10.5.18

映画見に行った「君の名前で僕を呼んで」

昨日、立てたフラグはへし折られることなく、無事に「君の名前で僕を呼んで(Call me by your name)」を見てこられた。映像が美しすぎてちょっと現実に帰ってこられない。以下、ネタバレ配慮なくまとめる。長い。

北イタリアの別荘で夏の休暇を過ごす主人公一家。1983年、考古学者の父のもとに、その年も若手研究員がやってきた。6週間の滞在中、父親について研究をするらしい。24歳のアメリカ人と主人公のひと夏の逢瀬を描いた作品。原作の小説あり。

別荘は古いが大きな邸宅で、母親が手をいれる果樹園があるほど広い庭園もある。石造りのプール付き。何かと木漏れ日の下にテーブルをセットし、昼から正餐をしていた。もちろんお手伝いの人もいる。街並みも石畳が町の広場まで続くようなところで、ヨーロッパ外の人が憧れる「ザ・ヨーロッパ」って感じ。映像が美しすぎてワンショットワンショットが絵画のよう。

主人公は17歳、同年代の友人たちも同じようにここへ夏の間だけ来ている様子。主人公はフランス人、家で雇われているのはイタリア人、そして今回やってきたアメリカ人、彼らに対し三種の言語を流暢に使い分ける。また、楽器の演奏も得意で、趣味は読書と編曲。ちょっと内気でインドアな内面を裏切らない外見は、まだ体格が出来上がっていないと思わせる筋肉の薄い細身の身体、栗色の巻き毛になんならそばかすもありそう。白磁のような肌に主張する眉と大きな瞳。
なんだこれ、マッチョ文化における理想の「はかなげでいて強さを秘めたヨーロッパ美少年」だろ。と言いたくなっちゃう。

そう、主人公もアメリカ人も男。主人公エリオはそんなわけで、オリバーのいかにもアメリカ人な無神経で勝手で、いつのまにか町の飲み屋で顔なじみを作っていたり、自分の友達にも気に入られちゃっているような、アウトゴーイングなところがちょっと気に食わない。食わなかったんだけど、あれこれあって近づいていく、という流れ。

17歳と24歳という設定が絶妙、というのが一番の感想だった。
17歳といえば身体機能は大人にかなり近づいているけれど、完成してはいない。性的衝動は進展していても、理性的に説明するすべがまだない。精神的な経験不足もある。心も身体もまだ成長の余地がある状態だ。劇中で何度か登場する、庭のアプリコットの甘酸っぱく、少しかたい果肉のイメージと重なる。
一方で、1983年の24歳はかなり成熟している。ただこの映画はほぼエリオの視点から描かれているものだと終劇後に思ったので、その分、実際のオリバーよりも大人びて描かれているのかもしれない。後半に出てくる桃(おそらくネクタリン)はアプリコットよりも酸味は控えめで果肉は柔らかく、果汁も多い。オリバーになぞらえているような場面で登場する。
エリオはアプリコットから桃への変化の入り口に立っているのかもしれない。

ストーリーに沿って思い出すと、エリオにはオリバーがいつの間にか気になってしまっている。ここの転機ははっきりとは描かれていないけれど、エリオとオリバーは同じくユダヤに繋がる血筋だぞ、とか、オリバーが思ったよりちゃんと研究者しているぞ、とか、エリオの女友達の一人の腰に手を回してキスするのを見たりしているうちに、 
I want you to know me.  あなたに僕を知ってほしい
と伝えてしまう。エリオが自覚した感情は「好き」という言葉で表されるものではなかった。けれど、オリバーに気持ちが向いていて、近づきたいという欲求という点では根本では同じ性質のものだろう。何度も繰り返す。自分に言い聞かせるように、自分の説明しようのない感情に輪郭を与えるように。そしてダメ押しの 
Because there is no one else I can say this to but you(この台詞はスクリプトを探して確認した)
唱えている内に感情が高まってきちゃったんだろうな。衝動的に口をついたという印象に17歳らしさ、未成熟さが見える気がする。
そうか、感情というより衝動といった方が近いのかも知れない。全身から出てくる性急な何か。気持ちなどと言葉で説明できるようなものではなく、もっと本能的なもの。
それに対してオリバーは「自分の言ってることわかってんのか? 買い物へ行く」と逃げる。ここがエリオとの対比になっていて、大人のずるさを感じる。オリバーへのもやもや感がここからだんだん増えていったな。

エリオは自分だけのお気に入りの川べりにオリバーを連れ出す。そこで二人は雰囲気にのまれて口づけを交わす。
つまるところオリバーが止めていたのは自分自身であり、初めからオリバーはエリオが気になっていたわけだ。ここのキスを仕掛けたのはオリバーなのがまた……もやもやする。
ただ、二人の性指向については触れられない。

