2.9.22

冬の始まり

 イギリスでは8月末のバンクホリデーが終われば次はクリスマスだし、アラスカのデナリ国立公園は草本が紅葉の真っ只中だ。マスクの中で呼吸するだけで喉が焼けそうな気温がやっとゆるんできたように思う。

となると、グラスに氷を山ほどいれてエスプレッソを注ぐ時期はそろそろ終わりになる。代わりに取り出すのは待ち焦がれたお茶だ。今年の正月にもらったルピシアの福箱には、秋冬のためにとっておいた重めの紅茶が残っている。

のだけれど、グラス一杯でむかむかしてくる。さらにはトイレも近くなる。その2つがどう関係しているかははっきりとはわからないが、たぶんカフェイン負けしてるんだろうなと思う。夏場に飲んでいたコーヒーは、マキネッタでいれるエスプレッソではあるけれど、注ぐグラスにこれでもかと氷をいれてさらには水を足している。色付き香り付き水である。夫はたまに私のグラスに口をつけては、うえー、と舌を出す。おいしくないなら飲まなきゃいいのに。でもおそらく、そのころはそういうコミュニケーション方法が彼の中で流行っていたのだろう。最近はあまり手を出さなくなった。

職場には煮出したグリーンルイボスティーを持っていく。カフェインは含まれていない。毎日飲んでいただけ、なんらかの変化が体内に起きているのだろう。

仕事は休暇に入った。しがない雇用調整弁のひとりなので、職場が新学期を迎えるまでは待機である。


7.7.22

11年

11年前の今日は結婚式をした日でした。

今朝、夫にそう言ったら、「11年かあ」と感慨深く一呼吸したのち、「つぎは年齢算だなあ」と続けおった。完全に算数脳である。こいつはやばいのではないか。私は〈中年の危機〉を感じました。今日の日記。

台風はおもったよりも雨を降らせなかったので残念。今日の気温は低いが湿度が高すぎる。これじゃ上昇気流が起きにくく、渇水の可能性はまだまだ残る。雑巾みたいに大気を絞れたらなあ。

9.6.22

同じことをしてるはずでもすべては相手次第

 添削仕事をいまも続けている。さすがに6年目ともなると慣れもあって、どんな誤解や知識の抜けからこの誤答に至ったかは、いまやだいたいひととおり見ればわかる。担当科目は英語だ。

おなじ言語学習なのに、子の国語の答案を見るのにこんなに苦労するとは思ってなかった。

いやまあ、ぶっちゃけ、国語のほうが難しい。英語は日本の高校英語だから。難易度は大きく見積もっても、英語を母語とする7,8歳くらいの子どもの操る程度の語彙語法ではと思う。なんの根拠もないが。

うすうす気づいてはいる。これは添削の技術だけじゃない。自分の子相手だと答案に感情が湧いてきちゃう。それがノイズになる。そんなとこにリソースは割きたくないんだが? 

しかもこのあと対面で伝えなきゃなんないからな。モチベーションを下げないように、知識も不足なく伝わるように。そんなことを考えだすと本当に荷が重い。

8.5.22

GW

 

休みが終わった。前半は法事で帰省、後半は寝るか刀ミュ無料配信を見るか+積んでいた本をやっと読んだくらい。

働きだしてから、土日は寝て過ごすことが増えた。子どもたちが大きくなり外出することが増え、私ひとりの時間がせっかくできたというのに、静かな環境で本を開くとすぐに眠くなる。自覚できない疲労があるのだと思う。身体的なものだけではない、精神的な、あるいはひっくるめて脳にかかる負荷が大きいのかもしれない。

法事は父の三十三回忌と祖母の二十三回忌だった。本当なら昨年に行われるものだったが、折しも新型コロナの新規感染者が春先から急増していた時期だった(それはオミクロン株の国内流入によって劇的な増加につながり、夏がすぎるまで緊張した日々を送ることになった)。母は家族だけで法事を執り行うつもりで、妹と私が呼ばれた(父に連なる人は、祖父も祖母も叔母たちもいなくなった。もう私達しかいないのだ)。けれどもワクチン接種もいつになるかわからない2021年前半では、72歳の母のいる実家へ東京から戻るという選択肢はなく、菩提寺の勧めもあり一年見送ることになった。そして今年、法事は無事に終え、菩提寺の建て替えも済んだタイミングだったこともあって、きれいになったお寺を見物した。結果として諸々、よかったと思う。

