10.12.20

秋の色

 関東も紅葉が見頃になってきた。


これは近所の公園。お屋敷跡の庭園はいまも手入れされているようだ。


これは代官山の旧朝倉家住宅。重要文化財。渋谷の崖稜に沿って庭園が築かれ、かつては目下の目黒川、その向こうに続く田園を借景にしていたという。今はこの木々の外側には高層住宅が迫っているわけだが。


これはうちの敷地の。ちょうど真っ赤だった。

9.12.20

たまにはあるく

鬼滅の刃問題は和解して、全巻揃いました。よかったよかった。

物語の結末部分でキャラクターを全部くっつけたり、子孫や転生させた未来でも番いにすることでハッピーエンドを演出する作劇はあまり好きではない。問題解決後はキャラクターがその問題によって科せられたくびきから解き放たれてほしいと願う。戦いの仲で培った絆が残ることはあるだろうが、共通の目的がなくなったのだからフェードアウトしたっておかしくないと思っている。転生なんて現実にはあり得ない。それをあえて認めるとして、次の生でまで前世の自分に支配されるのはどうなのかと思ってしまう。

鬼滅の刃はもろにそのタイプだった。ご丁寧に四代ほどくだったキャラクターたちが、先祖と同じようにどこかで出会い、先祖が果たせなかった日常を代わりに送っている。物語が、先の人の思いを繋ぐことをテーマにしていたから、あるべくしてある結末で、作品全体では整合性がとれている。美しい終わり方だとは思う。作品の隙間も全部埋めてくるなあと思った。そういや作者はコミックスの欄外でパロディを披露したり、漫画の中で描いたらいいのに省いたところを欄外に書いたりしていた。 


久しぶりに隣町まで歩いた。


車止めの上に鳥がとまっている。初めて見た。

数年ぶりにとあるカレーチェーンに行った。カレーソースを客の注文ごとに調整する店だ。あのオペレーションをランチタイムに二人だけで行うのは大変そうだった。福岡のファミレスでも同じことを思ったな。この少ないフロアの人数で席数の客と期待されるサービスを捌けるのかと。その頃は働き手を探すのが大変だったとよく聞いたが、コロナを経た今は働き手を雇い続けるのが困難な方へとシフトしてきたのかもしれない。未来が暗い。

1.12.20

鬼滅の刃にはまりました

 子どもともども楽しんでおる。アニメを見て映画に行って,コミックスも買いそろえた。

最終巻が12月4日に発売されるとあって,ここ数日わくわくして過ごしていた。のに,予約をしていなかったことが判明した。大変ショックを受けている。今日はおしごとの日だけど,やりかけのままふてくされて寝てしまいたい。

発売日に一刻も早く読みたかったとか,これ増刷いつになるのかなとか,そういうがっかり感はある。んだけれど,この気持ちの落ち込みようはそれにとどまらず,おかしいなと思ったんだよね。

たぶん,私の楽しみにしている気持ちを,私の期待ほど大切にはされていなかったのを悲しいと感じている。予約を任せてほしいと夫に言われたから,尊重してお願いしたのに。普段はこういう駆け引きめいたことは思い当たらないのに,とたんに出るわ出るわの恨み節。そんな自分を省みて,また落ち込むのであった。

まあ一時的に忘れて仕事に集中するわ。本を買うこと自体はたぶんできる。発売日に大きな書店に行けばよい。目星はいちおうついている。ないなら増刷を待つよ。

10.11.20

だるい

体調不良の時にしか日記を書いていないな…と思わなくもないが、少し楽になると吐き出したくなるのよ。

ここ二日ほど体が重怠くて寝込んでいた。首から肩、太ももから膝がずっしり重い。過去にも何度か経験があるので、発熱の前触れか、胃腸炎か、と思っていたのだけど、多少の吐き気だけだった。最近流行りの上気道・呼吸器にもとくに変わりはない。
約20時間寝続けたら多少楽になり、また昨夜に怪我をした子を医者に連れて行くために、子の帰宅後にやっとこさ起き上がった。子は大したことがなかったので先に帰らせ、私は私の通院をした。いろいろ問題点はあるものの、血液検査の夥しい白血球数からは感染症でしょうとの診断。抗菌剤をもらって帰宅後すぐに飲んだ。
私は薬が効きやすい方だと思う。プラシーボという意味で。薬の開発の歴史は暗示と切っても切り離せないそうだ。暗示にかかりやすい人間には薬も効く。
元気が徐々に戻ってくるのを感じながら、夕飯にいくつか常備菜的なものをつくったし、食後にはコーヒーを飲みながら仕事もした。カフェインの力もあっただろう、めっちゃ効率良く終えた。

元気になったよ。でもまた肩が重くなってきたのでフェイク健康。

体がだるくてたまらないことは年に2.3度はある。年々感じられるようになってきた。免疫機構が働いているゆえの反応であって、しかもそれを感じ取るようになってきたのは、衰えではないか。だるさに負ける時は、それすなわち命尽きるときではないか。
自分の認識レベル以下のところで、たぶん、炎症は繰り返し起こっているんだろうなと思った。生き物はよくできてるね。

13.10.20

そうは言いつつも見続ける気がする。

 今期は「マリーミー!」というドラマを見始めた。主演俳優が以前子どもと見ていたニチアサ出演者というのが一番の理由だ。そんな弱い動機なので、二話放映の現在、すでに見続ける元気がない。

