26.5.18

五月の九重高原

先週末は九重高原のあたりに行ってきた。新緑がきれいで癒される。主に眼が。
阿蘇から九重にかけての国立公園・国有林のあたりは全然開発されておらず,場所によっては低木と草原になっていて,見渡すかぎりのローリングヒルなのがたまらない。大地がなだらかにうねるのは,渓谷と並んでずっと眺めていたい景色の一つだ。



この辺の山の上に咲くミヤマキリシマも今が旬なので,ロープウェイで鶴見岳の山頂付近までワープする。石の敷かれた遊歩道をぐるぐると歩くと,ロープウェイ駅から山頂までの往復で約一時間ほどだ。子供たちは車に押し込まれた体を存分に開いて飛び回っていた。

ミヤマキリシマはつつじっぽい低木で,しかしながら高山植物らしく花びらも葉も小さく可憐だった。


いつか子供たちといっしょに山歩きしたいものだなあ。私自身,登山はやったことないけども。7歳児でも3時間半は登れるという話を先日聞いたのでがんばりたい。その前に自分が登れるかも怪しいが……。


まさか別府までまた車で来るとは思わなかった。片道2時間強,運転できるもんだな。

大分の竜門の滝。夏場は滝滑りができるらしい。
イサカのバターミルクフォールを思い出させる。









17.5.18

暑くて融けそう

30度ってこんなに暑かったっけ。外を歩いていて、浴室内を回遊しているような錯覚に陥った。

こんな季節になると、ありとあらゆる皿に薬味を一掴みぶちこみたくなる。

幸い、今は店先に新生姜が並んでいる。茗荷、大葉、分葱などとともに刻んで、さっと水にさらしてあくを抜き、タッパに入れたらキッチンペーパーで覆ってから蓋をする。そうしたら、ひっくり返してから冷蔵庫にしまうのだ。もちろん、使う時には天地返してから開ける。でなければ全部溢れる。

こうしておくと、抜けた水分はみんな吸収されるけど、蓋を開けるたびにペーパーを取り替えることでつねに余分な水分を取り除くことができる。

薬味は味噌汁椀に投入するもよし、納豆に山盛りのっけるもよし。

ついでに今は鰹が出てきたので、すし飯にこの薬味といりごまをたくさん混ぜ込み、皿によそって、揉み海苔を敷き、醤油、みりん、酒で漬けにした鰹を並べれば初夏のお手軽ちらし寿司である。
暑いからほの甘い酸味のあるすし飯がおいしいし、薬味の香り、ごまの弾ける食感、生姜の優しい刺激が鰹に合うんだな。

この場合、加える辛味はわさび一択だ。
鰹の刺身にはおろしにんにくとおろし生姜を混ぜて醤油に合わせるという、大変下品美味しい食べ方もアリだが、にんにくは薬味の爽やかさを全部踏み潰すからもったいない。

というのが今日の夕飯でした。おいしかったー。

11.5.18

創作物を楽しむために必要なこと

本でも映画でも絵画でも、作品それだけの範囲で理解して楽しめれば十分なのはわかっているけど、その作品や創作者の属する流れ(時代とか社会状況とか作者の個人的な事情とか)、言い換えればその作品を取り巻く文脈を知っていれば、もっと楽しいだろうし、そういうのまで理解したいものだなあと思った。
ありきたりなことだけど。

そういう姿勢を突き詰めていくと、例えば読書だとすると、文字そのものの意味ではなく、行間や背景の感情ばかりを探ってしまうし、その結果、書かれた内容からは的はずれな考えに陥ってしまう恐れも出てくる。私自身は。なので、きちんと踏みとどまらなければいけない一線はある。