去年、私は42歳になった。父が逝去した年齢だった。去年はまた、長子が10歳を迎える年だった。私が父を亡くしたのも10歳だった。ただの偶然でしかないのだけれど、この偶然にそこはかとない不安を覚えたこともあった。ここ数年、遠のいていた喪失感がふたたび湧き上がってくることもあった。過去何度か書いているが、父は決していい父親、いい大人だったわけではない。正直に言うと、今生きていたらこの34年間、もっと苦労していただろうと思う。

ただ、ある日突然、一緒に暮らしていた人がいなくなるということ、父親という存在が消えてしまうということは当時の私には大きな衝撃だった。家族の中で人が死ぬということを私は初めて経験した。

土曜日の3時間目、もうすぐ帰りの会を経て下校になる時間帯。教室の机の脚についた埃を取っていて、お腹が空く時間でもあり、教室中がざわついていた。突然、教室の木戸ががらがらと開いて、ふだんあまり見かけない先生が担任を呼んだ。数人の子どもがなんだろうねと顔を見合わせるけれど、大人たちの動向に注意をはらい、なにかに気づくにはまだ幼かった。無関係だと思っていた私はその場で名前を呼ばれ、すぐに荷物をまとめるようにと言われた。

下校時刻にはまだ早い、だれも通らない校門付近で、教頭か、教務主任か、普段あまり顔を合わせない先生と一緒にいるのは居心地が悪かった。所在がなくて、あたりを見上げたりした。曇り空の薄灰色と校舎の白い外壁が同じくらいくすんでいた。ほどなく車が入ってきて私の前に止まった。開いた後部座席のドアに先生が私を誘導した。迎えに来たのは親戚だった。もともと私とはあまり会話をしない方の叔母とその夫にあたる人だったので、車の中はいつもどおり静かだった。私はただ一言だけ尋ねた。どうしたの。叔父は運転中だから当然のことながら振り返らずに答えた。帰ってお母さんに聞いて。

家についてただいまと靴を脱ぐ。普段と家の臭いが違う。もう一人の叔母とその夫の叔父が見たことのないスーツ姿の人と書類を広げている。線香の煙が漂っている。あちこち窓が開いていて、家の中に光が差し込み、やけに明るかった。スポットライトのような日を浴びた母が私のそばに来ると、「お父さんね、死んじゃったの」と言い、顔を真赤にした。たぶん、それから二人で泣いたんだと思う。そのあとどんな言葉をかわしたか、何も覚えていない。葬儀が終わって翌月曜日、母は仕事を休み、私も登校はしなかった。当時はバブル経済の只中で、両親も休日出勤や残業などが珍しくなく、忙しく働いていた。だから家に祖父母と私と妹だけというのは日常茶飯事だった。朝の居間にいつもだったらいないはずの母がいる、それなのに部屋はとてもがらんとしていると思った。

それから私は小学校を卒業するまで、口癖のように「むなしい」と言っていたらしい。たしかに言っていた記憶はある。でも、その言葉の意味をきちんとわかっていたとは思わない。ただ口に出していないといられなかったのかもしれないし、何度も聞いた般若心経の「空」を私なりに飲み込もうとしていたのかもしれない。

父を思って泣くことはそれほどなかった。それほど恋しいわけでもなかった。なのに泣いていいのかもわからなかった。あまり考えたことはない。ただ、ときどき泣きたくなった。数週間に1回、数ヶ月に1回、一年に数度、数年に一度。頻度は減るけれどもまったくなくなるこということはなかった。そのうちに幼い頃に私を育ててくれた祖父や祖母、父の妹たちも他界し、悲しみとの折り合いの付け方もなんとなくわかってきた。とくにかわいがってくれた祖父からは多くのものを受け取った。それらはずっと私の中できれいに残っているし、これからも大事にしていきたいと思う。なのに、いつまでたってもなんらかのきっかけで父に向けた涙が湧き上がってくる。数年に一度であっても、いつまでも同じ鮮度で蘇るのだ。なんらかのわだかまりがあって、形にすらならないからどうにも手を出せない。これはもう、私が死ぬまでこのままなのかもしれない。それもしかたないのかな、と諦めに似た気持ちもある。きっとどこかで果たすべきことがなされなかった。そのまま私は42歳を迎え、父の年を越えてしまった。

10歳なんてまだまだちいさな子どもだった。自分の子を見ていてもつくづく感じる。こんな思いはさせたくないな、とだけは強く思う。


とまあ、そんなことを考えていたら疲れてしまって、連休後半は倒れていた。お陰でよく眠れ…いい睡眠だった気はしないが、よく横にはなれたので良かったのでは? 

