関東も紅葉が見頃になってきた。
10.12.20
秋の色
9.12.20
たまにはあるく
鬼滅の刃問題は和解して、全巻揃いました。よかったよかった。
物語の結末部分でキャラクターを全部くっつけたり、子孫や転生させた未来でも番いにすることでハッピーエンドを演出する作劇はあまり好きではない。問題解決後はキャラクターがその問題によって科せられたくびきから解き放たれてほしいと願う。戦いの仲で培った絆が残ることはあるだろうが、共通の目的がなくなったのだからフェードアウトしたっておかしくないと思っている。転生なんて現実にはあり得ない。それをあえて認めるとして、次の生でまで前世の自分に支配されるのはどうなのかと思ってしまう。
鬼滅の刃はもろにそのタイプだった。ご丁寧に四代ほどくだったキャラクターたちが、先祖と同じようにどこかで出会い、先祖が果たせなかった日常を代わりに送っている。物語が、先の人の思いを繋ぐことをテーマにしていたから、あるべくしてある結末で、作品全体では整合性がとれている。美しい終わり方だとは思う。作品の隙間も全部埋めてくるなあと思った。そういや作者はコミックスの欄外でパロディを披露したり、漫画の中で描いたらいいのに省いたところを欄外に書いたりしていた。
久しぶりに隣町まで歩いた。
1.12.20
鬼滅の刃にはまりました
子どもともども楽しんでおる。アニメを見て映画に行って,コミックスも買いそろえた。
最終巻が12月4日に発売されるとあって,ここ数日わくわくして過ごしていた。のに,予約をしていなかったことが判明した。大変ショックを受けている。今日はおしごとの日だけど,やりかけのままふてくされて寝てしまいたい。
発売日に一刻も早く読みたかったとか,これ増刷いつになるのかなとか,そういうがっかり感はある。んだけれど,この気持ちの落ち込みようはそれにとどまらず,おかしいなと思ったんだよね。
たぶん,私の楽しみにしている気持ちを,私の期待ほど大切にはされていなかったのを悲しいと感じている。予約を任せてほしいと夫に言われたから,尊重してお願いしたのに。普段はこういう駆け引きめいたことは思い当たらないのに,とたんに出るわ出るわの恨み節。そんな自分を省みて,また落ち込むのであった。
まあ一時的に忘れて仕事に集中するわ。本を買うこと自体はたぶんできる。発売日に大きな書店に行けばよい。目星はいちおうついている。ないなら増刷を待つよ。
10.11.20
だるい
ここ二日ほど体が重怠くて寝込んでいた。首から肩、太ももから膝がずっしり重い。過去にも何度か経験があるので、発熱の前触れか、胃腸炎か、と思っていたのだけど、多少の吐き気だけだった。最近流行りの上気道・呼吸器にもとくに変わりはない。
約20時間寝続けたら多少楽になり、また昨夜に怪我をした子を医者に連れて行くために、子の帰宅後にやっとこさ起き上がった。子は大したことがなかったので先に帰らせ、私は私の通院をした。いろいろ問題点はあるものの、血液検査の夥しい白血球数からは感染症でしょうとの診断。抗菌剤をもらって帰宅後すぐに飲んだ。
私は薬が効きやすい方だと思う。プラシーボという意味で。薬の開発の歴史は暗示と切っても切り離せないそうだ。暗示にかかりやすい人間には薬も効く。
元気が徐々に戻ってくるのを感じながら、夕飯にいくつか常備菜的なものをつくったし、食後にはコーヒーを飲みながら仕事もした。カフェインの力もあっただろう、めっちゃ効率良く終えた。
元気になったよ。でもまた肩が重くなってきたのでフェイク健康。
体がだるくてたまらないことは年に2.3度はある。年々感じられるようになってきた。免疫機構が働いているゆえの反応であって、しかもそれを感じ取るようになってきたのは、衰えではないか。だるさに負ける時は、それすなわち命尽きるときではないか。
