28.2.19

ねほぱほ無戸籍の人の回


【ねほりんぱほりん】壮絶 戸籍のない人生(NHKどーがれーじ)
これね。ようやく見たんだけど、すごいもやもやしているのでその気持ちを残しておく。

二人のゲストのうち、片方は出生届を出せる状態ですらなかったけど、もう一人の方は嫡出推定との兼ね合いで届出られなかったパターン。後者は今では社会問題化したので、行政も対応している(「民法772条(嫡出推定制度)及び無戸籍児を戸籍に記載するための手続等について」法務省ウェブサイト)。自治体によっては学校にも行けるようだ。

で、その後者の話。
夫の著しい暴力から逃げたために離婚ができない(離婚手続きのためとはいえ夫に再会したら殺されると思っている)
→新しい夫と出会って子を成した
→前の夫との婚姻継続中なので、生まれた子はその人の嫡出子と推定される
→そんなの嫌だから出生届を出さない
→戸籍ができないからその子は社会的には存在しないも同じ
という流れ。新しい夫とは事実婚の状態。

番組の中で、子は無戸籍であることを隠されていて、望んだ通学もできなかったし、三十年家の中だけで過ごしたのだと説明していた。親を恨んで反抗して心も病んだ。でも、自分と同じように無戸籍状態の人がいるのだと報道で知って、支援団体を通じて母親の離婚を成立させ、自分の戸籍を復帰させたそうだ。復帰でもないのか。
彼女がいうには、もう親のことは恨んでない、病んでた時も見捨てられなかったし支えてくれた、親は親だし、やっと名実ともに家族になれたから今度は私が社会に出て支えていきたい、んだそうだ。

あなたは、もう親の事情は考えなくていい、あなただけの選択肢を選んでいいんだよって、ものすごく訴えたかった。
だって親にも事情があったとはいえ、自分の人生半分くらい捨てさせられてんだよ。病むなんて当たり前じゃん。そりゃ、30年前はまだ、こういうケースに行政を絡めても円満解決は難しかっただろうし、前の夫に実力行使に出られたらそれこそ命に関わるし、わかるけど。彼女も30歳を越えて親の事情を理解できるほどに成熟して、自分の戸籍を得てとりあえずは満たされているのもわかるけど。
見捨てなかったのは、果たされるべき親の責任だ。それについて子が感謝こそすれ、代わりに自分の人生を差し出す必要はまったくないと思っている。そしてそんなのは理想論だと重々わかっている。 その上でそう訴えたいの。

自由になったようでいて、全然自由じゃない。しかもそのことには渦中にいたらきっと気づけない。私が彼女だったとしても難しいと思う。人はこれまで経験してきた環境の範囲でしかものを考えることはできない。
そんなことが見えてくる気がして、歯がゆい。

ちなみにもう一人のゲストは実の母も育ての母ももう他界し、身寄りはないと話していた。彼は出生届が出されておらず、出生証明書も現存しない。そのために日本人であることの証明すらできない。結果として、戸籍をつくるのにとても難儀しているらしい。それでも支援団体の力を得て住民登録はでき、今では住所もあるし就職もできたし携帯電話だって自分の名義で持てた。これから生活実績を積んで、それが直接役に立つかどうかはわからないが、いつか戸籍の登録までできたらいいなと願う。

26.2.19

映画いろいろ2

2018年の終わり頃は韓国映画づいていた。韓国映画はとてもよいんだけど、人名が覚えきれなくていつも困ってる。幸い、顔が判別しやすいのでまだ今のところは大丈夫だけども。
  1. 1987、ある闘いの真実
  2. タクシー運転手 約束は海を越えて
  3. 名もなき野良犬の輪舞
  4. jam
  5. 映画 刀剣乱舞
  6. ナチス第三の男