5日には10年来の友人家族と数年ぶりに集まってピクニックをした。5月の新緑を透かす光を浴びて、そよ風を浴びながら、他愛のない話ができる友人たちがいることの幸せを噛みしめた。

明日からまた仕事だ。がんばろう。あと、来月締切の公募小説に応募したい。一万字だから大した量ではないんだけど、帰省から戻ってきてから案を練ろうと字を書き出したら人が生きるとか死ぬという話になってしまって、こりゃまだ駄目だ、と思った次第。まあ、だから寝て過ごしたんですが…ひどい言い訳!

6.4.22

雨の日の東京の歩き方

その日は朝から嵐であった。

近年,四季がスムーズに移行しなくなっている気がする。気団の勢力が変わるごとに,境目が大荒れになっている。気温差が大きくなっているのかなと思う。地下鉄を降りて地下通路を進み,最寄りの出口を上がって歩道に出たとたんに,上着の襟元にしまわなかったスカーフが舞い上がって顔にへばりついた。

思い浮かべるのは,地軸の傾きが0になった地球の気候帯についてだ。太陽から年中同じ角度で光と熱を受けるので,最も太陽に近くなる赤道付近は灼熱,極はほぼ夜と雪と氷の世界となる。そこから帯模様に大気が渦巻き,境目は温度差のある大気が混ざりあって大荒れとなるという予想図を見たことがある。

傘をすぼめて風上に向け,速足で進む革靴の若者や,顔面を覆うしめった髪の毛を振り払いながら傘を支える女性など,難儀した人たちの一人として私も出勤した。

雨の日に傘をもって外に出るということはほぼなかった。だからふるまい方がわからない。特にここ半年は,徒歩10分強のスーパーマーケットに車で行くことを覚えてしまった。地下駐車場から地下駐車場へ。エレベーターのドアtoドアである。折り畳み傘しか持っていなくとも,この二年間,何も困らなかった。

満員電車の中では,ただでさえ全身が周囲の人にほぼ触れている状態なのに,濡れた傘をどう持っていればいいのかすら判断が難しい。私の通勤経路は都内有数のおしくらまんじゅう路線である。どうにもならないので,その日ばかりは一本電車を見送りホームの先まで歩いて,二分後の後続列車を待った。真ん中あたりの車両では三方べったり人に接触するところだが,さすが端っこの車両,自分の周りに数センチほどの隙間を確保できて,私は自分と扉の間に細く巻いた長傘を無事に納めることができたのである。

29.3.22

働いてる

 いろいろあってすでに初出勤をした。今は時期的にシーズン直前なので非常に余裕がある。余裕がある方がいい。私はワーキングメモリが小さくてパニックになるので…。牛後よりも鶏口の方がのびのびできていい。まあ多くの人がそうだと思う。


そうこうしているうちに,添削バイトの方も年に一度の評価シーズンがきた。もう6年ほどになるのかな。二度目の優秀賞をもらった~やったー! 一か月分くらいの金一封が出る。どうもどうも。

まあね,もらってもおかしくないレベルで細かく丁寧にやってるよ。

何年目からか,解答を眺めてるとどの知識が足りなくて,どんな誤解をしてこの誤答にたどりついているのかがぱっとわかるようになった。それからは一気に作業時間が短縮できるようになったなあ。

それほど多くの仕事は受けてない(そもそもそんなに課してこないというのもあるが)から,負担もますます少なく,時給1000円程度を保てているのではないかと思う。それは言い過ぎだな。800円くらいだ。なお一番手間がかかるのはお手紙のお返事。

21.3.22

ファファモ

 6ヶ月が過ぎたので、新コロワクチンの3回目接種に行った。交差接種がよかろうということで、地域で受けた2回目までとは異なるスパイクバックス(モデルナ)。予約は取りやすく、前日でも地区内の全会場が選べる状況だった。