 少女漫画が原作の恋愛ものである。あらすじは次の通り。
 ニート保護法と揶揄されるおかしな法案のテストケースとして、主人公であるキャリア公務員の秋安が抜擢される。結婚によってニートに身分を与えようという目的で行われる、国家規模のお見合い政策だ。秋安の上司さえも法案そのものには否定的だが、成果を出すために受けるように迫る。出世欲の強い秋安は候補者として決められていたヒロインと婚姻届を提出し、ヒロインの家で同居を始める。知らないもの同士が結婚し、その後に恋愛感情を育むマリッジロマンスだ。
 脇のレギュラー登場人物に秋安の同僚がおり、一人は同期の出世頭で係長相当職に就いた元カノ、一人は隣の席の男である。隣の男は秋安の動向をスキャンダル記事でも眺めているような好奇心でのみ受け止めており、酔って秋安とヒロインの家に突撃してくる。そこについてきた元カノは、秋安に未練たらたらなので、ヒロインに離婚しろと迫る…のが次回以降の流れとなる。

「自己効力感の低いわたし」と「なんでももってる優秀な王子様」のパターンで恋愛物語を成立させるために、このトンチキとしかいいようのない設定がなされている。

 そもそも、この法案があまりにあまりの人権無視でおかしい。が、これは秋吉の上司が「わかってないやつらが言い出したこと」「失敗させて撤回させたい」という評価をしており、作中で否定しているのでまだいい。
 しかし、この上司は、秋安に飲ませるために「断ったら出世は見込めない」とパワハラで迫る。よくない。

 それより問題なのは、このヒロインがニートになった理由だ。彼女は祖父母と三人暮らしを長く続けてきた。具体的な年数は不明だが、あまりの外の世界のしらなさ、家族以外との交流のなさ(を一話二話で近所とのトラブルや、婚姻届を提出するのに寝間着にしているルームウェアのまま出かける場面、ホームセンターは行ったことがないなどエピソードで描いている)を考慮すると、相当の期間があったのではないかと思われる。昨今のヤングケアラー問題が頭をよぎる。彼女が相応の年齢で経験するべきことを取り上げられてきたのではないか、ひょっとしたら中卒ではないか、などの疑念が生まれる。
 祖父が先立ち、病床の祖母が孫のヒロインの将来を心配して、ニート保護法のモニターに応募したのだった。これが女孫ではなかったら同じ展開になったのか? というifも考えてしまう。
 ヒロインは祖父母のことを案じ、祖父母のためにだけ暮らしてきたため、最低限の生活能力はあるものの自分を押し殺して生きている。それを目の当たりにして、秋安はヒロインに対して「何かしてあげたい」と思い始める。曲がりなりにも結婚したのだから。
 という福祉のゆがみから生じた事態であるのに、二人の間のことだけに着目して問題解決を図ろうとする作劇の態度が気に食わない。

 だいたい、ここに出てくる登場人物の半分は官僚、しかもキャリア、元カノの職位からして30才前後だ。もっと広い視点を持ってしかるべき。百歩譲って、官僚機構のセクショナリズムから、秋安個人がヒロインのための真の支援を考えるのは難しいかもしれない(個人的には戦ってほしい)。

だから思うのは、どうして「キャリア官僚にした!?」 ちょっと生活に余裕がある一般人でよかったじゃん。モニターには友達との飲みの席での罰ゲームで応募したとか。

この先、

ニート保護法はやっぱりだめ
 →(問題なく婚姻届は提出しているので婚姻無効にはならないはずだが)結婚生活はとりやめを上司から言い渡される
 →仲が深まっていた二人は戸惑い、反発し、本当の夫婦になる

 という陳腐な流れが来ると思われる。それならきっかけが後ろめたいほど反動が大きくなり、恋愛は盛り上がるんだけど。
 そこはやっぱり「王子様」を配置したかったから、という理由が大きいのだと思う。 
 三話の予告を見る限り、少なくとも来週まではつまらない(あっ言っちゃった)人間模様でごちゃごちゃするんだろう(だって元カノ曰く秋安とつきあってたの二年前だよ?!)。

 とはいえ、全10話となるドラマシリーズだ。このあとの話数で社会問題にまで視野を広げていけたらこのドラマは化けると思う。
 物語が語ることは究極的には人間の生き方であり、そのシークエンスの中に葛藤があるからカタルシスも生まれる。
 その葛藤は本当に個人的なものだけ由来するのか。人間はさまざまな環境の中で形作られる。逃れられない社会の構造の中で自覚のないゆがみが生じているかもしれない。登場人物の掘り下げは価値観の解体ショーにほかならず、現代劇であれば同時代を生きる視聴者は価値判断を迫られる。画面の向こうで行われる解体を目の前にして、自分には絶対降りかからない火の粉を気楽に眺めるだけではいられないかもしれない。ただのテレビドラマなのに、痛みを感じてしまうかもしれない。だけど私はそこまで踏み込んだ物語を見たいのだ。


 なお秋安役の瀬戸利樹さんは、表す感情の解像度が高まっていてよい。前のヒモ役のときは笑顔に無理を感じたので、うまくなっている……と思った。本人の整った容姿からも正統派の王子様役が似合うので、配役としては合っているのではないか。パーソナリティとは異なっていたとしても、そこは役者さんだから。さすがだ。

 ただし、一話で出世のために結婚してしまうような野心あふれる言動をさせておきながら、ドライな人間像はそのあと出てこない。むしろヒロインのけなげさに心を寄せていく情の深い人物で、その結果ヒロインの心も解けている。よって人物像としてはちぐはぐになっている。作劇が悪い。

5.9.20

ほんとうに困難な境遇にいる人のことは見えない

 「UNHCR難民映画祭」を見た。

全六編。いずれも祖国で安全に暮らせない人々を撮影したもので,難民キャンプに暮らしていたり,すでに他国に逃れたもののその地での身分が安定しなかったり,援助を求めて自らの苛烈な過去を語り訴えたり,様々だ。