ともあれ、昨日の投稿をごちゃごちゃ書いてる時に、父親がモンテーニュを引用する下りで強く思ったんだよね。
父子の会話の中でフランス語のフレーズが突然混在してきて、見ている立場では引っかかるんだけど、登場人物は当然の顔をして流している。彼らはフランス語も話すので混ざったのかもくらいの気持ちでいた。字幕版だったから、その部分の違いもせいぜいフォントがイタリックになっているくらいしかなかったし。
そしてあとから、あああれは何か名言を引いてるのかと思い至ったときに、調べるすべがない。いやま、今回はたまたま私が聞き取れるくらい超絶簡単なフランス語のフレーズだったからちょっとググればすぐ出てくるんだけど(それに幸い今回は、多分シェイクスピアくらいの名言だったから)、これがギリシア語だったら完全にスルーしてた。
劇の前半で主人公は読書が趣味だと見せて、中盤でガールフレンドが読書が趣味なんて暗そうで公表できないよ、と言っているし、母親が民俗話を読み聞かせる場面もあるので、古典からの引用が出てくる伏線はあるのだけど。伏線というほどでもないな。そういう設定がきちんと描かれていたってこと。
で、その引用の重力というか、当該エピソードにおける重さが全然わからなくて残念だなと思った。


 先日、更級日記を読み終えたんだけど、あれも様々なところから引用や仄めかし、借用があって、注釈を見れば理解はできるけど、その味わいまでには至らない。
更級日記の作者は物語に夢を見ているから、当然源氏物語や紫式部日記からの引用は多くあるし、他にも俊成とかからもなぞらえた表現がガンガン出てくる。
それに作者の菅原孝標女は父方を辿れば菅原道真に行きつくし、母方には蜻蛉日記の藤原道綱母が中の良い叔母として存在する。
だからこその表現になってくるのだけど、作者の家族構成なんて読書においては本当は知らなくてもいいことなんだよね。まあ更級日記はエッセイだから普通の小説とはジャンルが違うので、知っていてもいいけど。

そういう「創作者が受け手に期待する前提知識」は悉く持ってないな、と自分にがっかりしたということを記録しておこうと思ってこの日記を書いた。
こういうのが積み重なって教養になるんだろうな、と思った。

実に自分には教養がない。けど、そんな教養を問われるような作品こそ次も見たいとも思った。



「君の名前で僕を呼んで」にはヨーロッパ映画を下敷きにした表現なんかも多く散りばめられているらしい。全然わからん。しかも監督は美しい映像で有名な人だったんだって。過去作も見てみたい。若かりし頃のヒュー・グラント主演の「モーリス」は画像検索したらめちゃめちゃキレイでびっくりした。あとは「日の名残り」。これは原作も読みたいと思ってるんだけど、映画が先か、本が先か。
この監督、自宅のインテリアもとても素敵で、美への感覚がかなり鋭いのかなって感じ。


更級日記はおもしろかった。
中盤以降は、親に言われるままに出仕して、年頃になってまた親に引っ張られて結婚する。憧れた「浮舟の君」にはなれず、されど受領の娘にふさわしい受領の夫を得て、子供時代と変わらずそれほど苦しくもない生活をおくる中で、物語からも離れ、どうももだもだしている作者の心情がありありと浮かんでくる。この辺は「報われない」気持ちを「芹をつむ」という語を交えた歌で表現してる。
それから子供もできて、また再雇用されて現場復帰するんだけど、職場から離れていたからさほど経験があるとも言えず、かと言って年的にもう若手には混ざれないし、パートタイムだしと言い訳できるほどに本人もその仕事(出仕のことね)に生きがいを見いだせないでいる。現代と変わらないよね。
楽しみといえば、同僚のうち数人は話が合って文を交わせるような仲になれたこと、たった一度だけ(しか書かれないけど)、出仕先で同僚と歌比べをしたのをうまく両者引き分けにしてくれた源資通にちょっと心が動いたこと。このとき夫は単身赴任でいなかったんだよね。
そして夫は先に亡くなり、物語に没頭している時間にもっとお経を唱えておけばよかった(経文が当時の日々なすべき努めであり、学ぶべきことだったんだよね。子供の頃から物語ばっかり読んでないでおべんきょしなきゃ、と書いている)と何度も後悔している。子も甥姪もときどき訪ねてくれるけど、退職して同僚とも離れてしまった孤独感はどうにもできないよう。かつての友が筑前に下り、まるで恋文かというくらい千千に乱れた心境も残している。