それにしても、半年もたつと副反応がどうだったかなんて忘れてしまうね。余裕だと思っていたんだけど、18日10時に接種、19日は発熱と腕の痛みでよく眠れず(でも微熱)、20日はただひたすら体がだるく寝たきり状態。接種15時間後から45時間は人間としてまったくつかいものにならなかった。21日の朝になってやっと普通に起き上がった。あのだるさはたまらなかったな…。

イスラエルでは4回目接種が始まったが、オミクロンに目立って有効な結果は残念ながら出ていないらしい。mRNAワクチンはウイルスの変異に対して改修が容易と聞くが、ファイザー社やモデルナ社は今頃開発を進めているのだろうか。

小児も早いとこ手配せねば。春休みのうちに一度は打ちたいもの。

16.3.22

長い長い夏休みが終わる

また外で働くことになった。念願かなって司書としての図書館勤務である。うれしい。新年度からがらがらと生活が変わりそうだ。

いまのうちに春休みを堪能しておこうと思う。今日は友人とサントリー美術館の「よみがえる正倉院宝物」展へ。正倉院宝物の複製展示であるが,複製をつくることで技術の保存と継承を行うことが主眼であったようだ。象嵌,螺鈿,金銀平脱,織物などの伝統工芸のほか,コロタイプ印刷による各文書の保存や顔料のX線解析など,現代の技術の使われ方にも説明がふんだんにあった。
六本木ミッドタウンのあたりは高層ビルやタワーマンションの登場頻度が控えめで,また電線が地中化されており,空が広かった。テラスでは,時折ひやりとする空気にふれて冬の終わりであることを思い出しながらも,おおむねうららかな陽光を背中に受けながら,冷たいライスヌードルを食した。
どうして私は冷たい麺を選んでしまうのか。先月の小田原箱根旅行でも,丸くスライスされたすだちが,花が咲いたかのようにどんぶり一面に並べられた写真に惹かれて,そのすだちそうめんを注文した。とても冷たかった。出汁はおいしかったけど,2月末に冷たいそうめんは…ちょっと…。

9.3.22

2022年にもなってあほかと

履歴書を二枚書き損じた。叫びたくなる。

どうしていまだに履歴書を手書きで書かせるんだろ。本当に馬鹿らしい。職務経歴書は手書きじゃないじゃん! こういうのが日本の成長を阻むんだよ。滅びろ。

→終わった。はー。もう今日は何もできない。一日1タスクでせいいっぱい。無理。

『赤と白とロイヤルブルー』の続きを読もうっと。

この本,ロマンスのところは訳者にやる気が感じられなくて(読むほうも読む熱意がないからな…),だるくなりつつあったんだけど,差別や階級問題に話が触れ始めたら急に文体が生き生きしだした。わらっちゃう。

6.3.22

一コマ進む

 とりあえずひとつは面接に進んだ…! よかった。全くの門前払いにならないかもしれないと思えただけで救われる。まあこれで終わりかもしれんが…

腑抜けているのでとりあえず本を読んでいる。


・アンディ・ウィアー『火星の人』

映画にもなった小説だ。火星への有人ミッションの中で事故に遭い、たったひとり置いていかれた人が知恵を絞って生き延びる話。NASAだけでなく中国まで、この一人の人命を救うために一丸となるなかで、悪人が一人も出てこない良心しかない世界。夢のようだわ…。

作者のデビュー作らしく、そう言われれば話の底の深さはあまり感じない。ただ、丁寧に科学的論理展開を並べるだけでも十分にエンタテイメントになるんだなと思う。小説、つまりは虚構なわけだから、繰り返し出てくる試算(ほぼ算数)は登場人物のフェルミ推定を聞いているようなものだ。これを根気強くプロットした作者の努力がすごいと思った。


國分功一郎, 千葉雅也『言語が消滅する前に 』

國分功一郎の『中動態の世界』を積んでから、はや数年がたってしまった。この本の出版時や、そのほか節目節目に行われてきた二人の対談をいくつかまとめた本。

現代では言葉ではなく情動を直接伝えることが優先されていること、シニフィアンだけが走りがちなSNSではファナティックに作用するが、言葉によって感情から一歩抜け出ることができるはず、という言葉への期待と確信、政治と言葉における修辞の重要性など、なるほどなと思うことが多い本だった。