映画作品として成立しているので,撮影者の安全やそれを作品として全世界に公開するルートがすでにある。彼らは困難な環境にいるとはいえ,まだ”いい方”だろう。

難民や移民といえば,大学院の時に秋学期の最初のコースで少し触れた程度だった。アメリカに暮らしたときに初めて難民として移民してきた人たちと知り合った。私は何も知らなかった。

ヴィエト・タン・ウェン編「ザ・ディスプレイスト」を読んでいる。編者による前書きに,この本は移民の作家による記憶の記録だが,物語の力に読者が感心しているだけではだめだとある。

読者も作家も,文学が世界を変えると自らを欺いてはいけない。文学が変えるのは読者と作家の世界だ。人々が腰を上げて世界を出て,文学が語る世界のあり方を変えようとなにかをすることで,ようやく文学は世界を変えることができる。

作家や代弁者に頼ることなくすべての声なき者が自分の物語を語ることができ,それに耳が傾けられるチャンスが社会的,経済的,文化的,政治的に確保されている,そんな世界をつくることにこそ,ほんとうの正しさがある。

角度はやや違うが,私の理想のひとつは,誰もが声をあげられる環境が整うことだと思っている。でもそれだけではだめで,受け手がいなければいけないのだな。

初めて読んだ移民の話は Khaled Hosseiniによる"The Kite Runner"だった。夫の留学についていったアメリカ滞在時のことだ。経済的にも社会的にもなんの不安もない状態であったにもかかわらず,私は自分自身に在米する理由が見つけられずとても心もとない気持ちでいた。そんなとき,ディスプレイスメントを受けた小説の登場人物たちに心を寄せて自分を慰めたものだ。しかし,たぶん今なら,そんな行為は文化的盗用だと疑われるんだろうな。


10.8.20

お前の中の熾火はまだくすぶっている

夏場のTwitterでここ二年ほど見かけるtweetがある。
暑くなるたびに、昔サハラ砂漠で熱中症になった師匠が現地の人から教わった、砂糖を入れた冷たいミントティをたくさん飲むこと、水を張ったバスタブで一晩寝ることなどを思い出す。「お前の中の熾火はまだくすぶっているんだ」と言われるそうです。
 ミントは冷感作用があるが,あくまで冷感であって身体を冷やすわけではない。
けれど「その気になる」というのはとても大事だと思う。


いつだったか訪れたイスラエル料理屋で,いただいた食後の紅茶にミントの葉っぱが入っていた。中東で飲む”チャ”の発酵具合はよく知らないが,深緋の液体が手のひらに収まるほどの小さなグラスに注がれて,砂糖の塊とともにソーサーに載せて供されると聞く。その昔,沢木耕太郎の「深夜特急」で繰り返し読んで空想した風景だ。
ちょうど紅茶を持て余していたのでフレッシュミントをぶち込み,淹れている。これがなかなかよい。紅茶のふくよかな香りが通り過ぎた後にスペアミントの冴え冴えとした余韻が残る。

で,もう一度淹れようと買いに行ったら,ペパーミントしかなかった。ペパーミントの方がスペアミントよりメントールは多いらしい。違いはよく知らない。

でね,ペパーミントってガムとか歯磨き粉とかでおなじみの香りだったんだよね…。いやーいいガムでしたわ。

8.8.20

ルバーブを煮る

近隣のスーパーでルバーブが山積みになっていた。九州ではなかなか見られない。その前に住んでいた三鷹でも,高級果物屋にしか置いてなかった。それがここ大都会ではどうよ。普通の価格帯の店でも売られているとは! 
でも実は,ルバーブは長野県富士見町や北海道にも生産地があるという。しかも歴史がある。だから知られていないだけで日本にもある野菜なのだった。

ジャムは簡単にできる。
小口に切って,約半量の重さの砂糖と大さじ1-2ほどのレモン果汁をまぶし,20分放置。水が上がってきたら一緒に火にかける。
あくをとって弱火にして,もったりするまで加熱。
できた。これはルバーブ生の状態で200g弱。
甘酸っぱいので夏に大変おいしい。が,子供の受けは悪いのでなかなか減らん。一週間で食べきるためにはこれくらいが限界。

クランブルにしてもいいね。今度やろう。
 

5.8.20

精神的加重

精神科の専門的な用語に精神的加重というものがある。身体に何か問題があるときに,精神に影響が出るというものだ。急におかしな言動をし始めたとしても,それが直ちに精神科に類する原因があるせいだとは言えない。たいがいは体のどこかの調整がずれて,追いつかなくなったのが気持ちに表れているのである。
で,この新コロ禍において急におかしな言動を始めた人がいたら,周りの人が気づいてあげてほしいし,自分のことも注意してね,という話を「コロナのせいにしてみよう。シャムズの話」(國松淳和・金原出版2020/6)で読んだ。

少し前にバズった話で,カビに寄生されたセミが狂って繁殖行動をしまくるというのがある。似た事象はほかにもある。例えば宿主のカマキリを水辺に連れていくハリガネムシとか,トキソプラズマに感染した人間は攻撃的になるとか。

人が気持ちとか感情とか思考などと捉えている脳内のもやもやは,体内の化学変化の上澄みでしかないんだなと思ってしまう。どんな理知的に見えても,人間である限り,みんなたんぱく質の合成や分解に左右されて生きている。

年々,気持ちの変化は少ない方が疲れにくいと感覚的にわかってきた。年齢のせいかもしれないけれども。そのためには形式的に体を整えてやるのが楽に生きる近道なんだろう。睡眠時間や栄養状態などを蔑ろにしがちだったけれど,改めた方がいいな。