途中から、古文を読んでるという意識は全くなくなった。作者の言いたいことが現代とそれほど変わらないんだもの。普通にエッセイを読んでる気分になって、気がついたら終わってた。まあそもそも、全体的に薄い本ではあるけれども。

以上のことは次の段に書いてある。
17(前に書いた「后の位も何にかはせむ」)
56(物語のようにはいかないなという諦観)
57(宮家に出仕するも居場所がない)
62(資通すごい)
72(友よ、その1)
73(友よその2、恋と読み取れるが友情だろうとの注がわざわざ書いてあった)

角川ソフィア文庫の原田文子編集のがすごいよかった。

10.5.18

映画見に行った「君の名前で僕を呼んで」

昨日、立てたフラグはへし折られることなく、無事に「君の名前で僕を呼んで(Call me by your name)」を見てこられた。映像が美しすぎてちょっと現実に帰ってこられない。以下、ネタバレ配慮なくまとめる。長い。

北イタリアの別荘で夏の休暇を過ごす主人公一家。1983年、考古学者の父のもとに、その年も若手研究員がやってきた。6週間の滞在中、父親について研究をするらしい。24歳のアメリカ人と主人公のひと夏の逢瀬を描いた作品。原作の小説あり。

別荘は古いが大きな邸宅で、母親が手をいれる果樹園があるほど広い庭園もある。石造りのプール付き。何かと木漏れ日の下にテーブルをセットし、昼から正餐をしていた。もちろんお手伝いの人もいる。街並みも石畳が町の広場まで続くようなところで、ヨーロッパ外の人が憧れる「ザ・ヨーロッパ」って感じ。映像が美しすぎてワンショットワンショットが絵画のよう。

主人公は17歳、同年代の友人たちも同じようにここへ夏の間だけ来ている様子。主人公はフランス人、家で雇われているのはイタリア人、そして今回やってきたアメリカ人、彼らに対し三種の言語を流暢に使い分ける。また、楽器の演奏も得意で、趣味は読書と編曲。ちょっと内気でインドアな内面を裏切らない外見は、まだ体格が出来上がっていないと思わせる筋肉の薄い細身の身体、栗色の巻き毛になんならそばかすもありそう。白磁のような肌に主張する眉と大きな瞳。
なんだこれ、マッチョ文化における理想の「はかなげでいて強さを秘めたヨーロッパ美少年」だろ。と言いたくなっちゃう。

そう、主人公もアメリカ人も男。主人公エリオはそんなわけで、オリバーのいかにもアメリカ人な無神経で勝手で、いつのまにか町の飲み屋で顔なじみを作っていたり、自分の友達にも気に入られちゃっているような、アウトゴーイングなところがちょっと気に食わない。食わなかったんだけど、あれこれあって近づいていく、という流れ。

17歳と24歳という設定が絶妙、というのが一番の感想だった。
17歳といえば身体機能は大人にかなり近づいているけれど、完成してはいない。性的衝動は進展していても、理性的に説明するすべがまだない。精神的な経験不足もある。心も身体もまだ成長の余地がある状態だ。劇中で何度か登場する、庭のアプリコットの甘酸っぱく、少しかたい果肉のイメージと重なる。
一方で、1983年の24歳はかなり成熟している。ただこの映画はほぼエリオの視点から描かれているものだと終劇後に思ったので、その分、実際のオリバーよりも大人びて描かれているのかもしれない。後半に出てくる桃(おそらくネクタリン)はアプリコットよりも酸味は控えめで果肉は柔らかく、果汁も多い。オリバーになぞらえているような場面で登場する。
エリオはアプリコットから桃への変化の入り口に立っているのかもしれない。