対談本は語りがそのまま文章に表れているので、kindle音声読み上げでも十分に聞き取れる。でも自己を「じおのれ」と読み上げるのはほんとやめてほしい。iPhoneは頼むから読み上げデータを収集してiOSのどこかに入れてほしい。


・ケイシー・マクストン『赤と白とロイヤルブルー』

米国大統領の息子と英国王子のロマンスもの。まだ半分までいってないけど、二人の立場からロマンスが真に成就するか否かと、初の女性大統領となった主人公の母親が再選するまでのストーリーになるのかな、という感じ。すでに二人の思いは通じたものの、英国王子の立場ではゲイと自認していることすら秘めなくてはならない、ということになっている。性的な表現はそこそこある。思ったよりあった。(もうちょっと少なくてもいいのにと思ってしまうが、ロマンスというジャンルの小説は官能場面もウリだ。これがなきゃなー。ぶつぶつ)

でも次男王子だからな~。しかもこの物語の冒頭は、長男王子の結婚セレモニーから始まる。それに王位についているのはクイーンで、その配偶者は英国の俳優(物語開始時点ですでに死去)。しきたりや跡継ぎ的な話はキャラクターがとらわれているほど阻害事由にはならないと思うんだよね。

4.3.22

フィニッシュかジエンドか

 7月から7か月にわたる司書講習が終わった。本来三か月で行われてきたこの課程が週一回の講義配信になった分だけ楽になったはずだったけれど,コンスタントに区切りのある環境に慣れておらず,立ち止まりどころがわからずにずっと足を動かしてきた気がする。続けてウェブの就職エントリーにいくつか申し込んだ。数日以内に返答がなければ不可らしい。望みは薄いがとりあえず動いている。入力項目では,離職期間,年齢,学歴,子どもの有無などを明らかにしなければならなかった。社会のありように照らすと不利な情報が多すぎる。そしてそれを不利だと思い,自分を低める目線がさらに自分を削る。

2008年に退職してから,人に混ざって働くという状況から14年も離れてしまったのか。その間,国外でほぼ遊び暮らしてみたり,日本のあちこちを物見しながら子どもを育てたりしてきた。生活の心配がいらない環境で生きてこられたことについては感謝しかないし,家族をえられたこと自体が僥倖だったとも思う。

けれども,働いて金を稼ぐ,生産ができることに人間の価値があると思いやすいこの社会で,家の中で過ごすだけの日々は容易に自尊心を削る。もちろんこれまでに動き出す機会はあったはずで,それを選ばなかったのは自分自身だ。

話は変わるけれど,ここ4年ほど創作の趣味をしていた。自分をつかまえる作品があって,登場人物の悲劇性が作品内で解決されないことが悲しかった。だから自分で続きを考えた。私は幼いころからお話や空想が好きだった。夜,寝床に入ってから,暗い天井の板の目に視線を這わせながら,小さな額の中には一大叙事詩の映像が何日も何日も渦巻いた。けれどもそれを文字に起こして,物語にしたことはなかった。小説なんて書いたこともなかった。

頭の中で何度も反芻するのは没頭して気持ちがよい反面,苦しくもなる。吐いた息をもう一度吸い込むマスク越しの呼吸のようだった。でもこういうとき,文字に起こすことで幾分か息を吐きだしてしまえることを,こういったブログ類を書いてきた経験から私は知っていた。小説とも呼べない形式の,ささやかな文章を書いた。タイプして画面に書き出しているとき,私は文字通り夢中になっていた。そして出来したものをウェブサービスにアップした。

現在では,アマチュアが創作作品を登録するサービスが多くあり,そこでは作品を好きで,自分でサイドストーリーを生み出すほどに情熱を持った作者と,同じだけ当該作品を好きな読者が感想を介して交流がするのが一般的になっている。そのうちのひとつを選んだ。もちろん最初はリアクションなんてほぼない。それが何か月かして,それまでの私からしたら急にスポットライトが当たったかのように注目された。見も知らぬ人,それもある程度のボリュームから承認を受ける快感を私は知った。社会から隔絶された私が,不特定多数の社会の人との接点を再び得たと思った瞬間だった。働いていた時の同僚や同僚とも呼べない同じフロアの労働者たちに感じたのと同じように,遠くて近くて,やっぱり遠い,ただおなじ場にいるというだけの人間の集団に属したときの安心感があった。