28.7.20

なぜ新しい街にくるとラーメン屋をめぐってしまうのか



このブロガーの入力UIが簡素化したせいで,テキストの画像回り込みをするためにはHTMLを触らないといけなくなった。めんどい。

最近読んだ本
・藤井 一至(2015)「大地の五億年 せめぎあう土と生き物たち 」山と渓谷社
・星野保(2015)「菌世界紀行――誰も知らないきのこを追って」岩波書店
・星野保(2019)「菌は語る: ミクロの開拓者たちの生きざまと知性」春秋社
・日本植物病理学会(2019)「植物たちの戦争 病原体との5億年サバイバルレース」講談社

始まりは土壌の話だったのだけど,土壌をつくるにあたって菌類がとても大切ということになり,降雪後に麦が枯れると古来より伝わってきた原因であった雪腐病菌にふれ,視点を植物におくとそのような寄生生物は植物にとっては病気のもとだな?というところまでたどり着いた。なんか行きつ戻りつしているんだけど,植物の分子生物学の入り口に触れることになろうとは…。大変面白いが,化学の教科書をどこかで読み直さなきゃいけないな。

このあとまだ三冊待ってる。でもうち二冊はちくまプリマーだから簡単に読めるはず…たぶん…ブルーバックスは重かった。すごく勉強した感じ。

見たいけどたまってる動画
・100分de名著 7/28分
・オンライン公開講義シリーズ「立ち止まって、考える」の出口康夫教授「⾃⼰とは何か」第三回
・同シリーズ 児玉聡准教授「パンデミックの倫理学」第四回
・ゼロワン7/26

16.6.20

はー


週一の添削バイトを再開してちょこちょこやってんだけど、いやー今日は疲れた。筆跡が見えることもあって、頑張ってるのはすごく伝わってくる。昨今の休校措置もあるし、不安だろう。少しでも勉学が進むようにお手伝いしたいのは山々だよ。
なので最大限、自分を削って寄り添いました。がんばった…。

はー。ため息が出る。美術館に行きたいなあ。

24.5.20

誕生日本番

昨日に引き続いて次男の誕生日であった。今日はケーキを食べてプレゼントを渡すミッションをクリアした。子どもにとっても大人にとっても、一年のうちで大切な日の一つである。

子どもが7歳になるということは、出産をしてから7年が経ったということだ。前夜8時過ぎに1歳10ヶ月の長男を寝かしつけ、やれやれと暗闇の中で携帯をいじっているうちに、下腹部痛がじわじわと起こり始め、怪しみを感じて産婦人科に電話をしたらすぐに来るようにと指示をされたあの夜から、7年と一日が過ぎたのだ。

私の腕の中にすっぽりとおさまっていた赤子は、いまや重たいランドセルを背負って小学校へ歩いて通う。一端の口をきいて、使いたいブロックを兄と取り合って泣き叫び、寝込む私の額を撫でる男の子になった。

あっという間だな。成長って不思議な自然現象だ。この先、誕生日が来るたびに、彼の成長を振り返って、こんなこともあんなこともできるようになったと寿ぐのだろう。

自分の誕生日になると、その日を迎えるたびにまた一歩死が近づいたと考えてしまうのに。

不思議なものだな。

23.5.20

ただひたすら眠い

先月、アマゾンのプライムビデオで韓国映画のバーニングをレンタルした。週末100円セールのタイミングで、おすすめするツイートを見かけたのだ。レンタル期間は30日ほど。案の定、期限ぎりぎりまで寝かせることになり、猶予が残り4日に迫ってやっと昨夜見たのだった。

とてもむずかしいえいがだった…

あらすじは非常にシンプル。
田舎出身で小説家志望と言い訳をしながら現実と向き合ってない主人公が、同郷の幼馴染と再会した後に、彼女を介して都会の富裕な青年と出会う。幼馴染を挟んで三角関係ができそうになりつつも、圧倒的に勝ち目のない主人公は卑屈になるしかない。青年がある日、趣味が放火だと主人公に告げ、その後から幼馴染の消息がわからなくなる。青年の家には幼馴染の飼っていた猫と、彼女に渡した腕時計が残されていた。主人公は青年を監視するが放火も幼馴染も真相はわからない。しまいには、主人公は青年を刺し、火を付ける…

主人公よ自我を持て!!!と歯噛みながらも一方で、韓国の格差はすごいからな…と一歩離れて見ていた。

たったこれだけのあらすじを二時間半もかけてやるので、きっと私には気づけないことがたくさんあるんだろうなとは想像していた。そしたらやっぱり先人はどこにでもいるもので、アマゾンレビューの一番上の人がきっちり読み解いてくれていた。

これ、原作が村上春樹なんだってね。春樹はほとんど読んだことがない。過去にちらっと見たけれど、人物の心が見えなくて、ガラス窓の向こうの世界をぼんやりと覗いている気分になってしまったのだった。この映画もなかなか人物たちの本音が見えず、特に最初30分は見続けるのに自分を励ます必要があった(ただ、それも演出のうちで、主人公も幼馴染も自分を省みることを意識的に避けていたからだった)。

ともあれ、こういう読み解くのが大変な作品に触れるのは久しぶり、いや、これまでほとんどなかったんじゃないか? と思ったな。
とくに最近はわかりやすい作品が多いし、いま毎日見ている朝ドラのエールは荒いと感じる。朝ドラは朝ドラで多くの視聴者に向けてつくられているものなので、説明や回想、繰り返す演出でとにかく全部語られるようにできている。そういうものだし、それはそれで楽に見られていいんだけど、そうでないのも見たいなあと思った。

なんだろね、久しぶりに頭と精神を使ったのでくたびれてしまったのかもしれない。
今日はとにかく眠くて眠くてつらかった。

明日、次男の7歳の誕生日を迎える。今夜は彼のリクエストで、ハンバーガーパーティーをした。バンズこそ買ったけれど、ハンバーグ、トマト、レタス、ローストオニオン、アボカド、チーズを用意し、自分で挟んで食べるもの。フライドポテトも家で揚げるのは初めて。食べるのに相当忙しかったみたいだが、楽しんでいたようだからまあいいでしょう。