自分の認識レベル以下のところで、たぶん、炎症は繰り返し起こっているんだろうなと思った。生き物はよくできてるね。
13.10.20
そうは言いつつも見続ける気がする。
今期は「マリーミー!」というドラマを見始めた。主演俳優が以前子どもと見ていたニチアサ出演者というのが一番の理由だ。そんな弱い動機なので、二話放映の現在、すでに見続ける元気がない。
少女漫画が原作の恋愛ものである。あらすじは次の通り。
ニート保護法と揶揄されるおかしな法案のテストケースとして、主人公であるキャリア公務員の秋安が抜擢される。結婚によってニートに身分を与えようという目的で行われる、国家規模のお見合い政策だ。秋安の上司さえも法案そのものには否定的だが、成果を出すために受けるように迫る。出世欲の強い秋安は候補者として決められていたヒロインと婚姻届を提出し、ヒロインの家で同居を始める。知らないもの同士が結婚し、その後に恋愛感情を育むマリッジロマンスだ。
脇のレギュラー登場人物に秋安の同僚がおり、一人は同期の出世頭で係長相当職に就いた元カノ、一人は隣の席の男である。隣の男は秋安の動向をスキャンダル記事でも眺めているような好奇心でのみ受け止めており、酔って秋安とヒロインの家に突撃してくる。そこについてきた元カノは、秋安に未練たらたらなので、ヒロインに離婚しろと迫る…のが次回以降の流れとなる。
「自己効力感の低いわたし」と「なんでももってる優秀な王子様」のパターンで恋愛物語を成立させるために、このトンチキとしかいいようのない設定がなされている。
そもそも、この法案があまりにあまりの人権無視でおかしい。が、これは秋吉の上司が「わかってないやつらが言い出したこと」「失敗させて撤回させたい」という評価をしており、作中で否定しているのでまだいい。
しかし、この上司は、秋安に飲ませるために「断ったら出世は見込めない」とパワハラで迫る。よくない。
それより問題なのは、このヒロインがニートになった理由だ。彼女は祖父母と三人暮らしを長く続けてきた。具体的な年数は不明だが、あまりの外の世界のしらなさ、家族以外との交流のなさ(を一話二話で近所とのトラブルや、婚姻届を提出するのに寝間着にしているルームウェアのまま出かける場面、ホームセンターは行ったことがないなどエピソードで描いている)を考慮すると、相当の期間があったのではないかと思われる。昨今のヤングケアラー問題が頭をよぎる。彼女が相応の年齢で経験するべきことを取り上げられてきたのではないか、ひょっとしたら中卒ではないか、などの疑念が生まれる。
祖父が先立ち、病床の祖母が孫のヒロインの将来を心配して、ニート保護法のモニターに応募したのだった。これが女孫ではなかったら同じ展開になったのか? というifも考えてしまう。
ヒロインは祖父母のことを案じ、祖父母のためにだけ暮らしてきたため、最低限の生活能力はあるものの自分を押し殺して生きている。それを目の当たりにして、秋安はヒロインに対して「何かしてあげたい」と思い始める。曲がりなりにも結婚したのだから。
という福祉のゆがみから生じた事態であるのに、二人の間のことだけに着目して問題解決を図ろうとする作劇の態度が気に食わない。
だいたい、ここに出てくる登場人物の半分は官僚、しかもキャリア、元カノの職位からして30才前後だ。もっと広い視点を持ってしかるべき。百歩譲って、官僚機構のセクショナリズムから、秋安個人がヒロインのための真の支援を考えるのは難しいかもしれない(個人的には戦ってほしい)。
だから思うのは、どうして「キャリア官僚にした!?」 ちょっと生活に余裕がある一般人でよかったじゃん。モニターには友達との飲みの席での罰ゲームで応募したとか。
この先、
ニート保護法はやっぱりだめ
→(問題なく婚姻届は提出しているので婚姻無効にはならないはずだが)結婚生活はとりやめを上司から言い渡される
→仲が深まっていた二人は戸惑い、反発し、本当の夫婦になる