ストーリーに沿って思い出すと、エリオにはオリバーがいつの間にか気になってしまっている。ここの転機ははっきりとは描かれていないけれど、エリオとオリバーは同じくユダヤに繋がる血筋だぞ、とか、オリバーが思ったよりちゃんと研究者しているぞ、とか、エリオの女友達の一人の腰に手を回してキスするのを見たりしているうちに、 
I want you to know me.  あなたに僕を知ってほしい
と伝えてしまう。エリオが自覚した感情は「好き」という言葉で表されるものではなかった。けれど、オリバーに気持ちが向いていて、近づきたいという欲求という点では根本では同じ性質のものだろう。何度も繰り返す。自分に言い聞かせるように、自分の説明しようのない感情に輪郭を与えるように。そしてダメ押しの 
Because there is no one else I can say this to but you(この台詞はスクリプトを探して確認した)
唱えている内に感情が高まってきちゃったんだろうな。衝動的に口をついたという印象に17歳らしさ、未成熟さが見える気がする。
そうか、感情というより衝動といった方が近いのかも知れない。全身から出てくる性急な何か。気持ちなどと言葉で説明できるようなものではなく、もっと本能的なもの。
それに対してオリバーは「自分の言ってることわかってんのか? 買い物へ行く」と逃げる。ここがエリオとの対比になっていて、大人のずるさを感じる。オリバーへのもやもや感がここからだんだん増えていったな。

エリオは自分だけのお気に入りの川べりにオリバーを連れ出す。そこで二人は雰囲気にのまれて口づけを交わす。
つまるところオリバーが止めていたのは自分自身であり、初めからオリバーはエリオが気になっていたわけだ。ここのキスを仕掛けたのはオリバーなのがまた……もやもやする。
ただ、二人の性指向については触れられない。

エリオにはおそらく数年来の仲の良いガールフレンドがいて、この夏に友達以上の関係になるかもしれないという雰囲気の中にいる。帰宅以来、オリバーはエリオから距離を置こうとしていて、二人の仲がぎくしゃくしている。そんな中で先日のキスから性的な興味が強く生じている様子のエリオは、ガールフレンドと彼にとっても初めての性行為を果たす。
エリオにとって彼女は気心知れた友人で仲もいいんだけど、ここでの行為は興味本位というか、年齢相応の生理的衝動の強さを感じたなあ。そもそもエリオから彼女へのときめき的な描写はほとんどない。二度のセックスシーンも全然色気がなかった。 

で、不穏な空気のオリバーに、エリオから勇気を出して「仲直りしたい、沈黙は嫌だ」とのメモを渡すと、返答は「真夜中に会おう」だった。確信を得てからアプローチをしてくるオリバー、ひどいやつ! 
 それから、エリオは時計を見まくったり、カウチに昼寝しようと横になっても何度も寝返りを打って寝られなかったり、オリバーがエリオの父親と共にギリシア彫刻のスライドを確認しながら、男性像の上半身のしなやかさをうっとりと眺めていたりする。
見てるこっちにも彼らの緊張や昂りが伝わってくるわけですよ。
その後、夜中にバルコニーで会ってようやく言葉を交わせた二人は、どどどっと深い関係へとなだれ込んでいく。のだけど、こっちは彼女との関係に比較して、直接的なところはまったく映していないのにエロティックな映像になってた。

タイトルの回収はここ。後朝の歌ではないけど、翌朝目が覚めた二人が顔を寄せたところにオリバーがささやく。 
Call me by your name 
エリオに自分に向かって「エリオ」と呼びかけさせ、「オリバー」とエリオへ告げる。
エリオが「自分を知ってほしい」と言ったことの延長線上にこの行為があるんだろうなと思った。知ってほしいし、もちろん言うまでもないがあなたのことも知りたい。知ることは近寄ること。目いっぱい近寄って、相手との境界もなくしたい。あなたと自分を同一視してしまうくらいに。
となれば、肉体的にも繋がりたいとなって、きっちりやっちゃったのね。オリバー、鬼の所業だね。罪深い。