18.5.20

みんな天候のせい

とにかく眠いし、頭が痛い。胃もしくしくする。ここ三日間、体調不良が続いている。鎮痛剤は何度か飲んだ。なのにあまり効いていない。たまにこういうことがある。
天気と体調は連動することもあるから仕方ない。こんなときはじっとして嵐が通り過ぎるのを待つ。ただ布団の中で縮こまってだけいられるのは幸いだった。

はやみねかおるの「めんどくさがりなきみのための文章教室」を読んだ。ゼロからの作文指南から小説を書くところまで、幅広く面倒を見てくれる文章ハウツー本だ。作者は児童文学作家であり、もと小学校教諭らしく、やさしさに満ちている。易しく、また優しい。文章がうまくなりたければ本を沢山読みなさいと諭すのと同時に、たくさん読むだけで行動しなくなったり、家の中が狭くなったりする、と短所もあわせて教えてくれる。
この中で、音声だけ再生トレーニングといった方法が出てくる。よく知っている映像作品の音声だけを聞いて、話し方や間、効果などを聴覚から学ぶ。私はあんまり人間と会話する機会がないので、へえええと思ったね。
読書(特に小説)の醍醐味は、自分とは別の人生を歩めるところにある。脳内へのアクセスは当然視覚からだ。それが当たり前だと思ってきた。現実の人生は五感すべてを使っている。視覚以外の場所から虚構を体感するなんて思ってもいなかったけれども、なるほど聴覚は可能だ。
ここを読めただけでも買った価値があったなーと思った。
序章と各章の冒頭の短編が美しいしユーモアがあってくすりとする。読み物としてもとても楽しい。子どもたちに毎夜一項目ずつ読み聞かせていると、結構な頻度で爆笑しているから、やはり児童文学作家…子どもにウケる…と唸っている。

17.5.20

一月半ほどPCに触らぬうちに

 このブログの入力UIなどが大きく変わっていて戸惑っている。ひと目でわかるようになったところもあれば、過去にあった項目が削られて私の好みと外れてしまったところもある。 
 新しいことにはこっちが合わせていくしかない。

 自宅待機生活が続いている。これを機に私のノートPCを新調した。前に持っていたvaioは確か2006年製だったから、14年も温存していることになる。
 普段は共有のデスクトップで事足りていたのだが、夫は家で仕事をするようになったし、子どもたちもタブレットを常用するようになった。要するに、一人一台必要な差し迫った事情が突然やってきたのだ。
 子どもは週に一度、15分の顔合わせのために登校している。そこで受け取る課題一覧の中に、サイトにある音楽を聞いて歌えだの、映像教材を見ろだの、ICT活用の見本みたいな項目が入っている。そのためタブレットを子どもが占有する時間が増えた。
 私はウェブを介して添削バイトをしている。4月中は休みにしていたが、5月以降は夫に場所を譲ってもらう必要が出てきた。いまのところは8時間で終えられる作業量ではある。この8時間は家事どころか自分の食事の時間も勘案していない。純粋に作業だけに充てる時間だ。
 結果、PCとともに仕事を取り上げられた夫は、私の代わりに夕飯を用意し片付け、取り込むだけで畳んでなかった洗濯物を子どもたちと収納し、風呂の用意までしてくれたりする。ありがたい。在宅バンザイ! 

 今の家はキッチンとリビングの境にカウンターがあるので、その一角にPCを置き、スタンドライトも導入して、私だけのワーキングスペースができた。とても嬉しい。

 前の家はさまざまな事情で大変狭く、全員で全部屋を共有するしかない状況だったが、今回は広くなった。兄弟共有とはいえ子どもだけの部屋を確保できたし、夫の仕事の荷物が中心だが寝室兼用にしなくてもよい大人の部屋がある。
 しかし実際、家族全員が常駐するとなると、私の居場所はないのだ。ダイニングテーブルかソファか布団の中である。

 「居るのはつらいよ」という本がある。私のオールタイム・ベスト3に入る本だ。
 この著者である東畑開人さんが先日こんなツイートをしていた。



 自分の役割を誰かに依存していない状態になるには、形式的に整えないといけない部分もあるということだと思う。
 かつて私が市の育児相談に参加していたときは、かならず母子分離されていた。グループも個人面談も同様だった。独りになれる場所が確保されていることが、心の安全を保つのに必要なのだろう。
 依存していないと先に書いたけれども、この安全を保つためには必ず誰かの助けが必要となる。それは言い換えれば依存だ。安心して誰かを頼れるからこそ、私はわたしとして独立できる。
 だからこそ、そういった環境は得難く、ありがたいし、本当に必要な人には整えるのが難しい。

 さまざまな感謝を噛み締め、やっぱ新しいPCはいいよね~と弄り倒しているのであった。新しいガジェットは単純に触ってて楽しいよね。

14.5.20

ようやく生活が軌道に乗ってきた

新天地に来ましてはや一月半。やっと新しい家の中での動きに体が慣れてきた感がある。
引っ越しの面倒なところは,布団の上げ下げとか,洗った皿の片付けのときにどの方向に振り向くかとか,意識しないで行ってきたことがことごとくリセットされることにある。ふだん頭を使ってこなかったところにリソースを振り分けるのは疲れる。なので,ある意味現状の自粛生活は僥倖でもあった。子供の学校対応とか,新しい町で店や子供の遊び場を探すとか,いっきに降ってくるタスクをぎりぎりまで削ることができる。そうして余った時間はただひたすら自分を慰めることに回せていた。

特に四月に入って,世界中でさまざまな無料配信が行われた。普段だったら見られないようなバレエや歌舞伎,ミュージカル,演劇など,ありがたく視聴していたな。覚えている限りで振り返ってみる。