ただ,承認に対する喜びと,ものを書きだす動機づけは残念ながら重ならなかった。承認はほしいがそれに応えられる質を保つのは難しかった。私は人が望む作品は力不足で書けなかったし,私がそのとき抱えられなくなったごく個人的な感想しか文字に起こすことはできなかった。

書き物のベースとなる作品はほぼ完結していて,新しい展開があるわけではない。だからその作品のある要素のことを好きならば,書き物のテーマはおおよそ固定され,早い段階で飽きると私は思っていた。それが4年も続いてしまった。テーマはその時々で大きく変遷がある。はたされなかった喪の儀式,失ったキャリアと再出発,異性愛規範とクイアロマンス,アイデンティティへの不信。元作品を敷衍していくとどこかで出会うはずのトピックだった。けれども現状では,こういうことを書くものは少数派となる。ちなみに,メインストリームは恋愛であり,性愛だ。

私はその作品が好きなのだと思っていた。でもそれは好きといいきれるものではなかった。好悪に分類するには雑すぎる。過去に自分がうれしかったこと,傷ついてきたこと,どうしようもなかったけれどどうにかしたかったこと,自分の中で消化しきれてなくて腹の中にずっとわだかまっているのに,とっくに流れていってしまったと思い込んできたことを次々と引っ張り出されていた。各テーマの中でキャラクターをハッピーエンドにいざないながら,私はキャラクターのどこかに自分を仮託していて,結果として凝り固まった自分自身を解くことになった。このことに気づいて,ああ,これ以上,今の形で二次創作は続けられないなと思った。既存のキャラクターに負わせることではないと思ったのだ。

今日,この活動に関して集めた資料などを一部整理して,処分した。尚早だったとあとで後悔する可能性があっても,視界に置いておきたくなかった。違和感がありながらこれまで飲み込んできたものを,自分を解体していく中で,これ以上飲み込んだままにしておけなくなってしまった。

迷っているときに大きな決断はしてはいけない。特に,望みの薄い状態で留保されているような強ストレス下ではなおさらだ。でも,捨てるという行為をしておかなくてはいけないと思った。それでも私の身体にはまだなおからみつくものがあって,引きちぎりながらこんなふうに文字に置き換えている。

今日はやけに眼鏡の弦が側頭部に食い込む気がする。痛い。

24.2.22

よく休んだ

追われる期限がない休みが終わってしまった。昨日は家の人が出払っているあいだ,好き放題できたはずが,本を開いても数分後に眠くなってしまった。うとうとして一日過ごした。

今朝,講習のポータルを開けたら講師から全体向けメッセージがあった。本日の課題1解説講義を見て,本日締め切りの課題2の再提出を希望する場合は対応します。その可能性,あるよね…。まいったな。今日もまた行かねばいかんのか? NDLは11時までに入らないと。今日の予定はみんな飛ぶかも。

課題が難しいのはまあ別にいい。自分の提出済み答案に足りないところが見つかるのも,悲しいが構わない。そういうものだと思う。だってまだ学習中だし。
私がつらいのは,これをそのときまでにしなくてはならないという切迫感だ。やらなきゃと追い立ててくるストレス。内臓がぎゅっとしぼられているような,あの息苦しさ。逃げ出したくて眠くなる。頭が熱を帯び,視界がぼんやりとしてくる。耳の上のあたりがじわじわと重くなる。

などと書き出すと症状が重くなる気がするので,はやいとこ映像を見て再調査が必要かどうか検討しよう。

→講義は受けた。まあ…再提出しなくても大丈夫かな…。

課題内容はレファレンス対応の練習。想定質問は「おはぎとぼた餅は名前が違うが中身は同じに見える。どう違うのか。お彼岸に供える慣習の由来は」だった。かいつまんで回答すると「両者は同じものだが,名称については諸説あり。春は牡丹で秋は萩の花,ぼた餅は家でつくられる素朴な菓子でくず米を意味する”ぼだ”からきているなど。いずれも定説はなく,またこれ以外の異名も複数ある。餅は白や手触りなどから神聖なものとして古来より扱われ,小豆にもまた厄払いの民間信仰があった。赤い色や小豆自体の薬効(小豆サポニンによる代謝促進)が理由かと思われる。餅とは従来のもち米の餅だけでなく,うるち米を使った粘度のある塊を広く意味するようになった。ぼた餅は家でつくれるので,彼岸に限らず年中行事に重宝された。現在でも彼岸のみならず,年中食べられている。なお,小豆が菓子に使われるようになるのは砂糖が国内に入ってきた安土桃山時代以降である」となる。これを具体的な文献を示しながらもうちょっと詳しく説明するので,文字数はもっと増える。