韓国の現代史などもうほぼ全部忘れている。でも「1987、ある闘いの真実」はこの年代の社会の様子を登場人物のセリフでも説明してくれるので助かった。
この年、韓国は盧武鉉が民主化を宣言した。でもそうなると反動が起こるので、特に北朝鮮の工作も激化していたんだろうな。大韓航空機爆破事件が起きている。同年、ゴルバチョフとレーガンがINF全廃条約を締結しているけども、朝鮮半島は変わらずきな臭いままだったんだろう。
映画は同年明けてすぐの頃、全斗煥(軍事クーデターで大統領になった人)に対して民主化運動の機運が高まっていた頃の話。韓国の情報部や私服軍人が、潜んでいる共産党員を端からひっ捕まえて拷問などにかけ、とにかく「アカ」を駆逐するのに必死。そこに大学生を中心にした民主化運動が混ざってくるのでもう大変。その中で、とある大学生が拷問の末死亡した。情報部は秘匿しようとしたけれども、とある検察官がそれを阻んでいく。
でもこの構図は前半までで、後半はその隠された真実を、善意の細い糸をたどって世間に公表される、というところまで展開する。
硬い話かと思えばそうでもない。情報部司令官と検察官が路地裏で直接対峙するところなんて現実にはまずありえないファンタジーだけど、すごくかっこいい場面だった。思わず検察官の役者を確認してしまった。
とにかく登場人物が多いこと、要素がたくさんあること、当時の映像をそのまま使っているのと、それを現代のVFXを駆使して再現している本物のような画面。映画ってこういうの! と見せつけられている感じ。韓国映画の熱量はものすごい。踏ん張ってないと倒れる。


で、この映画の前日譚を描いたのが「タクシー運転手 約束は海を越えて」 、光州事件の話。大学生を中心とする民主化運動が起きたので、全斗煥政権は村を完全封鎖して住民を浄化しようとしていた。その噂を聞きつけたとある外国員特派員が現地に潜り込みたいとやってきたのを、ソウルで適当に暮らしているタクシー運転手の主人公が提示された金額に目がくらんで事情も知らずに請け負う。
この映画、冒頭はものすごーくお気楽な人情ものみたいな入り方をしている。中盤からどかんと落としてくるんだけど、そのギャップ! ひどい! 2018年冒頭詐欺映画大賞を差し上げたい。
このタクシー運転手が情けない男で、酒浸りになって妻に逃げられ、幼い一人娘がいるんだけど満足に育ててあげられてない。愛情はあるけどカネがない。タクシー運転手の稼ぎではまだまだ…という感じ。これが光州に入ってあれよあれよと巻き込まれて、だんだん父親、というか一人の大人の男性、に変わっていくのがいい。
こちらは過去の映像は使っていないものの、シリアスな画面は照度をぐっと落としていて思わず眼を閉じてしまうほどの恐ろしさがあった。
この映画はいっちばん最後にそれ持ってくるの!? というエピソードがあって、泣いた。ほんと落差がひどい映画だった。ひどすぎて最高。


上述の二作とは全然毛色の違う、韓国の任侠もの、ノワール映画。フラッシュバックでヒントを散りばめながら構成されていて集中力が必要な映画ではあるけど、そういう頭の疲れ方はむしろ気持ちがいい。
おっさんと青年の交流話(すごい語弊があるな)。師弟関係に目覚めそうだった。
話の肝は潜入捜査なんだけど、緩急がすごくて、ラストショットまでずっと気を張り詰めて見てしまった。余韻もすごい。青年は終劇後、死んでしまうかもしれないとずっと思っている。韓国エンタテイメントすごい。


出演俳優の舞台挨拶のために見に行った。「名もなき野良犬の輪舞」を見た直後だったので、暴力的世界観が重なって印象が薄れるのはどうしても仕方ない。
物語中に出てくるストーカーめいた女性が素晴らしかった。彼女の言動や思考回路だけでなく、台所に立ちながら片足の指先でもう片方の足首を掻く仕草や、年甲斐のない服装、そこに顕れるだらしなく緩んだ体つき、もう全部が全部完璧に仕上がっていたのが今も頭から離れない。見た目も中身も一部の隙もなくキャラクターを体現していて、俳優ってこういうことかと震えた。