エリオにとって、生物として成長していくときにパートナーとなりえるのは女の子のガールフレンドだったけど、精神的にぐっと近寄れるような相手はオリバーだったということかな。この後、ダメ押しのようにエリオの自慰シーンがあるんだけど、普通に男の子だった。まあちょっと普通じゃないけど。桃つかってた。
余談で、エリオの役者のインスタグラムに梨の画像が掲載されて、そこにオリバーの役者が「桃から梨に浮気したの?」ってコメントしてるの。すごいよねえ。爆笑ですよ。

ちなみに字幕版で、「好き」だと言っているところはオリバーからの一言だけだったし、劇の終盤で彼女がエリオを訪ねてきて「私ってあなたの彼女?」と問う場面があるのだけど、周りの人達は恋愛の定番を理解していて言語化している。だけど、エリオとオリバーの関係、オリバーへに向けた感情についてはエリオの口からは言葉による説明はない。ここの対比もすごいと思うんだよね。
エリオは彼自身にとって消化しきれない、けれども深い関係を誰かと結ぶという稀有な体験の真っ只中にいて、当然のことながら初めての経験(出会い)でもあったってこと。エリオの知っていた恋愛とは違っていた、とはいいすぎかもしれないけど。
あとから振り返れば、あれは恋だったのかもなとぼんやり思い当たるという感じかな。やってることはやってるんだけど。その頃って心と身体が一体化しきれてないし、そのことに無自覚なように思うので。成熟してくると、自分の意志で分離しようと思えば可能なようになっていくと思うけども。

そうして気がつけばオリバーはそろそろ帰国する時期。両親は二人の仲を勘づいているけど、エリオに干渉することはなく、それどころかオリバーの大学見学旅行についていけと勧めてくれる。最後の数日、げらげら笑って過ごして、ミラノの空港行き電車に乗るオリバーと、エリオはほとんど言葉もなく抱擁しあってから見送り、二人は別れる。
このときのオリバーが車窓に肘をついて切なそうな横顔を見せるのに、くそアメリカ人め! とちょっと怒りにも似たものが湧いてきた。真夜中に会ってからのオリバーは率直にエリオを愛しがる。見返りを確保してから自分を見せるというやり方にちょっとした憤りを覚えるね。だからここで悲しい顔を見せるのに対して、見ているこっちは素直に残念だねと思えない。
それに17歳エリオはどうしたらいいかわからなくて呆然としてるのに。ずっと駅のホームのベンチから立ち上がれず、家に電話して母親に車で迎えに来てもらうんだけど、その車の中で子供みたいにひくひく泣くのよ。ちょっと収まってもまた泣けてきちゃってさ。お母さんは運転しながら、片手でひたすら頭をなでるんだけど、ここからもう親目線でしか見えなくなった。親に何もできることないよなあ。

そして帰宅後、父親がエリオを慰め、諭す。このシーンはちょっと説教臭いかなと思ったけど、でもこういう親になれたらなと思う場面だった。両親は、エリオとオリバーのことはわかっていて、例えば同性愛的なことは全然言及しない。それどころか、こんな密な関係性を築けることは幸運だという趣旨のことを言う。Parce-que cetait  lui ; parce-que cetait moi. (直訳すれば「それは君だったから、それは僕だったから」)とモンテーニュを引用して、エリオとオリバーはかつてモンテーニュがラ・ボエシと結んだ深い友情にも匹敵したのだと伝える。学者の父親からこういう言葉が出てくるということは、息子の行動への賛辞にほかならないだろうな。
加えて、親としては子供が傷つくのを避けたいと思うけど、逃げてばかりでは先に心が死ぬ。そうでなくても、年をとれば心はいつかすり減っていく。容姿も衰え、誰も見向きもしなくなる。心と体が同時に満ちたりて、その状態で向き合える人と関係性が持てたのはすばらしいことだとエリオの経験を全肯定する。
この場面では、父親がメガネを初めて外す。すべての演出が父親としての威厳や確かさ、そして頼りがいのようなものを補強していると思う。その中で、自分はもう心がすり減ってきたと告白する誠実さ。対して、17歳エリオの命の輝きが増して感じられたなあ。