という陳腐な流れが来ると思われる。それならきっかけが後ろめたいほど反動が大きくなり、恋愛は盛り上がるんだけど。
そこはやっぱり「王子様」を配置したかったから、という理由が大きいのだと思う。
三話の予告を見る限り、少なくとも来週まではつまらない(あっ言っちゃった)人間模様でごちゃごちゃするんだろう(だって元カノ曰く秋安とつきあってたの二年前だよ?!)。
とはいえ、全10話となるドラマシリーズだ。このあとの話数で社会問題にまで視野を広げていけたらこのドラマは化けると思う。
物語が語ることは究極的には人間の生き方であり、そのシークエンスの中に葛藤があるからカタルシスも生まれる。
その葛藤は本当に個人的なものだけ由来するのか。人間はさまざまな環境の中で形作られる。逃れられない社会の構造の中で自覚のないゆがみが生じているかもしれない。登場人物の掘り下げは価値観の解体ショーにほかならず、現代劇であれば同時代を生きる視聴者は価値判断を迫られる。画面の向こうで行われる解体を目の前にして、自分には絶対降りかからない火の粉を気楽に眺めるだけではいられないかもしれない。ただのテレビドラマなのに、痛みを感じてしまうかもしれない。だけど私はそこまで踏み込んだ物語を見たいのだ。
なお秋安役の瀬戸利樹さんは、表す感情の解像度が高まっていてよい。前のヒモ役のときは笑顔に無理を感じたので、うまくなっている……と思った。本人の整った容姿からも正統派の王子様役が似合うので、配役としては合っているのではないか。パーソナリティとは異なっていたとしても、そこは役者さんだから。さすがだ。
ただし、一話で出世のために結婚してしまうような野心あふれる言動をさせておきながら、ドライな人間像はそのあと出てこない。むしろヒロインのけなげさに心を寄せていく情の深い人物で、その結果ヒロインの心も解けている。よって人物像としてはちぐはぐになっている。作劇が悪い。
5.9.20
ほんとうに困難な境遇にいる人のことは見えない
「UNHCR難民映画祭」を見た。
全六編。いずれも祖国で安全に暮らせない人々を撮影したもので,難民キャンプに暮らしていたり,すでに他国に逃れたもののその地での身分が安定しなかったり,援助を求めて自らの苛烈な過去を語り訴えたり,様々だ。
映画作品として成立しているので,撮影者の安全やそれを作品として全世界に公開するルートがすでにある。彼らは困難な環境にいるとはいえ,まだ”いい方”だろう。
難民や移民といえば,大学院の時に秋学期の最初のコースで少し触れた程度だった。アメリカに暮らしたときに初めて難民として移民してきた人たちと知り合った。私は何も知らなかった。
ヴィエト・タン・ウェン編「ザ・ディスプレイスト」を読んでいる。編者による前書きに,この本は移民の作家による記憶の記録だが,物語の力に読者が感心しているだけではだめだとある。
読者も作家も,文学が世界を変えると自らを欺いてはいけない。文学が変えるのは読者と作家の世界だ。人々が腰を上げて世界を出て,文学が語る世界のあり方を変えようとなにかをすることで,ようやく文学は世界を変えることができる。
作家や代弁者に頼ることなくすべての声なき者が自分の物語を語ることができ,それに耳が傾けられるチャンスが社会的,経済的,文化的,政治的に確保されている,そんな世界をつくることにこそ,ほんとうの正しさがある。
角度はやや違うが,私の理想のひとつは,誰もが声をあげられる環境が整うことだと思っている。でもそれだけではだめで,受け手がいなければいけないのだな。
初めて読んだ移民の話は Khaled Hosseiniによる"The Kite Runner"だった。夫の留学についていったアメリカ滞在時のことだ。経済的にも社会的にもなんの不安もない状態であったにもかかわらず,私は自分自身に在米する理由が見つけられずとても心もとない気持ちでいた。そんなとき,ディスプレイスメントを受けた小説の登場人物たちに心を寄せて自分を慰めたものだ。しかし,たぶん今なら,そんな行為は文化的盗用だと疑われるんだろうな。
