29.3.22

働いてる

 いろいろあってすでに初出勤をした。今は時期的にシーズン直前なので非常に余裕がある。余裕がある方がいい。私はワーキングメモリが小さくてパニックになるので…。牛後よりも鶏口の方がのびのびできていい。まあ多くの人がそうだと思う。


そうこうしているうちに,添削バイトの方も年に一度の評価シーズンがきた。もう6年ほどになるのかな。二度目の優秀賞をもらった~やったー! 一か月分くらいの金一封が出る。どうもどうも。

まあね,もらってもおかしくないレベルで細かく丁寧にやってるよ。

何年目からか,解答を眺めてるとどの知識が足りなくて,どんな誤解をしてこの誤答にたどりついているのかがぱっとわかるようになった。それからは一気に作業時間が短縮できるようになったなあ。

それほど多くの仕事は受けてない(そもそもそんなに課してこないというのもあるが)から,負担もますます少なく,時給1000円程度を保てているのではないかと思う。それは言い過ぎだな。800円くらいだ。なお一番手間がかかるのはお手紙のお返事。

21.3.22

ファファモ

 6ヶ月が過ぎたので、新コロワクチンの3回目接種に行った。交差接種がよかろうということで、地域で受けた2回目までとは異なるスパイクバックス(モデルナ)。予約は取りやすく、前日でも地区内の全会場が選べる状況だった。

それにしても、半年もたつと副反応がどうだったかなんて忘れてしまうね。余裕だと思っていたんだけど、18日10時に接種、19日は発熱と腕の痛みでよく眠れず(でも微熱)、20日はただひたすら体がだるく寝たきり状態。接種15時間後から45時間は人間としてまったくつかいものにならなかった。21日の朝になってやっと普通に起き上がった。あのだるさはたまらなかったな…。

イスラエルでは4回目接種が始まったが、オミクロンに目立って有効な結果は残念ながら出ていないらしい。mRNAワクチンはウイルスの変異に対して改修が容易と聞くが、ファイザー社やモデルナ社は今頃開発を進めているのだろうか。

小児も早いとこ手配せねば。春休みのうちに一度は打ちたいもの。

16.3.22

長い長い夏休みが終わる

また外で働くことになった。念願かなって司書としての図書館勤務である。うれしい。新年度からがらがらと生活が変わりそうだ。

いまのうちに春休みを堪能しておこうと思う。今日は友人とサントリー美術館の「よみがえる正倉院宝物」展へ。正倉院宝物の複製展示であるが,複製をつくることで技術の保存と継承を行うことが主眼であったようだ。象嵌,螺鈿,金銀平脱,織物などの伝統工芸のほか,コロタイプ印刷による各文書の保存や顔料のX線解析など,現代の技術の使われ方にも説明がふんだんにあった。
六本木ミッドタウンのあたりは高層ビルやタワーマンションの登場頻度が控えめで,また電線が地中化されており,空が広かった。テラスでは,時折ひやりとする空気にふれて冬の終わりであることを思い出しながらも,おおむねうららかな陽光を背中に受けながら,冷たいライスヌードルを食した。
どうして私は冷たい麺を選んでしまうのか。先月の小田原箱根旅行でも,丸くスライスされたすだちが,花が咲いたかのようにどんぶり一面に並べられた写真に惹かれて,そのすだちそうめんを注文した。とても冷たかった。出汁はおいしかったけど,2月末に冷たいそうめんは…ちょっと…。

9.3.22

2022年にもなってあほかと

履歴書を二枚書き損じた。叫びたくなる。

どうしていまだに履歴書を手書きで書かせるんだろ。本当に馬鹿らしい。職務経歴書は手書きじゃないじゃん! こういうのが日本の成長を阻むんだよ。滅びろ。

→終わった。はー。もう今日は何もできない。一日1タスクでせいいっぱい。無理。

『赤と白とロイヤルブルー』の続きを読もうっと。

この本,ロマンスのところは訳者にやる気が感じられなくて(読むほうも読む熱意がないからな…),だるくなりつつあったんだけど,差別や階級問題に話が触れ始めたら急に文体が生き生きしだした。わらっちゃう。

