15.4.18

1000年前と変わらないものだなあ

更級日記を読み始めた。まだ冒頭だけど、とにかく本を読みたい菅原孝標女にめっちゃ共感する。

十七段の「早く帰って部屋に閉じこもりたい。念願の源氏物語を、寝っ転がって(ここ大事)、一巻から順番に読むんだ…! 最高でしょ?!」とこの時代に文字で表現してるのすごい。
后の位も何にかはせむ。入内するより今こうして読みふけっている方がずっと素晴らしいんだって、とんでもない感覚だ。

さらに「昼も夜もなく読みまくってるから、自然に暗唱しちゃうのすごくない?」とか「今のアタシはお世辞にも器量良しとは言えないけど、年頃になればきっと(儚くて美しかった)夕顔や(薫が入れ込んだ)浮舟の君みたいになれるに違いない」とか、若い娘のふわふわした感想が続く。

このあと、大人になって筆者がやるせない日々を送ると文庫裏表紙のあらすじでネタバレされている。だからこその、こんな少女時代なのかもしれない。

13.4.18

三種の神器

アンバーエール、チップス、モルトビネガーは至高。

大人だけで夜遊びだなんて、最高だね!

ついでだから、まあ聞いてよ

最近、テレビドラマを見るようになった。というのも、ちょっとついった再開しようかなと思って、いろいろ見てくうちに割と好きな感じのツイートをしている人たちがこぞって趣味としてのドラマ実況をしていて、その影響で見た前期の法医学ドラマ「アンナチュラル」がめちゃめちゃツボにはまり、すごく面白かったのよ。

でももともと継続する力がない私、すでに大河ドラマの「西郷どん」は脱落。もちろんNHKの朝ドラは見てない。有働さんイノッチ柳澤さんが卒業となったあさイチですら、最後20分となったところで気づいて急いで録画ボタンを押す感じ。テレビをそもそも見る習慣がないよ。なのですぐ忘れる。

今、昔の朝ドラの再放送をしてる。朝は「マッサン」、夕方は「カーネーション」。後者はとくに、最後まで見ればものすごいお釣りがあると既視聴者たちがこぞって褒め称えてるから、録画はしてる。でも見れない。見てない。溜まってく。見たいんだよ! でも見る心の余裕がない。

子供のついでに見てる「仮面ライダービルド」だって、ここ二回見られてない。話が一気に動いたし、監督が私の好きな人なので見たいんだけど、なかなか手が伸びない。

今期は検察官ドラマの「正義のセ」、海堂尊の「ブラックペアン」があるので気にはなってるのだけど、原作があるとなると、本読めばいいじゃん、と思ってしまう。

映像って、まどろっこしくて見られなかったな。人が朗読するのだって聞いてられない。小学生のころ、国語の時間に他の児童が当てられて本を読んでる時、聞くのに集中できなくてページをめくって勝手に読んでた。そんなのが原初体験みたいになっちゃって、先入観から抜けられなかったんだけど、映画やドラマが前よりは見られるようになってきた。というのも最近、本を読んでて理解スピードが落ちてきたからだ。暴走列車のような脳みそがちょっと力尽きてきたんだろうな、と思ってる。つまり耳から入る情報の処理サーキットが弱かったのに加えて、他の能力も落ちてきたってこと。

物語に没入すると、目は文字を追っていながら、脳内にはその映像がぶわっと広がっていて、登場人物たちがリアルに動いているんだよね。本を読む、というより、頭の中に再構成された映像を見て理解している、という感じ。そういうのは物語とか、物語性の強いエッセイでしか起きないんだけど、とにかくそうやって私はずっと本を読んできた。それこそ物心がついたときから。
だから法学部の学生になっていわゆる基本書を読み始めてから、眼の前で文字通りスパークした感覚に何度もなって、内容が入ってこなかった。現代文の授業で読んできた論説文とも違う、完全に内容を伝えるためだけの文章を読むのはあの時が初めてだったのかもしれない。映像に置きかわり得ない、文字そのもので内容を理解するということね。論説文は現文の国語の授業で扱う題材だし、文章そのものの芸術性みたいなものも見え隠れしていたと思うんだよね。そっちのほうが、それまで読んできた一般的な「本」に近かったと思う。


ところで読解力と言えば、ミスチルの歌に「ニシエヒガシエ」ってのがあるんだけど、歌詞の冒頭で

(前略)すっぽんぽんにしちゃえばおなじもんがついてんだ
めんどくさくなって送るのもよして
一人きり情熱を振りかざすバッティングセンター

のとこは、脱がせたら同性(この場合は男性同士)だってことが分かって、部屋からおざなりに追い出して、白けたぜ、って感じで本当にバッティングセンターに行ったと思ってた。歌舞伎町の北の端にあるあのバッティングセンターね。だから舞台は新宿。
この歌が出たときからだから、大学生くらいからかな。