来年の秋の刀の展覧会に向けてゲーム刀剣乱舞を始めて、ミュージカルを追った特集番組を見て、ついでだから映画も、となって行ってきた。漫画の実写化はコスプレになるという批判も多くてどうなることやらと思っていた。でもそれほど違和感はなかった。特撮番組を見ているので多少は目が慣れているというのはある。それを置いても、主人公の三日月宗近は完璧にキャラクターの顕現だった。そういう点では、上記「jam」の女優さんと同じかもしれない。キャラクターによってはウイッグの髪の流れがどうにも不自然なのが気になったりもしたけど、難しいことだね。
歴史の謎を話の主軸に持ってきつつ迫力のある殺陣を交えて時代劇を成立させ、クライマックスでの新戦士の投入、ラスボス戦、という流れるようなバトルものの展開は、こういうのに慣れ親しんでいると見ていて自然と盛り上がる。特にラスボス戦は、攻撃の順番や画面の切り替えの速さ、効果音など、ゲームそのものだった。レンタルになったらまた見よう。


 前半と後半で全然ちがう話が始まったぞおい! と内心ツッコんで見た。同じ題材の映画「ハイドリヒを撃て!」は2016年にやってるのよね。これは原作小説「HHhH プラハ、1942年」があるので、多少は異なるのかもしれないけど。
なんにせよ戦争はいかん。



韓国映画はいくつか気になるのが残っている。「いつか家族に」、「共犯者たち」、「スパイネーション/自白」。うしろ二つはそれぞれ二日間限定上映なので、時間が合うかどうかわからないが挑戦したい。あとはイギリスの荒涼とした風景が見たい「ゴッズ・オウン・カントリー」と5月公開予定「RBG」。その他、オスカー受賞作はレンタルでいいかな。
「RBG」とか先日のポストの「愛と法」とかもそうだけど、この公開で見逃すとおそらく配信はなく円盤化すら…という映画が結構あるものだ。そういうのは見るのにエネルギーもいるので、映画館で見られたら万々歳ではある。

23.2.19

四分の三

インフル二巡目?! ではなかったものの、私を除く家族全員が伏せってしまった。子供たちは発熱。先日から片方がひどく咳き込み始めて、花粉症で後鼻漏的なことかなと思っていたのだけど、高熱じゃなあ。花粉じゃなかったのかー。

私も若干喉が痛いようなそうでもないような。自覚したら負け。

22.2.19

映画いくつか

年末から映画をいくつか見ては,すごく穿たれつつも消化しきれずにずっとお腹の中にため込んでいた気がする。


1 教誨師

昨年逝去した大杉漣がプロデューサーと主演を務めた映画。
教誨師とは,受刑者の心と向き合う人のことで宗教系の人が多いのかな。大杉漣がプロテスタントの死刑囚専門教誨師・佐伯となって, 何人もの死刑囚と対話を始める…という話。
順繰りに死刑囚が登場して,何周も重ねる会話の中でそれぞれの罪状や人となりが少しずつ明らかになっていきながら,同時に佐伯自身の事情も見えてくる。
罪の意識の軽重は人それぞれ。十分に反省していて実は不十分な裁判を経てここにきてしまったのではないかと疑いすら生じさせる人,そもそも現状の認識がずれている人,大事件を確信犯的起こしたのだと自分に言い聞かせている人…とまあいろいろ出てくる中で,最も大きな罪を犯したであろう若者に焦点をあててくる。この若者のお芝居が迫真的で,彼の山場はいつまでも頭から離れない。
死刑を言い渡されるということは,しでかしたことが相当ひどくて,裁判というプロセスにおいてもきちんと証拠調べがなされて間違いなくこの人が犯人だと確信がもたれているものと聞く。まして執行されるとすれば,再審にもかからず,十分に判決の確かさが関係者で共有されているものだろう。
死刑囚は,普通に生きている私たちからすればあちらの世界の人だ。
しかし,佐伯とともに彼らの話を聞くにつけ,彼らと私たちは壁一枚程度しか隔てていないものかもしれない,とも思う。同じ世界に住む人間には違いない。
でもやっぱり,普通はその壁は乗り越えない。他人を殺すなんてことはしない。
死刑囚の人々の境遇を聞きながら同情しそうになりつつも,それでも彼らの犯してしまった罪はなかったことにはできない。その手段をとらずにいられるためにはどうしたらよかったのか,ということを考えたくなる。けれどもそこで一番大きな制動をかけてくるのが,佐伯の過去だった。
この映画のことを思い出すと,何重にも思考が回り始める。簡素なつくりの非常に低予算な映画だけれども,いつまでも私の中に残っている。
こういう映画をつくろうとした大杉漣をなくしたのが本当に惜しい。