エリオにはおそらく数年来の仲の良いガールフレンドがいて、この夏に友達以上の関係になるかもしれないという雰囲気の中にいる。帰宅以来、オリバーはエリオから距離を置こうとしていて、二人の仲がぎくしゃくしている。そんな中で先日のキスから性的な興味が強く生じている様子のエリオは、ガールフレンドと彼にとっても初めての性行為を果たす。
エリオにとって彼女は気心知れた友人で仲もいいんだけど、ここでの行為は興味本位というか、年齢相応の生理的衝動の強さを感じたなあ。そもそもエリオから彼女へのときめき的な描写はほとんどない。二度のセックスシーンも全然色気がなかった。 

で、不穏な空気のオリバーに、エリオから勇気を出して「仲直りしたい、沈黙は嫌だ」とのメモを渡すと、返答は「真夜中に会おう」だった。確信を得てからアプローチをしてくるオリバー、ひどいやつ! 
 それから、エリオは時計を見まくったり、カウチに昼寝しようと横になっても何度も寝返りを打って寝られなかったり、オリバーがエリオの父親と共にギリシア彫刻のスライドを確認しながら、男性像の上半身のしなやかさをうっとりと眺めていたりする。
見てるこっちにも彼らの緊張や昂りが伝わってくるわけですよ。
その後、夜中にバルコニーで会ってようやく言葉を交わせた二人は、どどどっと深い関係へとなだれ込んでいく。のだけど、こっちは彼女との関係に比較して、直接的なところはまったく映していないのにエロティックな映像になってた。

タイトルの回収はここ。後朝の歌ではないけど、翌朝目が覚めた二人が顔を寄せたところにオリバーがささやく。 
Call me by your name 
エリオに自分に向かって「エリオ」と呼びかけさせ、「オリバー」とエリオへ告げる。
エリオが「自分を知ってほしい」と言ったことの延長線上にこの行為があるんだろうなと思った。知ってほしいし、もちろん言うまでもないがあなたのことも知りたい。知ることは近寄ること。目いっぱい近寄って、相手との境界もなくしたい。あなたと自分を同一視してしまうくらいに。
となれば、肉体的にも繋がりたいとなって、きっちりやっちゃったのね。オリバー、鬼の所業だね。罪深い。

エリオにとって、生物として成長していくときにパートナーとなりえるのは女の子のガールフレンドだったけど、精神的にぐっと近寄れるような相手はオリバーだったということかな。この後、ダメ押しのようにエリオの自慰シーンがあるんだけど、普通に男の子だった。まあちょっと普通じゃないけど。桃つかってた。
余談で、エリオの役者のインスタグラムに梨の画像が掲載されて、そこにオリバーの役者が「桃から梨に浮気したの?」ってコメントしてるの。すごいよねえ。爆笑ですよ。

ちなみに字幕版で、「好き」だと言っているところはオリバーからの一言だけだったし、劇の終盤で彼女がエリオを訪ねてきて「私ってあなたの彼女?」と問う場面があるのだけど、周りの人達は恋愛の定番を理解していて言語化している。だけど、エリオとオリバーの関係、オリバーへに向けた感情についてはエリオの口からは言葉による説明はない。ここの対比もすごいと思うんだよね。
エリオは彼自身にとって消化しきれない、けれども深い関係を誰かと結ぶという稀有な体験の真っ只中にいて、当然のことながら初めての経験(出会い)でもあったってこと。エリオの知っていた恋愛とは違っていた、とはいいすぎかもしれないけど。
あとから振り返れば、あれは恋だったのかもなとぼんやり思い当たるという感じかな。やってることはやってるんだけど。その頃って心と身体が一体化しきれてないし、そのことに無自覚なように思うので。成熟してくると、自分の意志で分離しようと思えば可能なようになっていくと思うけども。

そうして気がつけばオリバーはそろそろ帰国する時期。両親は二人の仲を勘づいているけど、エリオに干渉することはなく、それどころかオリバーの大学見学旅行についていけと勧めてくれる。最後の数日、げらげら笑って過ごして、ミラノの空港行き電車に乗るオリバーと、エリオはほとんど言葉もなく抱擁しあってから見送り、二人は別れる。
このときのオリバーが車窓に肘をついて切なそうな横顔を見せるのに、くそアメリカ人め! とちょっと怒りにも似たものが湧いてきた。真夜中に会ってからのオリバーは率直にエリオを愛しがる。見返りを確保してから自分を見せるというやり方にちょっとした憤りを覚えるね。だからここで悲しい顔を見せるのに対して、見ているこっちは素直に残念だねと思えない。
それに17歳エリオはどうしたらいいかわからなくて呆然としてるのに。ずっと駅のホームのベンチから立ち上がれず、家に電話して母親に車で迎えに来てもらうんだけど、その車の中で子供みたいにひくひく泣くのよ。ちょっと収まってもまた泣けてきちゃってさ。お母さんは運転しながら、片手でひたすら頭をなでるんだけど、ここからもう親目線でしか見えなくなった。親に何もできることないよなあ。

