTAの選考。係をくじで引いてしまった…。非常にシステマチックに現役員さんが仕切って、あっというまに決まった。別の担当で立候補しようか迷ったんだよね。ただ今年は次男の幼稚園で役員をするので、やるのはやぶさかではないけどできれば来年でとも考えていた。ああ、こんなことなら手を挙げときゃよかった。担当内容は平たく言えばヒューマンリソース。こんなの社会人としても経験ないし、そもそも私は顔と名前を覚えるのはちょっと弱い。全然向いてない。逃げたい。

帰宅後、山程持ち帰った書類を端から記入しながら、今後の不安が頭の中を重量を持って広がっていくのがわかった。適当に見切りをつけて、這々の体で書類を片付けてから(放置しないのが偉いなあ、私。自画自賛)もうムリ、と倒れ込んだ。久しぶりに脳がはちきれそうだった。イベント後の疲れがあったからなおさらだわ。

先週の旅行のことを振り返ったり、今読んでる本をまとめたり、懸案事項をもう少し考えたりしたかったんだけど、しばらくは難しいな。次は幼稚園の新年度イベントだ。
来週後半にはちょっとは楽になるはず。がんばれ、わたし。来週末には誕生日だからそこまでは…! ってもノープランだけど。

そういえば、入学式のその寸劇の中で「ドッキドキドン一年生」を歌ってたんだけど、今でも歌ってんだなーとびっくりした。私が幼稚園児の時にテレビの「ひらけ!ポンキッキ」で流れてた。まだ歌えるぞ。今年の春で(後継の)番組はついに終わっちゃったんだよね。ガチャピンとムックもおつかれさまでした。IPとしていろんな商品にまだ出てくる気もする。


31.3.18

写真楽しい

何年かぶりに写真を撮ろうと思って撮った。今ではiPhoneできれいに写るので、手軽だしいいかと思ってた。けど、やっぱやり始めると物足りなくなる。

iPhoneのカメラにはポートレイトモードというのがある。手前に焦点を合わせ、被写界深度を浅くして、遠景をぼかすのを自動でやってくれる機能だ。しかし、発動するために焦点は2.5m程度に持ってこないといけない。したがって、手前をぼかして後ろにピントを合わせるということができない。

当然だけど、普通のカメラなら任意の場所にピントを合わせられる。
 左の写真の構図で試してみたかった。

 
 舞鶴公園内にいろいろなインスタレーションを設置した青空美術展のようなイベントが催されていた。とりわけ草間彌生の南瓜には多くの人が足を留めていた。水玉模様が目立つかなと想像していたけど、さまざまな桜の色味の中で、わりとひっそりとしていたように思う。

オオシマザクラなどの白っぽい山桜の系統に目を奪われる。若葉の緑が添えられると、背景の青空に白い花弁がいっそう映える。

ソメイヨシノも遠目には白っぽいけども。
春入桜花満山白(「芳野懐古」梁川星巌)
ってくらいだし。
でもそこは違うんだな。

 



おもちゃの廃材による作品。考えてみればこういうアイディアは見たことなかった。

29.3.18

春はスタートダッシュ

子どもたちのお勉強界隈はもう新年度に入っているようで、今週から急に回される答案の量が増えた。しかも、締切に間に合っている物が大半だ。これまでは白紙の多かった感想欄もきちんと埋められている。すばらしい。なので、そのお返事もいろいろ書きたくなってしまう。うぜえな、とか思われてるかもしれないけど、フィードバックはないので書き逃げである。

浪人していた時4月の最初の授業で英語の講師が「春はスタートダッシュしてすぐ失速するよね」という話をしながら黒板にグラフを書いた。最速降下曲線の図だ。仮面ライダービルドで第一話でだけ出てきた、必殺技の滑り台キックに使われた数式である。y軸の途中から始まって、ちょっとだけ山を描いたらすぐに下降する。類似品はいろいろあるだろう。広島カープの4月とか(近年はそうでもないだろうけど)。

暖かくなれば体温も上がり、鬱屈していた冬から抜け出した喜びを全身で感じたいもの。いいじゃないの、スタートダッシュ。最初の踏み切りが大事。その後は沈んでもまた浮上すればいい。

さあて、図書館行ってくるかね。延滞本を返しに。仕事が完了すれば足も軽いってなもんよ。窓の向こうの微粒子(花粉、PM2.5でやばい!)が溶け込んだ薄水色の空が眩しいぜ。

23.3.18

弁当ウイークの終わり

春休みに入って、子供らを園の預かりに送り出すために久々の毎日弁当(作成)週間を送っていた。去年までは毎日お弁当を作ってたけど、今では週二回だから、毎日用意する楽な方法をすっかり忘れてしまった。大変だったー。しかもちょこちょこ夫の分も加わったので、考えることが増えた。