 2 愛と法

「弁護士夫夫」としてゲイカップルであることをカミングアウトしている弁護士を中心としたドキュメンタリーフィルム。国内よりも国外を意識しているのか,全編英語字幕付き。
社会的に少数派に属する人たちの問題に取り組む弁護士的側面から問題を拾い上げていくので,話題は彼ら自身のLGBT的な物語に限らない。ろくでなし子さん事件,無戸籍問題,シングルマザー,施設から出ざるを得なかった後見中の子。自分らしく生きていたいと思っても,それを実現するにはなんと障害の多いことか。やるせなくなる。
無戸籍については少しずつ復籍が進んでいるようで,そういった制度的な側面は少しずつ進展しているように思う。
だけれども,社会,他人,私たちが勝手に「世間」と呼んでいる目につきやすい意見は,まだまだ冷たいことが多い気がする。そりゃあ優しい人だっているけれども,たとえば8人に受け入れられたとして,残り2人に殺される勢いで否定されたらきっとダメージは受ける。そんな2人に出会う確率が,きっと彼らは平均よりも多い。
夫夫のうち,カズさんのお母さんは二人の関係を比較的すんなりと受け入れていたそうだ。パートナーのフミさんが後見人となっていた少年が施設にいられなくなり,一時的に二人の家に身を寄せた。この少年が二人のパートナーシップを自然にあるものとして受け入れる姿勢,カズさんのお母さんが家族という関係を広く捉えていることがこの映画全体の中でものすごく救いになる。カズさんの家族が映った集合写真の笑顔はとても美しかった。そしてこの少年は独立していく。
この映画の中でろくでなし子さんの作品を初めて見たのだけど,ものすごくアートだと思った。彼女は女性器を型取りしてオブジェにしている。その中でも,原発からの汚染水があふれ出る様子を表現したものにはとても目が引かれた。とても可愛らしいのよ。でもそこには現実を風刺する鋭い批判眼があった。


3 女王陛下のお気に入り(The Favourite)※ねたばれします

ユナイテッド・シネマの500円会員になると,毎週金曜は1000円で映画が見られる。そもそも毎週水曜はレディスデーなのでどこの映画館でも1100円になるが,水曜は都合が合わないことが多い。最近,近所に映画館が開いたので非常に助かる。全国規模の映画ならここで済む。
まあ依然として,上記12のようなのは街中まで行かねばいかんけれども。そこはそこで,朝8,9時台に上映開始の映画が1100円になるのですごい助かるのよねえ。ありがたい。そこはたいがい上映期間短いけど。2も最終日にやっと行けたんだよなあ。

それはともかく,ステュアート朝最後のアン女王の物語ということは,18世紀イギリス! 名誉革命で戴冠したオラニエ公ウィレムの次のクイーン! めっちゃ見たい! ということで行ってきた。
お転婆な娘が侍女に配置されて,偏屈女王様が心を開いていくハートフルストーリーと美しいイギリスの風景を眺めながら近代の幕が上がる…と勝手に想像していたら,とんでもない。そんな話はどこにもなかった。
イギリスの大奥だよこれ。ドラマの大奥は見てないけども。