Metamorphosis; ロイヤルバレエの公演。原作は未読だが,朝起きたら毒虫になっていたということだけは知っていた。バレエの公演は過去にコッペリアしか見たことがなかったので,音楽も群舞もないこの映像には度肝を抜かれたね。人間の身体の可能性と,普段見慣れないだけで同じ人間の動きなのにこんなにもおぞましくなるものかという驚き。とても興味深く見た。

・スーパー歌舞伎 オグリ; 無観客公演の特別配信だった。スーパー歌舞伎なので歌舞伎とは違うものだろうと見当をつけていたが,たとえば殺陣の立ち回りの合間に演者がそろって観客のほうを向いて見得を切ったり,花道を跳躍をつけてはけていったりといった独特な動きはおそらく歌舞伎の特徴なのだろうと思った。録音も録画も撮影もない時代の演芸なのだ。現代なら大判ポスターにするような画角の絵面は,その瞬間にしか生まれないものであって,居合わせた観客の脳裏に深く刻み付けられるように魅力を最大化していたはずだろう。

・通し狂言 義経千本桜; 歌舞伎も見ておこうと思ったのだが,これは予習が必要だ! とネットでいろいろ検索しながら見た。歌舞伎役者の注目するべきポイントの一つは声だという。しかしやはり伝統芸能だけあって現代の普通の発話はしない。耳が慣れるまでちょっと苦労した。Aプロはなんとか見た。話のあらすじをすでにわかっていて,今回はこの役者さんでどんなふうにお芝居するのかな,という楽しみ方をするものだと思ったな。

・ジーザス・クライスト・スーパースター
・オペラ座の怪人
・Love never dies
アンドルー・ロイド・ウェバーのミュージカル特別配信で,4月は毎週末48時間限定だったので必死に追いかけた。JCSはかつてイギリス留学していた時,ブライトンフェスティバルの催しにあったんだけどチケットがとれずに見送ったのよね。なので20年越しに見られた。オペラ座の怪人は映画も見てなかったのでこれが初見。オペラの続編のラブネバーダイズももちろん。ミュージカルは歌があるので,字幕さえあればまあなんとかわかる。音楽がめちゃくちゃかっこよかった。JCSはロックミュージカル,オペラはオケの中にバンドがいたね。ギターと相まって荘厳だったな。舞台芸術も衣装も素敵だった。面白かった。

・ミュージカル刀剣乱舞 一挙配信
で,ミュージカルを見たので調子に乗って,4/23から十日間,毎晩8時からの配信を追っかけました。刀剣乱舞はゲームはしている。2019年1月公開の映画刀剣乱舞がきっかけだったので,お芝居をしているのは知っていた。さらには2018年の紅白にもミュージカル部隊は出演していたし,その前にBSのほうで特集を組んでいたのも見ている。なので出会うべくして出会ったという感じ。
10本中,お芝居があるのは6作,残りはコンサート。一気に見たのもよかったのかもしれない。とても楽しかったし夢中になった。役者はどんどんうまくなり,楽曲のバラエティも増し,増えるキャストもアイドル風から明らかに歌唱力を期待されている人,アクション,舞踊などスキルが増していく。衣装や舞台セットが豪華になっていくのにも,収益が増した分が回されたのかななんて思いをはせることができる。各作の千秋楽を配信しているので新作予告も併せて流されるのだが,会場が増えるたびにしみじみとしたものだ。
あまりによかったのでDMM動画でコンサートのDL販売に手を出してしまった。一年間見放題なのありがたい。よく見返してる。なお,Apple Musicではアルバムの配信もされているので聴き放題でもある。音楽配信は流して利益を還元したいものだ。

・NTL フランケンシュタイン; ベネディクト・カンバーバッチがクリーチャー役をやった回を見た。
これは演劇なので歌がない。当たり前のことだけど,歌があるとセリフが少ないし,歌で感情は読めるので,言語がなくても内容はわかるのだ。不安があったけれど,そもそも半分くらいは言葉がほぼない話だったので助かった。
人間によってつくられた「いのち」がどのように育っていくのかは,最近気になるトピックでもあるので興味深く見た。字幕があればなんとかなるレベル。映画のフランケンシュタインとはたぶん異なる結末だったと思う。こっちはフランケンシュタインを親と慕うクリーチャーのプリミティブな感情,愛情を欲する態度が切なかった。

・ストラトフォード・フェスティバル リア王; これは開始10分で無理だと悟った。初めてのシェイクスピア。リア王は話も知らない(教養がない)。セリフが長いんだね。一文のピリオドがこない。早口。字幕についていけない。
フランケンシュタインは字幕を見なくても耳だけでも,ああこれは古英語っぽく言ってるのね…とか余裕ぶちかましていたのに,本家はほんと難しい。あっこれは今日までだった。もう無理。シェイクスピアはまずきちんと読みたいな…。


こんなとこかな。たぶん。とにかく刀剣乱舞は素晴らしいコンテンツだと思った。去年福岡市博の侍展も行ったからね。最近の新人がらみで古今和歌集を勉強せねばいかん…となっている。日本史も日本の古典も全然興味なくきちゃったから,昔の自分を叱りつけたい。

これからの配信では

・白石加代子の「百物語」シリーズ「筒井康隆作『五郎八航空』」
NYパブリックシアター「What Do We Need to Talk About?」
・NTL Barber Shop Chronicles

が気になっているが,三つ目のNTLは撃沈しそう。二つ目もちょっと危うい。

19.4.20

今日のカニ

説明を追加
カマボコ系大好き

24.2.20

40日を切った

この地で暮らすのもあとひと月と少しになった。
ここでの記録をしばらくつけて、移転後に過去を懐かしむ手がかりにでもしようと考えた。けれどおそらく三日後くらいには、代わり映えしない毎日をただ記載しているだけだと気づいてフェードアウトしていくだろう。

