5.2.19

その時が来るのは,わりともうすぐなのかもしれない

 先日,次男の幼稚園の音楽発表会があった。年中になって多くの子が4月からカリキュラム内で習い始めた鍵盤ハーモニカを吹く中,子は鉄琴を担当した。彼はこの春からピアノを習っているからか,違う役を振られたようだ。
 しかし約一か月の集中練習の中でインフルエンザで数日欠席したり,そもそも彼自身,自分のことを家で話さないタイプで,一体何をしているのか全然知らなかった。

 私は親の係として前日のリハーサルから詰めていたのだが,いやもうびっくりした。
 先生もよくこんな楽譜選んだなと思ったのだけど,鉄琴がソロでサビの主旋律奏でてるぞ! しかもノーミスでこなした。うそでしょ。思わず口からこぼれたよ。
 翌日の本番は満席の熱気あふれる会場に当てられたのか,全体的に演奏が走り気味になって,子もそれに違わず戸惑っていた部分もあったようだった。何か所か間違えたり,危うくなって伴奏の先生のピアノにフォローされたりしていた。それでも十分こなしたと思う。あとから何人かの大人にありがたくももったいないお褒めの言葉をちょうだいした。それを伝えるたびに彼は恥ずかしがって顔をしかめた。

 長男は昨年,年長組で鉄琴を担当した。また,習い事としてピアノを始めてもう四年目になる。
 次男にとって長男は神様のような部分もあり,彼が園で行ったことには憧れがあるようだった。だから今回も夢中になって取り組んだのだと思う。次男はピアノの練習もそっちのけで,この課題曲を繰り返し奏でていた。
 兄弟でも全然性格が異なっていて,長男はこつこつ努力ができるタイプだが,次男はちょっと注意されるとすぐにあきらめる節がある。長男ほど物事に没入もしない。だから伸びしろはあるかもしれないが,それを活かせないのがもったいないと思っていた。
 でも彼なりに園で練習を重ねるうちに,褒められ,励まされて成功体験を重ねて,さらに努力することができたのだろう。
 私の見ていないところですべては行われ,結果だけが呈示された。

 私がこれまで自分の頭にため込んできた役に立つのか立たないのかわからない大量の雑学は,今のところ子供にささげることしかできないと思っている。私が興味をもって何かをしている姿勢を見せて彼らの刺激になればいいし,何か困ったときに手助けできることもあるかもしれない。
 だからときどきアドバイス,あるいはクソバイスをして,わざと悪い言い方をすれば誘導もしてきた。例えば彼らの習い事は,私がやらせたものがほとんどだ。
 でも,そういった小細工がいつまで彼らに受けいれられるのかはわからない。

 長男は昨年秋に初めてピアノの発表会に出た。そのあとには,もう私が彼に何かできることはほとんどないのではと思った。
 次男もきっとすぐに,私の手を離れていくのだろう。

 この時が来るのをずっと待っていた。
 子どもたちが自立し始め,私が自分のことだけ考える割合を増やしていけるときを待っていたんだよ。
 けれどいざそれが眼前に呈示されると,もう少しだけ現状にしがみついていたいと思ってしまうのだ。

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