時代考証は多分ものすごくやっている。厨房の仕事の様子,騎兵,馬車,パレスのインテリアなどなど,もう本当に豪華。眼福。お貴族さまたちもしょっちゅうくだらないあそびに興じている。もちろん,出てくる人たちはだいたい議員でもあるから,中には国のことを考えている人もいる,のか? いやないな。貴族は貴族で自分の領地のことを第一に考えているだろうし,女王陛下の味方をする人は,多分,女王という人,王制という制度に組しているのであって,広く国全体とは思っていない。おそらくこの時代はイギリスという国=クイーンだったろうから。
またお屋敷の庭,というか森がきれいでねえ。撮影は秋ごろだったのかな,ふかふかに積もった枯れ葉とか,ぼさぼさのびている広葉樹の落葉した枝とか,にもかかわらず乾燥している感じ。ほんといいわ。あーこれイギリスの森だって思った。映像は超絶きれいだった。眼は本当に楽しめた。

アン王女には古くからの友人のサラが第一側近みたいな感じで常についていて,また彼女はとある貴族の奥さんでもある。レディなの。だからその従妹のアビゲイルも貴族に連なる身分なのだけど,家が没落してしまい,なんとかサラの伝手でクイーンのお屋敷で働けないかとやってくる。というところから始まる物語。
いやこれが,百合・NTRになるとは本当に全然予想もしなくてねえ。事前にあらすじとか読まなかったからびっくりした。
冒頭から,サラは糖尿病を患う女王の手足,時には代わりに政治を動かし,超絶優秀で遠慮がない冷たい人,アビゲイルは頭の切れる親切な美しい娘,というように描かれていく。
けれども,実はアビゲイルは家の没落によって一度は娼館にまで身を落としたこともある。だからものすごく上昇志向が強い。
一方でサラは本心からアンに尽くしていた。国のことも考えている…のだけどこの人は自分の夫を戦争に出していて,そこはどうしたって守りたいんだよね。だから一度の勝利を収めても,講和に傾くことなく対仏戦争を継続することを要請する。自分の領地への重税を回避したい若い貴族議員がずっと講和を訴えているのだけど,サラは受け入れない。
アビゲイルはこれを好機ととらえてサラを貶めようとする…。

百合だけど全然甘くない。むしろ女王をめぐっての三角関係で,女同士の醜いばちばちがもうほんとにひやひやするし,あるあるって感じ。しかも輪をかけて悪いのは,女王様はこの状況を喜んでいる節があるの。サラとしてはたまらないよね。群像劇のはずが,いつの間にかサラにめちゃくちゃ感情移入してしまった。

女王役のオリヴィア・コールマンはおそらく糖尿病,かなり進行の進んでいる肥満体,をよく表していたと思う。まあでも女王は病むよ。こんな来歴があって,こんな環境じゃあなあ。アン女王は史実通りに描かれていたから。

イギリスという国全体の,特に名誉革命の後で王政は残ったものの,議会がだんだんと力を持ち,それまでの支配階級は少しずつ衰えていく時代だ。ささやかではあるけれども確実に,彼らの中には閉塞感が高まっていくのだろうと思われる。そのぐったりとした空気感がラストカットで表現されているのだろうな。いやー非常にいいね。この厭世的なエンド。くらーく終わって最高でした。
あと,イギリス人のむず痒い会話の応酬,めっちゃいいね。回りくどいと思えば突然すぱっと切り込んでくる感じ。冒頭のアンとサラのやりとりは軽妙で機知に富んでいて,とても賢いやりとりだった。ああいうの見るのすごい好き。
それからサラ役のレイチェル・ワイズはとても美しかった。私の好きな顔。

21.2.19

また飛んだ

今日は事前に出席確認のあったイベントの日だったのに、完全に頭から飛んでいた。キャンセルさせてもらったけど、もう自分が嫌になる。誰かに迷惑かけるのほんとさあ。
一昨日の衝撃を引きずってて、そこから逃げるように本を読みながら現実も捨てていたみたいだ。そう、それに加えて急激に花粉症の悪化した長男を通院させるのに、二人の習い事との時間のやりくりに朝から悩んでて、目を開けたくなかったのだった。
生活の仕方を見直そう。だめだこのままじゃ。現実に生きなくては。