夫は気を遣ってくれて、子供の弁当日にだけ頼んでくる。なので、できるだけ彼の好みを取り入れようと思うのだけど、尋ねても尋ねても鶏の照り焼きしか出てこない。簡単だからいいんだけどさ。でも紅生姜は外せないんだって。よくわからん。

なお、子供だけのときは私の独断で決める。あの子ら食べ過ぎだから、こっち主導でやってかないとキリがない。

わっぱの弁当箱を導入したので、ついでに自分の分も詰めた。いやーインスタ蝿になれるね! それに、吸湿・放散がいいわ。プラ弁当箱ではどうしても水分と油分が海を作るからなー。やはり時代はプラスティックフリーであるよ。

大館のふるさと納税でもらったので、もう東北に足を向けて寝られない。ふるさと納税バンザイ! でも4月に引っ越した場合はワンストップ特例できないから注意。確定申告へ行かねばならぬ。ああ、2年後、また同じ過ちを犯しそう。

10.3.18

卒園おめでとう

ついに長男が幼稚園を卒園した。ずっと夢見ていた、幼児からの卒業だ。

幼稚園時代の三年間の成長には、正直、ここまでの六年間で最も驚きが満ちていた。大人から見てわかりやすい、ということにはなるが、例えば年長のたった一年間だけでも、背が伸びてぐっと頭身が上がった。友達同士でルールに則って遊ぶことができるようになった。決まりを友達同士教え合ったり、困っている子に声をかけることもできるようになった。私の叱り方に矛盾があれば、指摘して反抗するようになった。自分の怒りが不快なときに生じるものだと客観的に捉えるときもあるようだ。

あと一年すれば、もっと話が通じるようになる、このきかん坊と意思疎通できるようになる。そう期待して早六年。確かにちょっとは通じるようになったが、代わりにお釣りが返ってくるようになった。与えた熱量だけ、正にも負にも。そのうち、本格的に反抗期が来て戻り値はランダムになるのだろう。

三人乗り電動自転車の前の座席をカゴに替えようかと考えている。後部座席は6歳まで。もう長男は卒業なのだ。今後は次男がその場所を引き継ぐ。けれども、今はまだ自力でボルトを緩められる気がしない。

自転車から子供用の座席を完全に取り外すことになるのは二年後だ。その日を私は心穏やかに迎えられない気がする。早くここから降りてとずっと願ってきたのに、いざその時がくると、寂しくて仕方ないんだろうと思う。
本当に、ずっと願ってきたのにな。

25.1.18

これもみんな寒さのせい

数年前から使っているワイヤレスイヤホンの電池の持ちが急に悪くなった。ここのところ毎朝、子どもたちを徒歩で送り届けた帰宅中に使っている。

耳に装着して、イヤホンの電源を入れる。それからスマホを鞄から取り出し、手袋を外して、音楽アプリを起動してようやく再生までこぎつける。素手を外気に曝すこの僅かな時間で手がかじかんでしまう。たった1,2分が惜しいほど、この二週間は寒い。

そんな少々の苦労の末、いざ曲が流れて、Aメロ、Bメロ、ああ盛り上がってきたぞというところで無情にも "Battery low" の宣告だ。そのまま沈黙。再起動のために、右耳部分のケーブルにつけられた小さなコントロールボタンを、分厚い手袋で覆われた太い親指と 人差し指で探りながらぎゅっと押す。点いた。間を置かずにふたたび死刑宣告。携帯の画面には、接続状態であれば表示されるイヤホンの電池残量がたいてい8割を示している。そりゃそうだ、毎日充電しているのだから。

ちょっと調べたら、これって寒いからみたいなんだよね。電池は暑さにも寒さにも弱い。

なんだかうちの子供みたいだと思った。
昨日の夜、子供たちの習い事の後にめっちゃ寒かったのでうどん屋に入った。店内はうどんを茹でる大きな釜とセルフサービスのおでんの什器から大量の湯気が上がっていて、一歩踏み込んだ瞬間に私の眼鏡が曇った。空調もがんがんにきいていて、通された席はちょうど吹き出し口から春もかくやのそよ風が直撃した。そして注文するのは丼に波々と注がれたつゆに浮かぶやわやわ福岡うどん。なにも考えずにつるつるっと飲み込むと、喉からみぞおちにかけて熱の通り道ができ、それが胃の中で滞留するのに悶絶して、慌てて冷水を飲み干すハメになる。
そうして、外で木枯らしに身を竦めているときには「寒いからうどんであったまりた~い」なんていっちょ前なことを言っていた次男(4歳)は、暑さと熱さに負けて、途中で体調を悪くしてしまっていた。ひ弱なことよ! ただこれって単純に暑いせいだけでなくて、その前の寒さに身体がある程度順応していたからだと思うんだよね。急激な温度変化は人間の恒常性にそれなりのインパクトを与えるような気がする。

まあ、寒いうちは家の中で過ごすのがいいのかなという結論です。
イヤホンも室内で使おう。