10.8.20
お前の中の熾火はまだくすぶっている
暑くなるたびに、昔サハラ砂漠で熱中症になった師匠が現地の人から教わった、砂糖を入れた冷たいミントティをたくさん飲むこと、水を張ったバスタブで一晩寝ることなどを思い出す。「お前の中の熾火はまだくすぶっているんだ」と言われるそうです。ミントは冷感作用があるが,あくまで冷感であって身体を冷やすわけではない。
けれど「その気になる」というのはとても大事だと思う。
いつだったか訪れたイスラエル料理屋で,いただいた食後の紅茶にミントの葉っぱが入っていた。中東で飲む”チャ”の発酵具合はよく知らないが,深緋の液体が手のひらに収まるほどの小さなグラスに注がれて,砂糖の塊とともにソーサーに載せて供されると聞く。その昔,沢木耕太郎の「深夜特急」で繰り返し読んで空想した風景だ。
ちょうど紅茶を持て余していたのでフレッシュミントをぶち込み,淹れている。これがなかなかよい。紅茶のふくよかな香りが通り過ぎた後にスペアミントの冴え冴えとした余韻が残る。
で,もう一度淹れようと買いに行ったら,ペパーミントしかなかった。ペパーミントの方がスペアミントよりメントールは多いらしい。違いはよく知らない。
でね,ペパーミントってガムとか歯磨き粉とかでおなじみの香りだったんだよね…。いやーいいガムでしたわ。
8.8.20
ルバーブを煮る
5.8.20
精神的加重
28.7.20
なぜ新しい街にくるとラーメン屋をめぐってしまうのか
16.6.20
はー
なので最大限、自分を削って寄り添いました。がんばった…。
はー。ため息が出る。美術館に行きたいなあ。
24.5.20
誕生日本番
昨日に引き続いて次男の誕生日であった。今日はケーキを食べてプレゼントを渡すミッションをクリアした。子どもにとっても大人にとっても、一年のうちで大切な日の一つである。
子どもが7歳になるということは、出産をしてから7年が経ったということだ。前夜8時過ぎに1歳10ヶ月の長男を寝かしつけ、やれやれと暗闇の中で携帯をいじっているうちに、下腹部痛がじわじわと起こり始め、怪しみを感じて産婦人科に電話をしたらすぐに来るようにと指示をされたあの夜から、7年と一日が過ぎたのだ。
私の腕の中にすっぽりとおさまっていた赤子は、いまや重たいランドセルを背負って小学校へ歩いて通う。一端の口をきいて、使いたいブロックを兄と取り合って泣き叫び、寝込む私の額を撫でる男の子になった。
あっという間だな。成長って不思議な自然現象だ。この先、誕生日が来るたびに、彼の成長を振り返って、こんなこともあんなこともできるようになったと寿ぐのだろう。
自分の誕生日になると、その日を迎えるたびにまた一歩死が近づいたと考えてしまうのに。
不思議なものだな。
23.5.20
ただひたすら眠い
18.5.20
みんな天候のせい
17.5.20
一月半ほどPCに触らぬうちに
14.5.20
ようやく生活が軌道に乗ってきた
これは演劇なので歌がない。当たり前のことだけど,歌があるとセリフが少ないし,歌で感情は読めるので,言語がなくても内容はわかるのだ。不安があったけれど,そもそも半分くらいは言葉がほぼない話だったので助かった。
人間によってつくられた「いのち」がどのように育っていくのかは,最近気になるトピックでもあるので興味深く見た。字幕があればなんとかなるレベル。映画のフランケンシュタインとはたぶん異なる結末だったと思う。こっちはフランケンシュタインを親と慕うクリーチャーのプリミティブな感情,愛情を欲する態度が切なかった。