19.2.19

穴を掘って隠れたい

一年ほど前にちょっとしたお話を書き始めた。それをネット上に公開して,同好の人たちとささやかな交流をしている。

今日は雨の中,太宰府天満宮まで「応天の門」展を見に行った。
これは今連載中の漫画だ。天才菅原道真(18)と在原業平がバディとなったサスペンス物語…と思って読み始めたら,業平周りの大内裏の権力闘争は始まるし,そこに道真は否応なく巻き込まれていくし,すごいぎらぎらとした物語だった。一方で,道真は自分の才が机上の学問でしかないことを折に触れて体験して,少しずつ現実にすり合わせていく知恵をつけていく,という眩しい若者の成長譚も並行して語られる。めっちゃくちゃ面白い。
作画も大変美しい。芸術方面はよくわからないけど,この作者の人はきっと特別な教育を受けている人なんだろうと思わせられる線,そして色彩。うっとりしてしまう。
それが,この展覧会では生原稿が飾られているということで,夢中になって眺めてきた。
プロット,ネーム,ペン入れ原稿,水彩の施されたアナログのカラー原稿。絵の力を感じたなあ。本当に感動した。

私は芸術,ことに絵画を見る目はない。美術館など大人になるまで遠い場所だと思っていた。それから初心者向け芸術鑑賞の本などを読んだりして全くのゼロではない状態になったものの(とは言え,限りなくゼロのままだけど),今度は絵を読もうとしてしまうようになった。
同じ絵であっても,漫画は違う。小さなころから身近にあった。今はストーリーを捉えながら絵を追うこともできるようになったが,基本的には本から与えられた画面,絵をそのままに見ていいなあと素直に感じることが比較的できていると思う。
漫画は一コマのその絵だけで意味を持つことはあるけど,ストーリーや台詞と絵が混然一体となって大きな流れをつくるものだ。なので,絵画と違って自分から本へ向けた圧力を分散することができるのだろうな。

飾られていたカラー原稿の水彩画が本当に美しくて,私もこういうのを表現したいなと思った。絵は描けないので文字で。本音は絵を描いてみたいけど,コピーを作っても仕方がない。自分だけのやり方で,となると文字となる。

さて,帰宅後にネットをつらつら眺めていたら,前にブックマークしておいた小説の読み方指南の記事が更新されていた。テーマは「小説を書かれたとおりに読む方法」,次のリンク先だ。水城正太郎の道楽生活 小説の読み そのに
書かれていないことを勝手に補完しないで,字義通りに読んでいくことを説明されていた。
鼻っぱしを殴られた気分になった。
記事はとある小説の冒頭を例示して具体的に示していた。字義どおりに読んでいくからこそ,作者が仕掛けたトリック,語り手の認識のずれが見える。
そのためにこの物語がリアリティのあるものなのか,それとも寓話的なものなのか,ファンタジーなのか,ということまで見せているのだと思う。記事の筆者はそこまでは言及していなかったけれども。
私はそこまで自覚的に読んではいなかった。わかっていたつもりで全然わかっていなかった。

しかも「字義通りに文章を読む」というのは,私の英語添削バイトの方でわりあいよく伝えていることだ。わかっていないのに偉そうに。でも,その部分はまだいい。

文章で虚構を書く,つまり小説を書く,とは文字という手段でしかできない芸術表現だ。その手法の一つが上記のようなものになるだろう。私が今日の展覧会で見た絵,それを文字で示したい。それだって一つの表現ではある。でも小説ではない。以前,某サイトの添削スレで「思い描いた映像をそのまま文章に落としても小説にはならない」と言われたことがある。当時はこの意味もよくわからなかったのだけど,一年以上たった今になってようやくつながった。
字義通りに読んで、それでもひっかかって、次へと頁をめくらせる。そこに描写や修辞法を駆使していく。そうして全体で伝えたいテーマをストーリーに載せて届ける。そういった読み方に耐えうるものこそ小説だ。
今の時点で、私が思う「小説」とはそういうものだ。