こういうあまり重くない調査ものってどれくらい時間をかけられるんだろう。あんまり待たせられないと思うんだよね。半日くらいかなあ。
こういうのって結局,顧客対応のひとつだからね。顧客満足には,情報提供の質と量だけでなく,対応の外形も絡んでくるから。かかった時間や接遇なんかも全部,顧客の印象に影響する。

私がかつてしていた主な仕事はヘルプデスクで,顧客からの架電問い合わせ対応が中心だった。
回答までの時間は質問内容によるけれど,単発なら3分,簡単な確認が必要なら折り返しありで10分~30分,調査依頼が伴うと半日,出張するなら数日と幅広かった。そのうち,9割9分は当日に返せた。
図書館のレファレンスサービスでは,今回の課題でも,実務でも記録を残す。それと同じように,ヘルプデスク対応も記録を残していたので,とても懐かしい。手触りはよく似ている。

私の身近な図書館レファレンス体験で,一番大きいものはコーネル大学図書館に夫が尋ねた「裁判官のガベル(裁判官が叩いて注意を引き付けるハンマーのこと)について知りたい」だったと思う。回答としては,米国では現在ガベルは使われていないとのことで,フィクションの中にしかないらしい。伝聞なので詳しくは知らないが,確か回答まで数日かかっていたはず。
にしても,Supreme Courtのお土産屋にはガベルペンとかミニチュアガベルとか,いろいろ売られていたぞ。昔は使っていたのかもしれないね。自分で調べてないのでよくしらんけど。

22.2.22

二年ぶりの旅行、のことを書こうと思っていたのにお酒の思い出話をしています

 偶然が重なって、大人も子どもも月曜日が休みとなったので、日・月と二年ぶりに一泊旅行をしてきた。

 私は本当だったら大学に毎日赴いて演習をするタームに入っていたはずが、折からオンデマンド講義に振り替えられてしまった。その分図書館にこもってレポートを量産しなくてはならなくなり、提出期限と図書館の休館日との兼ね合いから、土曜日中にどうにか提出する必要があった。
 土曜日は国立国会図書館の開館時間5分前に行列の最後尾に並び、閉館15分前に最後のWordファイルを自PCからアップロードした。正月に5年ぶりに機種変更したばかりのiPhoneは、通信プランが刷新されていてテザリングもし放題になっていた。この課題はここで調べてここでまとめ、提出することが最初から決まっていたかのように、すべてが整えられていた。

 帰り道に気が大きくなって永田町駅のエチカのカフェに寄った。喫茶メニューと同じくらい、アルコールがメニュー表の面積を占めていた。最高値はヴーヴ・グリコ(ボトル)9000円である。壁にも高級ボトルの写真がプリントされて、その近くにはパテカン、生ハム、鴨のロースト、サーモンのカルパッチョが堂々と並んでいる。なるほど、需要があるんだろうな、と思った。
 霞が関から永田町の一帯は飲食店があまりないようだ。永田町寄りの方に勤めていた向きから聞いた話では、数人で突発的に催される飲み会といえば、たいがいは近所のフランチャイズインドカレー屋になってしまったらしい。
 もう5年以上前のことだけれども。永田町エチカのオープンは2013年。なんだ、時代的にはすでにあったぞ。とはいえ、インドカレーで食べ放題プランを選ぶ人たちとは、需給のミスマッチが起こりそうだ。
 とにかく、そこで私はさらに気が大きくなり、生ビールと黒生のハーフアンドハーフを選んでしまったのだった。小ジョッキ440円。コーヒーと価格が変わらないのよね。見た目も近いし。おいしゅうございました。