フランケンシュタインは字幕を見なくても耳だけでも,ああこれは古英語っぽく言ってるのね…とか余裕ぶちかましていたのに,本家はほんと難しい。あっこれは今日までだった。もう無理。シェイクスピアはまずきちんと読みたいな…。
19.4.20
24.2.20
40日を切った
ここでの記録をしばらくつけて、移転後に過去を懐かしむ手がかりにでもしようと考えた。けれどおそらく三日後くらいには、代わり映えしない毎日をただ記載しているだけだと気づいてフェードアウトしていくだろう。
今年は暖かいのが本当に助かる。数日前、市美術館へやっと訪れた。いまは浮世絵展を開催している。若冲以来の江戸絵画で、MFAでもろくに見てこなかった日本の芸術だ。
これが、じっくり眺めたらとても興味深かった。
浮世絵は版画だ。ということは、ある程度の疎な密度で絵を描かなくてはいけない。現実を捨象して、画家の捉えた世界が再度浮かび上がる。まるで漫画の技法だと思った。
小さな判型の中に印象深く収まるように、北斎や広重の自然の切り取り方は計算されているようでいながら、天性の勘でばしりと決めているようでもあった。自分に引き落としてみると、こんな構図で写真を撮ってみたいと思った。また、広重の美人図は髪型に命を注ぎ込んでいると思った。それに手。たおやかで艶のある手の様相には絵師の執着を感じた。しかしそれに比べて雑に広げた胸元に覗く乳房はあまりにそっけない描かれ方をしていて、そういえば江戸時代は女性の胸部にはいまほど性的な意味合いが付されていなかったのを思い出した。
ところでこれはスマホで書いているので、操作性が悪すぎて非常にストレスがたまる。腹立たしいことが多い。なぜ文末にあたるところに送信ボタンがあるのか。カーソルを合わせて改行したかっただけなのに、タップはボタンに反応した。
それに変換も。とりわけ無変換で確定したいときに、変換候補の一番を勝手に選ぶ場合がある。そうすると、頼んでないのに助詞の「は」をひたすら「ば」と確定し、私はそれを削除キーで一字消し、ふたたび「は」をフリック入力するとまた「ば」と確定する。3回くらい繰り返したのち、別の変換候補を選んで消すことで謎の順位はリセットされ、「は」が一番に繰り上がる。全く意味がわからず、ただフラストレーションだけがのこされる。
簡単に扱えるキーボードがほしい。具体的にいえば、iPadにキーボードカバーをつけたい。ずっと言っているが叶わず一年近くが過ぎてしまった。
14.2.20
親知らず協奏曲 その2
前回、CTを撮った感じだとやっぱり下は埋没していて、しかも今回は露出もしてない(今回は「交通してない」と医師は言った。外界と接していないということらしい。でもググってもひっかからない) 。よって切開・歯を覆う下顎の骨を削り・引っこ抜くという三段構えとなる。 前回はその骨を削るのがすんなり行かなくて、誰も彼もがグロッキーになったのだった。
今回は先生が対策を練ってきてくれたらしく、骨を削るだけでなく、歯の出っ張りをカットすることにしたらしい。あっという間に引っこ抜かれた。かかった時間は同じくらいではあったけれども。
一番痛かったのは縫合だった。いまは痛みは基本的に全部とっていく流れなのでありがたい。痛かったら我慢しなくていいのほんと助かる。ばんばん麻酔を追加してくれて、いまもなお、口の端から血混じりの唾液が降りてきている。でもこうしてだらだら日記を書く余裕があるので、余裕なんだな。
やっぱりね、精神状態は大きいよ。ブルーな気分は全身に影響する。明日はきっと発熱しないんじゃないかな。
それに昨日から春のように暖かいのもいい。外が明るい。それだけで気持ちが上がる。来週またぐっと下がるみたいだけど。
昨日、気持ちのよい風が吹いてくるなあと、家の窓を全開にしていた。暖かな空気が全身に吹き付けられて、室内でも快適に過ごしていたんだよ。
そして、夕方になって気づいた。エアコンが24度の風をずーっと吹き出していたのを。ばかじゃん!