今年は暖かいのが本当に助かる。数日前、市美術館へやっと訪れた。いまは浮世絵展を開催している。若冲以来の江戸絵画で、MFAでもろくに見てこなかった日本の芸術だ。
これが、じっくり眺めたらとても興味深かった。
浮世絵は版画だ。ということは、ある程度の疎な密度で絵を描かなくてはいけない。現実を捨象して、画家の捉えた世界が再度浮かび上がる。まるで漫画の技法だと思った。
小さな判型の中に印象深く収まるように、北斎や広重の自然の切り取り方は計算されているようでいながら、天性の勘でばしりと決めているようでもあった。自分に引き落としてみると、こんな構図で写真を撮ってみたいと思った。また、広重の美人図は髪型に命を注ぎ込んでいると思った。それに手。たおやかで艶のある手の様相には絵師の執着を感じた。しかしそれに比べて雑に広げた胸元に覗く乳房はあまりにそっけない描かれ方をしていて、そういえば江戸時代は女性の胸部にはいまほど性的な意味合いが付されていなかったのを思い出した。

ところでこれはスマホで書いているので、操作性が悪すぎて非常にストレスがたまる。腹立たしいことが多い。なぜ文末にあたるところに送信ボタンがあるのか。カーソルを合わせて改行したかっただけなのに、タップはボタンに反応した。
それに変換も。とりわけ無変換で確定したいときに、変換候補の一番を勝手に選ぶ場合がある。そうすると、頼んでないのに助詞の「は」をひたすら「ば」と確定し、私はそれを削除キーで一字消し、ふたたび「は」をフリック入力するとまた「ば」と確定する。3回くらい繰り返したのち、別の変換候補を選んで消すことで謎の順位はリセットされ、「は」が一番に繰り上がる。全く意味がわからず、ただフラストレーションだけがのこされる。
簡単に扱えるキーボードがほしい。具体的にいえば、iPadにキーボードカバーをつけたい。ずっと言っているが叶わず一年近くが過ぎてしまった。

14.2.20

親知らず協奏曲 その2

それで、さっき残りの右上下二本を抜いてきたわけです。

前回、CTを撮った感じだとやっぱり下は埋没していて、しかも今回は露出もしてない(今回は「交通してない」と医師は言った。外界と接していないということらしい。でもググってもひっかからない) 。よって切開・歯を覆う下顎の骨を削り・引っこ抜くという三段構えとなる。 前回はその骨を削るのがすんなり行かなくて、誰も彼もがグロッキーになったのだった。
今回は先生が対策を練ってきてくれたらしく、骨を削るだけでなく、歯の出っ張りをカットすることにしたらしい。あっという間に引っこ抜かれた。かかった時間は同じくらいではあったけれども。
一番痛かったのは縫合だった。いまは痛みは基本的に全部とっていく流れなのでありがたい。痛かったら我慢しなくていいのほんと助かる。ばんばん麻酔を追加してくれて、いまもなお、口の端から血混じりの唾液が降りてきている。でもこうしてだらだら日記を書く余裕があるので、余裕なんだな。

やっぱりね、精神状態は大きいよ。ブルーな気分は全身に影響する。明日はきっと発熱しないんじゃないかな。

それに昨日から春のように暖かいのもいい。外が明るい。それだけで気持ちが上がる。来週またぐっと下がるみたいだけど。
昨日、気持ちのよい風が吹いてくるなあと、家の窓を全開にしていた。暖かな空気が全身に吹き付けられて、室内でも快適に過ごしていたんだよ。
そして、夕方になって気づいた。エアコンが24度の風をずーっと吹き出していたのを。ばかじゃん!

さて薬局へ行って、点検に出している車を取りに行かなくては。
ちゃくちゃくと、福岡を去る日が近づいてきている。でも最後までやることがあるんだよー。次男の幼稚園のあれとかこれとかそれとか。

14.1.20

親知らずを抜くということ

 先週の金曜、親知らずを二本抜いた。左側の上下。現段階で腫れたり虫歯だったりといったトラブルはなかった。予防医療というやつだ。上も下も一つ前の臼歯のエナメル質の下側に突き刺さるように生えている。ただし、上は露出しているものの下はまだ。
 歯肉を切開してすぐに、医師が不顕性露出だからやっぱり抜くしかない、と自信ありげに言った。ググってもその単語は引っかからない。

 当日は大変だった。歯医者は口腔内の土建屋だと聞いたことがあるが、本当に土木工事をなされている気分だった。歯そのものをハンマーで砕き、歯を覆う骨をドリルで削り、根本を緩ませて強引に引っこ抜く。頰の内側を強く広げられたのと、顎を外から押さえられたのがなにより痛かった。切開した歯肉は最後に縫合されて、まだこのあと抜糸に行かなくてはいけない。

 帰宅後、麻酔の影響もあってとにかくだるく、精神的にも沈んでいた。よくそんな体で子どもを習い事に送り届けられたと思う。がんばった。えらかった私。
 そもそもこの処置の前日から相当ブルーだったのだが、終わった後にこそ、漠然とした不安がそのまま体に出てきたようだった。口を開けると顎は痛いし、流動食を飲み込むと口腔内に勝手に広がるから悶絶するほど滲みる。逃げ場がない。空腹感はあるのに食べられない。咀嚼できるかできないか、口腔からの食物摂取ができるかどうかはQOLに大いに影響する。胃瘻反対。いろんな呪詛を吐きながら、舌が患部に触れないよう、血混じりの唾液を垂れ流しながらこの日は早々に床についた。

