11.5.18

創作物を楽しむために必要なこと

本でも映画でも絵画でも、作品それだけの範囲で理解して楽しめれば十分なのはわかっているけど、その作品や創作者の属する流れ(時代とか社会状況とか作者の個人的な事情とか)、言い換えればその作品を取り巻く文脈を知っていれば、もっと楽しいだろうし、そういうのまで理解したいものだなあと思った。
ありきたりなことだけど。

そういう姿勢を突き詰めていくと、例えば読書だとすると、文字そのものの意味ではなく、行間や背景の感情ばかりを探ってしまうし、その結果、書かれた内容からは的はずれな考えに陥ってしまう恐れも出てくる。私自身は。なので、きちんと踏みとどまらなければいけない一線はある。

ともあれ、昨日の投稿をごちゃごちゃ書いてる時に、父親がモンテーニュを引用する下りで強く思ったんだよね。
父子の会話の中でフランス語のフレーズが突然混在してきて、見ている立場では引っかかるんだけど、登場人物は当然の顔をして流している。彼らはフランス語も話すので混ざったのかもくらいの気持ちでいた。字幕版だったから、その部分の違いもせいぜいフォントがイタリックになっているくらいしかなかったし。
そしてあとから、あああれは何か名言を引いてるのかと思い至ったときに、調べるすべがない。いやま、今回はたまたま私が聞き取れるくらい超絶簡単なフランス語のフレーズだったからちょっとググればすぐ出てくるんだけど(それに幸い今回は、多分シェイクスピアくらいの名言だったから)、これがギリシア語だったら完全にスルーしてた。
劇の前半で主人公は読書が趣味だと見せて、中盤でガールフレンドが読書が趣味なんて暗そうで公表できないよ、と言っているし、母親が民俗話を読み聞かせる場面もあるので、古典からの引用が出てくる伏線はあるのだけど。伏線というほどでもないな。そういう設定がきちんと描かれていたってこと。
で、その引用の重力というか、当該エピソードにおける重さが全然わからなくて残念だなと思った。


 先日、更級日記を読み終えたんだけど、あれも様々なところから引用や仄めかし、借用があって、注釈を見れば理解はできるけど、その味わいまでには至らない。
更級日記の作者は物語に夢を見ているから、当然源氏物語や紫式部日記からの引用は多くあるし、他にも俊成とかからもなぞらえた表現がガンガン出てくる。
それに作者の菅原孝標女は父方を辿れば菅原道真に行きつくし、母方には蜻蛉日記の藤原道綱母が中の良い叔母として存在する。
だからこその表現になってくるのだけど、作者の家族構成なんて読書においては本当は知らなくてもいいことなんだよね。まあ更級日記はエッセイだから普通の小説とはジャンルが違うので、知っていてもいいけど。

そういう「創作者が受け手に期待する前提知識」は悉く持ってないな、と自分にがっかりしたということを記録しておこうと思ってこの日記を書いた。
こういうのが積み重なって教養になるんだろうな、と思った。

実に自分には教養がない。けど、そんな教養を問われるような作品こそ次も見たいとも思った。



「君の名前で僕を呼んで」にはヨーロッパ映画を下敷きにした表現なんかも多く散りばめられているらしい。全然わからん。しかも監督は美しい映像で有名な人だったんだって。過去作も見てみたい。若かりし頃のヒュー・グラント主演の「モーリス」は画像検索したらめちゃめちゃキレイでびっくりした。あとは「日の名残り」。これは原作も読みたいと思ってるんだけど、映画が先か、本が先か。
この監督、自宅のインテリアもとても素敵で、美への感覚がかなり鋭いのかなって感じ。


更級日記はおもしろかった。
中盤以降は、親に言われるままに出仕して、年頃になってまた親に引っ張られて結婚する。憧れた「浮舟の君」にはなれず、されど受領の娘にふさわしい受領の夫を得て、子供時代と変わらずそれほど苦しくもない生活をおくる中で、物語からも離れ、どうももだもだしている作者の心情がありありと浮かんでくる。この辺は「報われない」気持ちを「芹をつむ」という語を交えた歌で表現してる。
それから子供もできて、また再雇用されて現場復帰するんだけど、職場から離れていたからさほど経験があるとも言えず、かと言って年的にもう若手には混ざれないし、パートタイムだしと言い訳できるほどに本人もその仕事(出仕のことね)に生きがいを見いだせないでいる。現代と変わらないよね。
楽しみといえば、同僚のうち数人は話が合って文を交わせるような仲になれたこと、たった一度だけ(しか書かれないけど)、出仕先で同僚と歌比べをしたのをうまく両者引き分けにしてくれた源資通にちょっと心が動いたこと。このとき夫は単身赴任でいなかったんだよね。
そして夫は先に亡くなり、物語に没頭している時間にもっとお経を唱えておけばよかった(経文が当時の日々なすべき努めであり、学ぶべきことだったんだよね。子供の頃から物語ばっかり読んでないでおべんきょしなきゃ、と書いている)と何度も後悔している。子も甥姪もときどき訪ねてくれるけど、退職して同僚とも離れてしまった孤独感はどうにもできないよう。かつての友が筑前に下り、まるで恋文かというくらい千千に乱れた心境も残している。

途中から、古文を読んでるという意識は全くなくなった。作者の言いたいことが現代とそれほど変わらないんだもの。普通にエッセイを読んでる気分になって、気がついたら終わってた。まあそもそも、全体的に薄い本ではあるけれども。

以上のことは次の段に書いてある。
17(前に書いた「后の位も何にかはせむ」)
56(物語のようにはいかないなという諦観)
57(宮家に出仕するも居場所がない)
62(資通すごい)
72(友よ、その1)
73(友よその2、恋と読み取れるが友情だろうとの注がわざわざ書いてあった)

角川ソフィア文庫の原田文子編集のがすごいよかった。

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