さて薬局へ行って、点検に出している車を取りに行かなくては。
ちゃくちゃくと、福岡を去る日が近づいてきている。でも最後までやることがあるんだよー。次男の幼稚園のあれとかこれとかそれとか。
14.1.20
親知らずを抜くということ
歯肉を切開してすぐに、医師が不顕性露出だからやっぱり抜くしかない、と自信ありげに言った。ググってもその単語は引っかからない。
当日は大変だった。歯医者は口腔内の土建屋だと聞いたことがあるが、本当に土木工事をなされている気分だった。歯そのものをハンマーで砕き、歯を覆う骨をドリルで削り、根本を緩ませて強引に引っこ抜く。頰の内側を強く広げられたのと、顎を外から押さえられたのがなにより痛かった。切開した歯肉は最後に縫合されて、まだこのあと抜糸に行かなくてはいけない。
帰宅後、麻酔の影響もあってとにかくだるく、精神的にも沈んでいた。よくそんな体で子どもを習い事に送り届けられたと思う。がんばった。えらかった私。
そもそもこの処置の前日から相当ブルーだったのだが、終わった後にこそ、漠然とした不安がそのまま体に出てきたようだった。口を開けると顎は痛いし、流動食を飲み込むと口腔内に勝手に広がるから悶絶するほど滲みる。逃げ場がない。空腹感はあるのに食べられない。咀嚼できるかできないか、口腔からの食物摂取ができるかどうかはQOLに大いに影響する。胃瘻反対。いろんな呪詛を吐きながら、舌が患部に触れないよう、血混じりの唾液を垂れ流しながらこの日は早々に床についた。
そうしたら翌土曜の朝の発熱よ。口の中は腫れて痛いし、舌をそっと動かしてみると頰の裏側に大きな水ぶくれのようなものがある。もうやだ。この日は午後に消毒の予定があったので、ブルーな気持ちを引きずって診察を受けた。
普段、薀蓄を朗々と述べる医師も、沈んだ私を見たらさすがに心が痛んだらしい。目に輝きがないね、と言われる。むりです。いたいもん。水でさえすごく滲みるのがつらい。医師は解せない顔をして、滲みるってことはないんだけどなあと首をひねった。
とはいえ、私にとってはとても起こるとは信じられないほどの土木工事でも、歯科医師にとっては特段難しい処置ではなかったということ、現段階で細菌感染はありえないということを説明されてすこし気が楽になる。診察後、おそらく5ミリほど大きく口が開くようになった。過去に私は、精神的なものがよく身体に現れていたことを思い出した。
思えば、歯のことなど何も知らなかったのだ。歯がどういった構造で生えているのか、生きている歯を強引に抜いてしまったら、どのような経緯をたどるのか。
今かかっている歯科医師は、抜歯後の歯茎に空いた穴がどう回復するのかを図説を交えて説明してくれるタイプだ。疑問に思ったことにきちんと答えてくれる。だから信頼しているし、その医師が10~15年後に絶対苦労すると言うから、今回も親知らずを抜いた。
それでも、やってみないとわからないことが多すぎた。見通しが立たないと不安になる。健康と病気は、生死に直結するからだ。不安になれば、中途半端に聞きかじった話が私を疑心暗鬼にさせる。歯の細菌が脳にまわっていたらどうしよう、とかね。医師は懇切丁寧に私の不安を払拭してくれたけども。
健康か病気か、自力で予測ができない状態は困る。だからといって、たとえばここで医学的な学習を始めたとしても、結局、いつまでも不安状態は解消されない気もする。知らないことが膨大すぎる。
10年前にハーバードのエクステンションでPhysiology and anatomyのクラスを聴講した。土曜の夜、そのときに購入した解剖図説を引っ張り出してみた。