 そうしたら翌土曜の朝の発熱よ。口の中は腫れて痛いし、舌をそっと動かしてみると頰の裏側に大きな水ぶくれのようなものがある。もうやだ。この日は午後に消毒の予定があったので、ブルーな気持ちを引きずって診察を受けた。
 普段、薀蓄を朗々と述べる医師も、沈んだ私を見たらさすがに心が痛んだらしい。目に輝きがないね、と言われる。むりです。いたいもん。水でさえすごく滲みるのがつらい。医師は解せない顔をして、滲みるってことはないんだけどなあと首をひねった。
 とはいえ、私にとってはとても起こるとは信じられないほどの土木工事でも、歯科医師にとっては特段難しい処置ではなかったということ、現段階で細菌感染はありえないということを説明されてすこし気が楽になる。診察後、おそらく5ミリほど大きく口が開くようになった。過去に私は、精神的なものがよく身体に現れていたことを思い出した。

 思えば、歯のことなど何も知らなかったのだ。歯がどういった構造で生えているのか、生きている歯を強引に抜いてしまったら、どのような経緯をたどるのか。
 今かかっている歯科医師は、抜歯後の歯茎に空いた穴がどう回復するのかを図説を交えて説明してくれるタイプだ。疑問に思ったことにきちんと答えてくれる。だから信頼しているし、その医師が10~15年後に絶対苦労すると言うから、今回も親知らずを抜いた。
 それでも、やってみないとわからないことが多すぎた。見通しが立たないと不安になる。健康と病気は、生死に直結するからだ。不安になれば、中途半端に聞きかじった話が私を疑心暗鬼にさせる。歯の細菌が脳にまわっていたらどうしよう、とかね。医師は懇切丁寧に私の不安を払拭してくれたけども。
 健康か病気か、自力で予測ができない状態は困る。だからといって、たとえばここで医学的な学習を始めたとしても、結局、いつまでも不安状態は解消されない気もする。知らないことが膨大すぎる。

 10年前にハーバードのエクステンションでPhysiology and anatomyのクラスを聴講した。土曜の夜、そのときに購入した解剖図説を引っ張り出してみた。
 歯は顎の骨から直接生えているものだ。下の歯の場合、歯の根本は歯肉の上皮組織が覆い、それは頰から歯茎を経て舌の付け根まで一枚状となっている。上皮はepithelium。そうだそうだ、そういう単語があったと思い出す。画像と舌の触感から湧く立体イメージが重なりそうになり、なんとなく落ち着いてくる。しかしまだ鎮痛剤は飲んでいる。

 今日で処置から4日が過ぎた。顎に響く鈍痛は消えたものの、口はまだ満足に開かない。顎関節一体が痛い。処置部分が引きつって痛みがあるのか、関節そのものに整形外科的ななにかが影響しているのかはわからない。
 とりあえずドーナツさえも厚みがネックで、せっかくのピエール・エルメ監修ミスドのキャラメルソースショコラを半分に分解して口に運ぶことになった。MUJIのブールドネージュも直径が大きすぎて、齧りながら食べざるを得ない。しかもクラッシュアーモンドが触れると刺激がある。入れ歯の苦労に似ている。やはり歯は健康でありたいなとつくづく思う。

 右側、抜く必要あるんかな。

9.1.20

あけた / テルアビブ・オン・ファイア

今週から平日が始まって、なんのかんので予定があって困る。小学校へ行ってみたり、幼稚園に行ってみたり、来週の保護者会のための書類を作って…まだ着手してない、今週末は園の行事だ。

今週封切りの映画を二本楽しみにしていたのではよ行きたい。行けるときがあるとでも? 諸々がんばりたい。
去年から中東映画と韓国映画が面白いので、そろそろアラビア語とハングルを学ぶべきではないのかと考え始めている。映像に映り込む新聞の見出しとか、登場人物が着替えたシャツのロゴとか、読み取りたいんだよ。そういうところに大切な情報が隠れているかもしれないじゃん。

先日、「テルアビブ・オン・ファイア」を見た。
テルアビブ(イスラエル)のパレスチナ系のドラマ制作スタジオを舞台にした、パレスチナ系イスラエル人脚本家とユダヤ系イスラエル人エルサレム検問所主任とのおかしな交流を描いたコメディ映画。「テルアビブ・オン・ファイア」は劇中劇のタイトルで、第三次中東戦争の直前に、アラブ系のスパイがユダヤ系の将校に取り入ってどうにかしようとする愛憎劇なんだけど、主任が口出しした脚本が思いの外ヒットして、脚本家は彼のところへ通いはじめる。そしたら主任はスパイと将校を結婚させろと言い出して…と始まる話。

劇中劇の民族対立は決して過去の話ではない。このドラマ制作会社においても、中東戦争にどっぷりつかった上の世代は、スパイと将校が結婚するなんて絶対ありえないと抗議する。スポンサーが手を引くことを恐れ、自分たちの信念としても考えられない。
でも主人公たちの世代はもっと柔軟なんだよね。主任は脚本にアドバイスをする対価として、アラブのフムスを要求する。イスラエルも食べるはずなのに、わざわざ「アラブのフムスがうまい」と発言する。それに、検閲官をやめたくてしかたない。
そもそも主人公の脚本家だって、主任をユダヤ系と知っていてアドバイスを乞う。そこに憎しみのようなものはない。
そうして劇中劇のラストはあっと驚く別の結末を迎え、新しい世代で次シーズンの制作にとりかかる。ほわっと温かい気分になるラストだ。
ただ、この結末には、映画のように登場人物がみな裕福な暮らしをしていることが必要不可欠だとも思った。主人公がパレスチナ系イスラエル人なのがミソなんだと思う。パレスチナ難民ではない。だからこそ実現した世界ではなかったかなあと考える。
しかし、劇中劇の結末部分の衝撃よ。劇場内が驚きと笑いでざわざわしたし、私も変な声が出た。