 で、仕事帰りに飲むビールの味を思い出した。
 働いていたころには、先輩たちとよく一杯やってから帰ったな。大手町のおでん屋台、プロント、スタンド形式のイル・プロントが多かった。おでん屋台はときどき駐禁を取られていた。歩道で開店していた記憶があるけど、そのときは道路にはみ出していたのだろうか。 当時私が勤めていたビルも、いまではまるっきり建て替えられたと聞いているが、あれから訪れてはいない。

 旅行のことを記録しておこうと思ったけれど、違う話になってしまった。まあいいや。

 ポーラ美術館のロニ・ホーン展はとてもよかった。ロニ・ホーンはコラージュ作品が多く、ドローイング、ハンドライティング、写真、パフォーマンス、工芸など、さまざまな作出を縦横無尽に形に落とし込む作家なのだなあと私はとらえ、とてもいいなと思ったのだ。

 私のしているこのプライバシー垂れ流しブログも芸術も、いつか出会うおなじ地平にあるものだと思っている。現実を写し取り、切り貼りし、別の形をつくろうと汗水垂らしている。その意図がうまくいっているかどうかは別だし、プロセスに技術の巧拙もあるだろうが、人間の立っている場所はそう変わらないのではないか、などと考える。

 それと、子どもが一緒の家族旅行でも、私の希望する美術展を行程に組み込めるまでになったのだなあ、と来し方を振り返って感じ入るものがある。別途、彼らのお楽しみのために小田原城観光もした。小田原北条家のことは、ゆうきまさみの漫画「新九郎、奔る!」でちょうど予習していたのがかなり理解の助けになった。

18.2.22

カフェラテにアルコールを追加する

 友人がインスタにコーヒーの写真をアップしていた。年明けの冷え込んだ日だった。赤と緑のタータンチェックのクロスの上に、クリーム色のコーヒーカップに浮かぶコーヒーブラウン。その隣には、セリフ体のラベルに威厳がありそうなウイスキーのボトル。黄金色が満ちたはちみつのジャー。それらをうまいことミックスして飲むらしい。
 友人の感想は直接書かれていなかったが、その風景を掲載しようとして、実際にしていること、それ自体が答えだ。 

  高田馬場の雑踏からすこし外れたところに、フランスのカフェによく似た店があった。メニューには当時やっと耳慣れてきたカフェラテやカプチーノなどという文言が並んでいた。その頃は、駅前に怒涛の勢いで出店を始めたシアトル系カフェ、それを装った日本の喫茶チェーンの新業態の注文カウンターで、田舎から出てきた大学生が戸惑う風景がよく見られた。それよりもずっと前から、この店にはそういうものがあった。
 この店は酒も出すし、イベントもする。演劇やギャラリーのフライヤーが棚や壁にあふれていた。むしろ、あのころ大学生だった私よりも二回りほど上の世代には、カフェと言えばそういうものだったのかもしれない。そういえば、学生の仲間内ではビールと言えば中ジョッキだったけれど、ハートランドの緑色の小瓶の清楚な佇まいを知ったのもこの店だった。 

  私が一番好きだったのはアマレットカフェラテだった。ゆるく泡立ったミルクと程よく混ざったエスプレッソ、その底に層をなす甘みの強いリキュール。ガラス製の本体にステンレスの細いハンドルの付いたカップが、同じステンレスのソーサーにのって供された。マグでも紙コップでもない。実家でつかっていた陶器のカップアンドソーサーでもない。それだけで私は、なにか特別な場所にいるような気分になった。

 イギリスに留学したのはその後のことだ。コースメイトの友人の家に遊びに行っては、食事を作ってもらって、お酒を飲んで夜通しおしゃべりして、コーヒーにアイリッシュクリームを垂らしてもらった。深夜のマグカップに浮かぶ湯気。
 よくお邪魔したあの寮のあった一角は総取替となり、昨年末にはぴかぴかの学生寮がインスタグラムの大学アカウントによって何度となく紹介されていた。 

  さっきの帰り道、近所のコーヒー屋で豆を買うついでにラムラテを頼んだ。ミルクで苦味や酸味が和らいだコーヒーの薫香と、拮抗する甘み。それを下支えるアルコールの厚み。日差しはちりちりとさえ頬を刺すのに、タンブラーを握る裸の指先を滑る風にはまだ冬の凍てつきがある。いろいろな風景を思い出すのはそんな日だからかもしれない。