と同時に,最近,自分の書いたものに対して好意的な感触を受けて天狗になっていたことに気付いて,自分がものすごく恥ずかしいと思った。上の定義に照らせば、本当に文の羅列でしかなかった。いや、もともと小説には至っていないと思っていたけれども、これほどまでに乖離があるとは思わなかった。なんという傲慢だったのだろう。

私は今、小説を書きたいと思っている。

それにしてもこの年になってこういう羞恥心を感じるとはつゆにも思わなかった。
しばらく勉強します。どこから手を付ければいいんだろう。小説だってそれほど読んできちゃいないのだ。とりあえず図書館などで手がかりを探してみる。

5.2.19

その時が来るのは,わりともうすぐなのかもしれない

 先日,次男の幼稚園の音楽発表会があった。年中になって多くの子が4月からカリキュラム内で習い始めた鍵盤ハーモニカを吹く中,子は鉄琴を担当した。彼はこの春からピアノを習っているからか,違う役を振られたようだ。
 しかし約一か月の集中練習の中でインフルエンザで数日欠席したり,そもそも彼自身,自分のことを家で話さないタイプで,一体何をしているのか全然知らなかった。

 私は親の係として前日のリハーサルから詰めていたのだが,いやもうびっくりした。
 先生もよくこんな楽譜選んだなと思ったのだけど,鉄琴がソロでサビの主旋律奏でてるぞ! しかもノーミスでこなした。うそでしょ。思わず口からこぼれたよ。
 翌日の本番は満席の熱気あふれる会場に当てられたのか,全体的に演奏が走り気味になって,子もそれに違わず戸惑っていた部分もあったようだった。何か所か間違えたり,危うくなって伴奏の先生のピアノにフォローされたりしていた。それでも十分こなしたと思う。あとから何人かの大人にありがたくももったいないお褒めの言葉をちょうだいした。それを伝えるたびに彼は恥ずかしがって顔をしかめた。

 長男は昨年,年長組で鉄琴を担当した。また,習い事としてピアノを始めてもう四年目になる。
 次男にとって長男は神様のような部分もあり,彼が園で行ったことには憧れがあるようだった。だから今回も夢中になって取り組んだのだと思う。次男はピアノの練習もそっちのけで,この課題曲を繰り返し奏でていた。
 兄弟でも全然性格が異なっていて,長男はこつこつ努力ができるタイプだが,次男はちょっと注意されるとすぐにあきらめる節がある。長男ほど物事に没入もしない。だから伸びしろはあるかもしれないが,それを活かせないのがもったいないと思っていた。
 でも彼なりに園で練習を重ねるうちに,褒められ,励まされて成功体験を重ねて,さらに努力することができたのだろう。
 私の見ていないところですべては行われ,結果だけが呈示された。

 私がこれまで自分の頭にため込んできた役に立つのか立たないのかわからない大量の雑学は,今のところ子供にささげることしかできないと思っている。私が興味をもって何かをしている姿勢を見せて彼らの刺激になればいいし,何か困ったときに手助けできることもあるかもしれない。
 だからときどきアドバイス,あるいはクソバイスをして,わざと悪い言い方をすれば誘導もしてきた。例えば彼らの習い事は,私がやらせたものがほとんどだ。
 でも,そういった小細工がいつまで彼らに受けいれられるのかはわからない。

 長男は昨年秋に初めてピアノの発表会に出た。そのあとには,もう私が彼に何かできることはほとんどないのではと思った。
 次男もきっとすぐに,私の手を離れていくのだろう。

 この時が来るのをずっと待っていた。
 子どもたちが自立し始め,私が自分のことだけ考える割合を増やしていけるときを待っていたんだよ。
 けれどいざそれが眼前に呈示されると,もう少しだけ現状にしがみついていたいと思ってしまうのだ。