14.1.20

親知らずを抜くということ

 先週の金曜、親知らずを二本抜いた。左側の上下。現段階で腫れたり虫歯だったりといったトラブルはなかった。予防医療というやつだ。上も下も一つ前の臼歯のエナメル質の下側に突き刺さるように生えている。ただし、上は露出しているものの下はまだ。
 歯肉を切開してすぐに、医師が不顕性露出だからやっぱり抜くしかない、と自信ありげに言った。ググってもその単語は引っかからない。

 当日は大変だった。歯医者は口腔内の土建屋だと聞いたことがあるが、本当に土木工事をなされている気分だった。歯そのものをハンマーで砕き、歯を覆う骨をドリルで削り、根本を緩ませて強引に引っこ抜く。頰の内側を強く広げられたのと、顎を外から押さえられたのがなにより痛かった。切開した歯肉は最後に縫合されて、まだこのあと抜糸に行かなくてはいけない。

 帰宅後、麻酔の影響もあってとにかくだるく、精神的にも沈んでいた。よくそんな体で子どもを習い事に送り届けられたと思う。がんばった。えらかった私。
 そもそもこの処置の前日から相当ブルーだったのだが、終わった後にこそ、漠然とした不安がそのまま体に出てきたようだった。口を開けると顎は痛いし、流動食を飲み込むと口腔内に勝手に広がるから悶絶するほど滲みる。逃げ場がない。空腹感はあるのに食べられない。咀嚼できるかできないか、口腔からの食物摂取ができるかどうかはQOLに大いに影響する。胃瘻反対。いろんな呪詛を吐きながら、舌が患部に触れないよう、血混じりの唾液を垂れ流しながらこの日は早々に床についた。

 そうしたら翌土曜の朝の発熱よ。口の中は腫れて痛いし、舌をそっと動かしてみると頰の裏側に大きな水ぶくれのようなものがある。もうやだ。この日は午後に消毒の予定があったので、ブルーな気持ちを引きずって診察を受けた。
 普段、薀蓄を朗々と述べる医師も、沈んだ私を見たらさすがに心が痛んだらしい。目に輝きがないね、と言われる。むりです。いたいもん。水でさえすごく滲みるのがつらい。医師は解せない顔をして、滲みるってことはないんだけどなあと首をひねった。
 とはいえ、私にとってはとても起こるとは信じられないほどの土木工事でも、歯科医師にとっては特段難しい処置ではなかったということ、現段階で細菌感染はありえないということを説明されてすこし気が楽になる。診察後、おそらく5ミリほど大きく口が開くようになった。過去に私は、精神的なものがよく身体に現れていたことを思い出した。

 思えば、歯のことなど何も知らなかったのだ。歯がどういった構造で生えているのか、生きている歯を強引に抜いてしまったら、どのような経緯をたどるのか。
 今かかっている歯科医師は、抜歯後の歯茎に空いた穴がどう回復するのかを図説を交えて説明してくれるタイプだ。疑問に思ったことにきちんと答えてくれる。だから信頼しているし、その医師が10~15年後に絶対苦労すると言うから、今回も親知らずを抜いた。
 それでも、やってみないとわからないことが多すぎた。見通しが立たないと不安になる。健康と病気は、生死に直結するからだ。不安になれば、中途半端に聞きかじった話が私を疑心暗鬼にさせる。歯の細菌が脳にまわっていたらどうしよう、とかね。医師は懇切丁寧に私の不安を払拭してくれたけども。
 健康か病気か、自力で予測ができない状態は困る。だからといって、たとえばここで医学的な学習を始めたとしても、結局、いつまでも不安状態は解消されない気もする。知らないことが膨大すぎる。

 10年前にハーバードのエクステンションでPhysiology and anatomyのクラスを聴講した。土曜の夜、そのときに購入した解剖図説を引っ張り出してみた。
 歯は顎の骨から直接生えているものだ。下の歯の場合、歯の根本は歯肉の上皮組織が覆い、それは頰から歯茎を経て舌の付け根まで一枚状となっている。上皮はepithelium。そうだそうだ、そういう単語があったと思い出す。画像と舌の触感から湧く立体イメージが重なりそうになり、なんとなく落ち着いてくる。しかしまだ鎮痛剤は飲んでいる。

 今日で処置から4日が過ぎた。顎に響く鈍痛は消えたものの、口はまだ満足に開かない。顎関節一体が痛い。処置部分が引きつって痛みがあるのか、関節そのものに整形外科的ななにかが影響しているのかはわからない。
 とりあえずドーナツさえも厚みがネックで、せっかくのピエール・エルメ監修ミスドのキャラメルソースショコラを半分に分解して口に運ぶことになった。MUJIのブールドネージュも直径が大きすぎて、齧りながら食べざるを得ない。しかもクラッシュアーモンドが触れると刺激がある。入れ歯の苦労に似ている。やはり歯は健康でありたいなとつくづく思う。

 右側、抜く必要あるんかな。

9.1.20

あけた / テルアビブ・オン・ファイア

今週から平日が始まって、なんのかんので予定があって困る。小学校へ行ってみたり、幼稚園に行ってみたり、来週の保護者会のための書類を作って…まだ着手してない、今週末は園の行事だ。

今週封切りの映画を二本楽しみにしていたのではよ行きたい。行けるときがあるとでも? 諸々がんばりたい。
去年から中東映画と韓国映画が面白いので、そろそろアラビア語とハングルを学ぶべきではないのかと考え始めている。映像に映り込む新聞の見出しとか、登場人物が着替えたシャツのロゴとか、読み取りたいんだよ。そういうところに大切な情報が隠れているかもしれないじゃん。

先日、「テルアビブ・オン・ファイア」を見た。
テルアビブ(イスラエル)のパレスチナ系のドラマ制作スタジオを舞台にした、パレスチナ系イスラエル人脚本家とユダヤ系イスラエル人エルサレム検問所主任とのおかしな交流を描いたコメディ映画。「テルアビブ・オン・ファイア」は劇中劇のタイトルで、第三次中東戦争の直前に、アラブ系のスパイがユダヤ系の将校に取り入ってどうにかしようとする愛憎劇なんだけど、主任が口出しした脚本が思いの外ヒットして、脚本家は彼のところへ通いはじめる。そしたら主任はスパイと将校を結婚させろと言い出して…と始まる話。

劇中劇の民族対立は決して過去の話ではない。このドラマ制作会社においても、中東戦争にどっぷりつかった上の世代は、スパイと将校が結婚するなんて絶対ありえないと抗議する。スポンサーが手を引くことを恐れ、自分たちの信念としても考えられない。
でも主人公たちの世代はもっと柔軟なんだよね。主任は脚本にアドバイスをする対価として、アラブのフムスを要求する。イスラエルも食べるはずなのに、わざわざ「アラブのフムスがうまい」と発言する。それに、検閲官をやめたくてしかたない。
そもそも主人公の脚本家だって、主任をユダヤ系と知っていてアドバイスを乞う。そこに憎しみのようなものはない。
そうして劇中劇のラストはあっと驚く別の結末を迎え、新しい世代で次シーズンの制作にとりかかる。ほわっと温かい気分になるラストだ。
ただ、この結末には、映画のように登場人物がみな裕福な暮らしをしていることが必要不可欠だとも思った。主人公がパレスチナ系イスラエル人なのがミソなんだと思う。パレスチナ難民ではない。だからこそ実現した世界ではなかったかなあと考える。
しかし、劇中劇の結末部分の衝撃よ。劇場内が驚きと笑いでざわざわしたし、私も変な声が出た。