2.9.22

冬の始まり

 イギリスでは8月末のバンクホリデーが終われば次はクリスマスだし、アラスカのデナリ国立公園は草本が紅葉の真っ只中だ。マスクの中で呼吸するだけで喉が焼けそうな気温がやっとゆるんできたように思う。

となると、グラスに氷を山ほどいれてエスプレッソを注ぐ時期はそろそろ終わりになる。代わりに取り出すのは待ち焦がれたお茶だ。今年の正月にもらったルピシアの福箱には、秋冬のためにとっておいた重めの紅茶が残っている。

のだけれど、グラス一杯でむかむかしてくる。さらにはトイレも近くなる。その2つがどう関係しているかははっきりとはわからないが、たぶんカフェイン負けしてるんだろうなと思う。夏場に飲んでいたコーヒーは、マキネッタでいれるエスプレッソではあるけれど、注ぐグラスにこれでもかと氷をいれてさらには水を足している。色付き香り付き水である。夫はたまに私のグラスに口をつけては、うえー、と舌を出す。おいしくないなら飲まなきゃいいのに。でもおそらく、そのころはそういうコミュニケーション方法が彼の中で流行っていたのだろう。最近はあまり手を出さなくなった。

職場には煮出したグリーンルイボスティーを持っていく。カフェインは含まれていない。毎日飲んでいただけ、なんらかの変化が体内に起きているのだろう。

仕事は休暇に入った。しがない雇用調整弁のひとりなので、職場が新学期を迎えるまでは待機である。


7.7.22

11年

11年前の今日は結婚式をした日でした。

今朝、夫にそう言ったら、「11年かあ」と感慨深く一呼吸したのち、「つぎは年齢算だなあ」と続けおった。完全に算数脳である。こいつはやばいのではないか。私は〈中年の危機〉を感じました。今日の日記。

台風はおもったよりも雨を降らせなかったので残念。今日の気温は低いが湿度が高すぎる。これじゃ上昇気流が起きにくく、渇水の可能性はまだまだ残る。雑巾みたいに大気を絞れたらなあ。

9.6.22

同じことをしてるはずでもすべては相手次第

 添削仕事をいまも続けている。さすがに6年目ともなると慣れもあって、どんな誤解や知識の抜けからこの誤答に至ったかは、いまやだいたいひととおり見ればわかる。担当科目は英語だ。

おなじ言語学習なのに、子の国語の答案を見るのにこんなに苦労するとは思ってなかった。

いやまあ、ぶっちゃけ、国語のほうが難しい。英語は日本の高校英語だから。難易度は大きく見積もっても、英語を母語とする7,8歳くらいの子どもの操る程度の語彙語法ではと思う。なんの根拠もないが。

うすうす気づいてはいる。これは添削の技術だけじゃない。自分の子相手だと答案に感情が湧いてきちゃう。それがノイズになる。そんなとこにリソースは割きたくないんだが? 

しかもこのあと対面で伝えなきゃなんないからな。モチベーションを下げないように、知識も不足なく伝わるように。そんなことを考えだすと本当に荷が重い。

8.5.22

GW

 

休みが終わった。前半は法事で帰省、後半は寝るか刀ミュ無料配信を見るか+積んでいた本をやっと読んだくらい。

働きだしてから、土日は寝て過ごすことが増えた。子どもたちが大きくなり外出することが増え、私ひとりの時間がせっかくできたというのに、静かな環境で本を開くとすぐに眠くなる。自覚できない疲労があるのだと思う。身体的なものだけではない、精神的な、あるいはひっくるめて脳にかかる負荷が大きいのかもしれない。

法事は父の三十三回忌と祖母の二十三回忌だった。本当なら昨年に行われるものだったが、折しも新型コロナの新規感染者が春先から急増していた時期だった(それはオミクロン株の国内流入によって劇的な増加につながり、夏がすぎるまで緊張した日々を送ることになった)。母は家族だけで法事を執り行うつもりで、妹と私が呼ばれた(父に連なる人は、祖父も祖母も叔母たちもいなくなった。もう私達しかいないのだ)。けれどもワクチン接種もいつになるかわからない2021年前半では、72歳の母のいる実家へ東京から戻るという選択肢はなく、菩提寺の勧めもあり一年見送ることになった。そして今年、法事は無事に終え、菩提寺の建て替えも済んだタイミングだったこともあって、きれいになったお寺を見物した。結果として諸々、よかったと思う。

去年、私は42歳になった。父が逝去した年齢だった。去年はまた、長子が10歳を迎える年だった。私が父を亡くしたのも10歳だった。ただの偶然でしかないのだけれど、この偶然にそこはかとない不安を覚えたこともあった。ここ数年、遠のいていた喪失感がふたたび湧き上がってくることもあった。過去何度か書いているが、父は決していい父親、いい大人だったわけではない。正直に言うと、今生きていたらこの34年間、もっと苦労していただろうと思う。

ただ、ある日突然、一緒に暮らしていた人がいなくなるということ、父親という存在が消えてしまうということは当時の私には大きな衝撃だった。家族の中で人が死ぬということを私は初めて経験した。

土曜日の3時間目、もうすぐ帰りの会を経て下校になる時間帯。教室の机の脚についた埃を取っていて、お腹が空く時間でもあり、教室中がざわついていた。突然、教室の木戸ががらがらと開いて、ふだんあまり見かけない先生が担任を呼んだ。数人の子どもがなんだろうねと顔を見合わせるけれど、大人たちの動向に注意をはらい、なにかに気づくにはまだ幼かった。無関係だと思っていた私はその場で名前を呼ばれ、すぐに荷物をまとめるようにと言われた。