オリバーは結局、エリオの眩しさに目がくらみ、若い肢体に溺れただけだろうとあてこすりたくなる。エリオを傷つけてくれちゃって! でもエリオはそれでもオリバーと近づきたかったんだよね。しかたないか。

半年後、雪のクリスマスもこの別荘で過ごす。ユダヤ系なのでハヌカだけど。
そこに鳴る一本の電話はオリバーから。結婚するという。しかも、彼女とはもう二年のつきあいだったらしい。オリバーはエリオの両親から夏の間に温かくもてなしてもらったことに改めて礼を述べ、自分の父親とは同性に好意があるなんてことを言える関係性はないと説明した。
エリオはいとおしそうに「エリオ」と呼びかけ、オリバーも「オリバー」と返す。そして加えて、I remember everything...ここの字幕が「僕は決して忘れない」
オリバー、お前、そこでそれを言うのか! ばか! と怒りに震えたのは私だけではあるまい。

エリオがリビングの暖炉の前を陣取って、焦点を合わせることなく揺れる炎を見つめる。その顔の横に映し出されるクレジット。後ろでは母親と手伝いの人がハヌカのディナーの用意をしている。エリオが目をゆがめたり、眉間をおしたり、あれこれ手を尽くすけど、一筋の涙がこぼれると、声も出さずにさめざめと泣く。
この泣き方が、夏の日の大泣きとは全然違っててね。17-18歳の成長は目を見張るね。そしてエリオに気付いた母親が優しく声をかけるところで暗転。終劇。

ほらアメリカ人への煮え切らない気持ちが湧いてくる。原作ではオリバーの心情が説明されていて、このもやもや感が払拭されるようだけど、流石にそこまで手を伸ばすエネルギーは今はないなあ。

立ち返って、この映画のOPでは、古い写真がテーブルの上にいくつも積み重ねられていくのだけど、その殆どはローマ・ギリシア時代の彫刻で、父親の研究対象かなと思わせるもの。けど合間に、煙草とか時計とか、ちょっと違ったものが混ざってくる。
ひょっとしたら、後年、エリオがこの別荘にやってきて荷物の整理でもしていたかもしれない。そして当時の物がいろいろ出てきて、思い出を振り返った本編だったのかもしれない。 
OP後、本編冒頭で、タイトルカットと同じくハンドライティングで「1983年、北イタリアのどこか」 と表示される。本編を思い返せば、別に「どこか」と曖昧にする必要はなかったと思う。オリバーが帰国する直前の二人の旅行でははっきりと地名の説明がなされるし、見送った後に母親に電話するときにも駅名を述べている。ましてや物語の舞台となった別荘のある町の名だってもう少し細かく説明してもいいのに、してない。もう忘れてしまったのか、それとも思い出したくないのか、あるいは大事な思い出としてそっとしておきたいのか。そんな記憶をエリオが辿り直している、というイメージが浮かんだ。

以上です。

8.5.18

フラグ立てじゃない!

今週のタスクは今日中に終わらせて、明日わたし、映画見に行くんだ…!

昨年12月に、在英の人のレビューを見てからずっと気になってた映画がある。
"Call me by your name". どんぴしゃの恋愛映画。
最初に見かけた記事の中で何が自分に刺さったのかさえ全く思い出せない。ただ、青空を背景に、黄色のハンドライティングでタイトルが書かれたキービジュアルだけが、強く印象に残っている。

 恋愛が中心主題の映画って全然見てこなかったなあ。Love actually以来(しかもビデオだった)かもしれない。あっ、Twilightもあった。

明日は水曜レディースデーでちょっと安い。700円オフって大きいよねえ。
今からがんばるよ、私。