歯は顎の骨から直接生えているものだ。下の歯の場合、歯の根本は歯肉の上皮組織が覆い、それは頰から歯茎を経て舌の付け根まで一枚状となっている。上皮はepithelium。そうだそうだ、そういう単語があったと思い出す。画像と舌の触感から湧く立体イメージが重なりそうになり、なんとなく落ち着いてくる。しかしまだ鎮痛剤は飲んでいる。
今日で処置から4日が過ぎた。顎に響く鈍痛は消えたものの、口はまだ満足に開かない。顎関節一体が痛い。処置部分が引きつって痛みがあるのか、関節そのものに整形外科的ななにかが影響しているのかはわからない。
とりあえずドーナツさえも厚みがネックで、せっかくのピエール・エルメ監修ミスドのキャラメルソースショコラを半分に分解して口に運ぶことになった。MUJIのブールドネージュも直径が大きすぎて、齧りながら食べざるを得ない。しかもクラッシュアーモンドが触れると刺激がある。入れ歯の苦労に似ている。やはり歯は健康でありたいなとつくづく思う。
右側、抜く必要あるんかな。
9.1.20
あけた / テルアビブ・オン・ファイア
今週封切りの映画を二本楽しみにしていたのではよ行きたい。行けるときがあるとでも? 諸々がんばりたい。
去年から中東映画と韓国映画が面白いので、そろそろアラビア語とハングルを学ぶべきではないのかと考え始めている。映像に映り込む新聞の見出しとか、登場人物が着替えたシャツのロゴとか、読み取りたいんだよ。そういうところに大切な情報が隠れているかもしれないじゃん。
先日、「テルアビブ・オン・ファイア」を見た。
テルアビブ(イスラエル)のパレスチナ系のドラマ制作スタジオを舞台にした、パレスチナ系イスラエル人脚本家とユダヤ系イスラエル人エルサレム検問所主任とのおかしな交流を描いたコメディ映画。「テルアビブ・オン・ファイア」は劇中劇のタイトルで、第三次中東戦争の直前に、アラブ系のスパイがユダヤ系の将校に取り入ってどうにかしようとする愛憎劇なんだけど、主任が口出しした脚本が思いの外ヒットして、脚本家は彼のところへ通いはじめる。そしたら主任はスパイと将校を結婚させろと言い出して…と始まる話。
劇中劇の民族対立は決して過去の話ではない。このドラマ制作会社においても、中東戦争にどっぷりつかった上の世代は、スパイと将校が結婚するなんて絶対ありえないと抗議する。スポンサーが手を引くことを恐れ、自分たちの信念としても考えられない。
でも主人公たちの世代はもっと柔軟なんだよね。主任は脚本にアドバイスをする対価として、アラブのフムスを要求する。イスラエルも食べるはずなのに、わざわざ「アラブのフムスがうまい」と発言する。それに、検閲官をやめたくてしかたない。
そもそも主人公の脚本家だって、主任をユダヤ系と知っていてアドバイスを乞う。そこに憎しみのようなものはない。
そうして劇中劇のラストはあっと驚く別の結末を迎え、新しい世代で次シーズンの制作にとりかかる。ほわっと温かい気分になるラストだ。
ただ、この結末には、映画のように登場人物がみな裕福な暮らしをしていることが必要不可欠だとも思った。主人公がパレスチナ系イスラエル人なのがミソなんだと思う。パレスチナ難民ではない。だからこそ実現した世界ではなかったかなあと考える。
しかし、劇中劇の結末部分の衝撃よ。劇場内が驚きと笑いでざわざわしたし、私も変な声が出た。
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