下校時刻にはまだ早い、だれも通らない校門付近で、教頭か、教務主任か、普段あまり顔を合わせない先生と一緒にいるのは居心地が悪かった。所在がなくて、あたりを見上げたりした。曇り空の薄灰色と校舎の白い外壁が同じくらいくすんでいた。ほどなく車が入ってきて私の前に止まった。開いた後部座席のドアに先生が私を誘導した。迎えに来たのは親戚だった。もともと私とはあまり会話をしない方の叔母とその夫にあたる人だったので、車の中はいつもどおり静かだった。私はただ一言だけ尋ねた。どうしたの。叔父は運転中だから当然のことながら振り返らずに答えた。帰ってお母さんに聞いて。

家についてただいまと靴を脱ぐ。普段と家の臭いが違う。もう一人の叔母とその夫の叔父が見たことのないスーツ姿の人と書類を広げている。線香の煙が漂っている。あちこち窓が開いていて、家の中に光が差し込み、やけに明るかった。スポットライトのような日を浴びた母が私のそばに来ると、「お父さんね、死んじゃったの」と言い、顔を真赤にした。たぶん、それから二人で泣いたんだと思う。そのあとどんな言葉をかわしたか、何も覚えていない。葬儀が終わって翌月曜日、母は仕事を休み、私も登校はしなかった。当時はバブル経済の只中で、両親も休日出勤や残業などが珍しくなく、忙しく働いていた。だから家に祖父母と私と妹だけというのは日常茶飯事だった。朝の居間にいつもだったらいないはずの母がいる、それなのに部屋はとてもがらんとしていると思った。

それから私は小学校を卒業するまで、口癖のように「むなしい」と言っていたらしい。たしかに言っていた記憶はある。でも、その言葉の意味をきちんとわかっていたとは思わない。ただ口に出していないといられなかったのかもしれないし、何度も聞いた般若心経の「空」を私なりに飲み込もうとしていたのかもしれない。

父を思って泣くことはそれほどなかった。それほど恋しいわけでもなかった。なのに泣いていいのかもわからなかった。あまり考えたことはない。ただ、ときどき泣きたくなった。数週間に1回、数ヶ月に1回、一年に数度、数年に一度。頻度は減るけれどもまったくなくなるこということはなかった。そのうちに幼い頃に私を育ててくれた祖父や祖母、父の妹たちも他界し、悲しみとの折り合いの付け方もなんとなくわかってきた。とくにかわいがってくれた祖父からは多くのものを受け取った。それらはずっと私の中できれいに残っているし、これからも大事にしていきたいと思う。なのに、いつまでたってもなんらかのきっかけで父に向けた涙が湧き上がってくる。数年に一度であっても、いつまでも同じ鮮度で蘇るのだ。なんらかのわだかまりがあって、形にすらならないからどうにも手を出せない。これはもう、私が死ぬまでこのままなのかもしれない。それもしかたないのかな、と諦めに似た気持ちもある。きっとどこかで果たすべきことがなされなかった。そのまま私は42歳を迎え、父の年を越えてしまった。

10歳なんてまだまだちいさな子どもだった。自分の子を見ていてもつくづく感じる。こんな思いはさせたくないな、とだけは強く思う。


とまあ、そんなことを考えていたら疲れてしまって、連休後半は倒れていた。お陰でよく眠れ…いい睡眠だった気はしないが、よく横にはなれたので良かったのでは? 

5日には10年来の友人家族と数年ぶりに集まってピクニックをした。5月の新緑を透かす光を浴びて、そよ風を浴びながら、他愛のない話ができる友人たちがいることの幸せを噛みしめた。

明日からまた仕事だ。がんばろう。あと、来月締切の公募小説に応募したい。一万字だから大した量ではないんだけど、帰省から戻ってきてから案を練ろうと字を書き出したら人が生きるとか死ぬという話になってしまって、こりゃまだ駄目だ、と思った次第。まあ、だから寝て過ごしたんですが…ひどい言い訳!

6.4.22

雨の日の東京の歩き方

その日は朝から嵐であった。

近年,四季がスムーズに移行しなくなっている気がする。気団の勢力が変わるごとに,境目が大荒れになっている。気温差が大きくなっているのかなと思う。地下鉄を降りて地下通路を進み,最寄りの出口を上がって歩道に出たとたんに,上着の襟元にしまわなかったスカーフが舞い上がって顔にへばりついた。

思い浮かべるのは,地軸の傾きが0になった地球の気候帯についてだ。太陽から年中同じ角度で光と熱を受けるので,最も太陽に近くなる赤道付近は灼熱,極はほぼ夜と雪と氷の世界となる。そこから帯模様に大気が渦巻き,境目は温度差のある大気が混ざりあって大荒れとなるという予想図を見たことがある。

傘をすぼめて風上に向け,速足で進む革靴の若者や,顔面を覆うしめった髪の毛を振り払いながら傘を支える女性など,難儀した人たちの一人として私も出勤した。

雨の日に傘をもって外に出るということはほぼなかった。だからふるまい方がわからない。特にここ半年は,徒歩10分強のスーパーマーケットに車で行くことを覚えてしまった。地下駐車場から地下駐車場へ。エレベーターのドアtoドアである。折り畳み傘しか持っていなくとも,この二年間,何も困らなかった。

満員電車の中では,ただでさえ全身が周囲の人にほぼ触れている状態なのに,濡れた傘をどう持っていればいいのかすら判断が難しい。私の通勤経路は都内有数のおしくらまんじゅう路線である。どうにもならないので,その日ばかりは一本電車を見送りホームの先まで歩いて,二分後の後続列車を待った。真ん中あたりの車両では三方べったり人に接触するところだが,さすが端っこの車両,自分の周りに数センチほどの隙間を確保できて,私は自分と扉の間に細く巻いた長傘を無事に納めることができたのである。