そして帰宅後、父親がエリオを慰め、諭す。このシーンはちょっと説教臭いかなと思ったけど、でもこういう親になれたらなと思う場面だった。両親は、エリオとオリバーのことはわかっていて、例えば同性愛的なことは全然言及しない。それどころか、こんな密な関係性を築けることは幸運だという趣旨のことを言う。Parce-que cetait  lui ; parce-que cetait moi. (直訳すれば「それは君だったから、それは僕だったから」)とモンテーニュを引用して、エリオとオリバーはかつてモンテーニュがラ・ボエシと結んだ深い友情にも匹敵したのだと伝える。学者の父親からこういう言葉が出てくるということは、息子の行動への賛辞にほかならないだろうな。
加えて、親としては子供が傷つくのを避けたいと思うけど、逃げてばかりでは先に心が死ぬ。そうでなくても、年をとれば心はいつかすり減っていく。容姿も衰え、誰も見向きもしなくなる。心と体が同時に満ちたりて、その状態で向き合える人と関係性が持てたのはすばらしいことだとエリオの経験を全肯定する。
この場面では、父親がメガネを初めて外す。すべての演出が父親としての威厳や確かさ、そして頼りがいのようなものを補強していると思う。その中で、自分はもう心がすり減ってきたと告白する誠実さ。対して、17歳エリオの命の輝きが増して感じられたなあ。

オリバーは結局、エリオの眩しさに目がくらみ、若い肢体に溺れただけだろうとあてこすりたくなる。エリオを傷つけてくれちゃって! でもエリオはそれでもオリバーと近づきたかったんだよね。しかたないか。

半年後、雪のクリスマスもこの別荘で過ごす。ユダヤ系なのでハヌカだけど。
そこに鳴る一本の電話はオリバーから。結婚するという。しかも、彼女とはもう二年のつきあいだったらしい。オリバーはエリオの両親から夏の間に温かくもてなしてもらったことに改めて礼を述べ、自分の父親とは同性に好意があるなんてことを言える関係性はないと説明した。
エリオはいとおしそうに「エリオ」と呼びかけ、オリバーも「オリバー」と返す。そして加えて、I remember everything...ここの字幕が「僕は決して忘れない」
オリバー、お前、そこでそれを言うのか! ばか! と怒りに震えたのは私だけではあるまい。

エリオがリビングの暖炉の前を陣取って、焦点を合わせることなく揺れる炎を見つめる。その顔の横に映し出されるクレジット。後ろでは母親と手伝いの人がハヌカのディナーの用意をしている。エリオが目をゆがめたり、眉間をおしたり、あれこれ手を尽くすけど、一筋の涙がこぼれると、声も出さずにさめざめと泣く。
この泣き方が、夏の日の大泣きとは全然違っててね。17-18歳の成長は目を見張るね。そしてエリオに気付いた母親が優しく声をかけるところで暗転。終劇。

ほらアメリカ人への煮え切らない気持ちが湧いてくる。原作ではオリバーの心情が説明されていて、このもやもや感が払拭されるようだけど、流石にそこまで手を伸ばすエネルギーは今はないなあ。

立ち返って、この映画のOPでは、古い写真がテーブルの上にいくつも積み重ねられていくのだけど、その殆どはローマ・ギリシア時代の彫刻で、父親の研究対象かなと思わせるもの。けど合間に、煙草とか時計とか、ちょっと違ったものが混ざってくる。
ひょっとしたら、後年、エリオがこの別荘にやってきて荷物の整理でもしていたかもしれない。そして当時の物がいろいろ出てきて、思い出を振り返った本編だったのかもしれない。 
OP後、本編冒頭で、タイトルカットと同じくハンドライティングで「1983年、北イタリアのどこか」 と表示される。本編を思い返せば、別に「どこか」と曖昧にする必要はなかったと思う。オリバーが帰国する直前の二人の旅行でははっきりと地名の説明がなされるし、見送った後に母親に電話するときにも駅名を述べている。ましてや物語の舞台となった別荘のある町の名だってもう少し細かく説明してもいいのに、してない。もう忘れてしまったのか、それとも思い出したくないのか、あるいは大事な思い出としてそっとしておきたいのか。そんな記憶をエリオが辿り直している、というイメージが浮かんだ。

以上です。

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