という話を、こないだ、同じくミスチル好きの夫にしたら
「読解力がなさすぎる」
と一刀両断されてしまった。いや、だってさ、女子大生にはその隠語はわからんよ。多分日本国内に300人位は同じ想像した人がいるよ、きっと。

さーくら、さいたら、一年生

長男が小学校に入学した。入学式の日は晴天に恵まれ、私達と同じように正門へ向かう親子連れの後ろ姿が春の白い陽光の中で眩しかった。

教室に子を送り届けてからは、親は帰る間際に教室で担任の先生の挨拶を受けるまで、完全に傍観者となった。子どもの独り立ちのはじまりだと思った。

入学式は在校生は六年生だけが参加していた。さすがに一年生の倍の年齢だけあって、体格も何もかもほぼ大人なんじゃないかと錯誤してしまいそうになる。全然そんなことないはずなんだけど。
六年生は各教室で新入生に席に案内したり、帽子などの配布をしたり、名札を胸元につけたりしてくれた。また、親に対して確認したいことがあるときに、礼儀正しく「本日はおめでとうございます。お尋ねしたいのですが……」と声をかけてくれる。あとから聞いたところによると、空いた時間では読み聞かせやクイズなどで世話をしてくれたらしい。もちろん、今日この日のために周到な準備をしてきただろうけれども、あらかじめなされた指示をきちんと守り、大人に働きかけて目的を果たせるものだと感心した。入学式の中でも、児童だけで歌と寸劇で小学校の一日を紹介する場面があったが、先生は完全にノータッチだった。ちょっと感動しちゃったなあ。

そしてPTAの選考。係をくじで引いてしまった…。非常にシステマチックに現役員さんが仕切って、あっというまに決まった。別の担当で立候補しようか迷ったんだよね。ただ今年は次男の幼稚園で役員をするので、やるのはやぶさかではないけどできれば来年でとも考えていた。ああ、こんなことなら手を挙げときゃよかった。担当内容は平たく言えばヒューマンリソース。こんなの社会人としても経験ないし、そもそも私は顔と名前を覚えるのはちょっと弱い。全然向いてない。逃げたい。

帰宅後、山程持ち帰った書類を端から記入しながら、今後の不安が頭の中を重量を持って広がっていくのがわかった。適当に見切りをつけて、這々の体で書類を片付けてから(放置しないのが偉いなあ、私。自画自賛)もうムリ、と倒れ込んだ。久しぶりに脳がはちきれそうだった。イベント後の疲れがあったからなおさらだわ。

先週の旅行のことを振り返ったり、今読んでる本をまとめたり、懸案事項をもう少し考えたりしたかったんだけど、しばらくは難しいな。次は幼稚園の新年度イベントだ。
来週後半にはちょっとは楽になるはず。がんばれ、わたし。来週末には誕生日だからそこまでは…! ってもノープランだけど。

そういえば、入学式のその寸劇の中で「ドッキドキドン一年生」を歌ってたんだけど、今でも歌ってんだなーとびっくりした。私が幼稚園児の時にテレビの「ひらけ!ポンキッキ」で流れてた。まだ歌えるぞ。今年の春で(後継の)番組はついに終わっちゃったんだよね。ガチャピンとムックもおつかれさまでした。IPとしていろんな商品にまだ出てくる気もする。


31.3.18

写真楽しい

何年かぶりに写真を撮ろうと思って撮った。今ではiPhoneできれいに写るので、手軽だしいいかと思ってた。けど、やっぱやり始めると物足りなくなる。

iPhoneのカメラにはポートレイトモードというのがある。手前に焦点を合わせ、被写界深度を浅くして、遠景をぼかすのを自動でやってくれる機能だ。しかし、発動するために焦点は2.5m程度に持ってこないといけない。したがって、手前をぼかして後ろにピントを合わせるということができない。

当然だけど、普通のカメラなら任意の場所にピントを合わせられる。
 左の写真の構図で試してみたかった。

 
 舞鶴公園内にいろいろなインスタレーションを設置した青空美術展のようなイベントが催されていた。とりわけ草間彌生の南瓜には多くの人が足を留めていた。水玉模様が目立つかなと想像していたけど、さまざまな桜の色味の中で、わりとひっそりとしていたように思う。

オオシマザクラなどの白っぽい山桜の系統に目を奪われる。若葉の緑が添えられると、背景の青空に白い花弁がいっそう映える。

ソメイヨシノも遠目には白っぽいけども。
春入桜花満山白(「芳野懐古」梁川星巌)
ってくらいだし。
でもそこは違うんだな。

 



おもちゃの廃材による作品。考えてみればこういうアイディアは見たことなかった。