6.3.22

一コマ進む

 とりあえずひとつは面接に進んだ…! よかった。全くの門前払いにならないかもしれないと思えただけで救われる。まあこれで終わりかもしれんが…

腑抜けているのでとりあえず本を読んでいる。


・アンディ・ウィアー『火星の人』

映画にもなった小説だ。火星への有人ミッションの中で事故に遭い、たったひとり置いていかれた人が知恵を絞って生き延びる話。NASAだけでなく中国まで、この一人の人命を救うために一丸となるなかで、悪人が一人も出てこない良心しかない世界。夢のようだわ…。

作者のデビュー作らしく、そう言われれば話の底の深さはあまり感じない。ただ、丁寧に科学的論理展開を並べるだけでも十分にエンタテイメントになるんだなと思う。小説、つまりは虚構なわけだから、繰り返し出てくる試算(ほぼ算数)は登場人物のフェルミ推定を聞いているようなものだ。これを根気強くプロットした作者の努力がすごいと思った。


國分功一郎, 千葉雅也『言語が消滅する前に 』

國分功一郎の『中動態の世界』を積んでから、はや数年がたってしまった。この本の出版時や、そのほか節目節目に行われてきた二人の対談をいくつかまとめた本。

現代では言葉ではなく情動を直接伝えることが優先されていること、シニフィアンだけが走りがちなSNSではファナティックに作用するが、言葉によって感情から一歩抜け出ることができるはず、という言葉への期待と確信、政治と言葉における修辞の重要性など、なるほどなと思うことが多い本だった。

対談本は語りがそのまま文章に表れているので、kindle音声読み上げでも十分に聞き取れる。でも自己を「じおのれ」と読み上げるのはほんとやめてほしい。iPhoneは頼むから読み上げデータを収集してiOSのどこかに入れてほしい。


・ケイシー・マクストン『赤と白とロイヤルブルー』

米国大統領の息子と英国王子のロマンスもの。まだ半分までいってないけど、二人の立場からロマンスが真に成就するか否かと、初の女性大統領となった主人公の母親が再選するまでのストーリーになるのかな、という感じ。すでに二人の思いは通じたものの、英国王子の立場ではゲイと自認していることすら秘めなくてはならない、ということになっている。性的な表現はそこそこある。思ったよりあった。(もうちょっと少なくてもいいのにと思ってしまうが、ロマンスというジャンルの小説は官能場面もウリだ。これがなきゃなー。ぶつぶつ)

でも次男王子だからな~。しかもこの物語の冒頭は、長男王子の結婚セレモニーから始まる。それに王位についているのはクイーンで、その配偶者は英国の俳優(物語開始時点ですでに死去)。しきたりや跡継ぎ的な話はキャラクターがとらわれているほど阻害事由にはならないと思うんだよね。

4.3.22

フィニッシュかジエンドか

 7月から7か月にわたる司書講習が終わった。本来三か月で行われてきたこの課程が週一回の講義配信になった分だけ楽になったはずだったけれど,コンスタントに区切りのある環境に慣れておらず,立ち止まりどころがわからずにずっと足を動かしてきた気がする。続けてウェブの就職エントリーにいくつか申し込んだ。数日以内に返答がなければ不可らしい。望みは薄いがとりあえず動いている。入力項目では,離職期間,年齢,学歴,子どもの有無などを明らかにしなければならなかった。社会のありように照らすと不利な情報が多すぎる。そしてそれを不利だと思い,自分を低める目線がさらに自分を削る。

2008年に退職してから,人に混ざって働くという状況から14年も離れてしまったのか。その間,国外でほぼ遊び暮らしてみたり,日本のあちこちを物見しながら子どもを育てたりしてきた。生活の心配がいらない環境で生きてこられたことについては感謝しかないし,家族をえられたこと自体が僥倖だったとも思う。

けれども,働いて金を稼ぐ,生産ができることに人間の価値があると思いやすいこの社会で,家の中で過ごすだけの日々は容易に自尊心を削る。もちろんこれまでに動き出す機会はあったはずで,それを選ばなかったのは自分自身だ。

話は変わるけれど,ここ4年ほど創作の趣味をしていた。自分をつかまえる作品があって,登場人物の悲劇性が作品内で解決されないことが悲しかった。だから自分で続きを考えた。私は幼いころからお話や空想が好きだった。夜,寝床に入ってから,暗い天井の板の目に視線を這わせながら,小さな額の中には一大叙事詩の映像が何日も何日も渦巻いた。けれどもそれを文字に起こして,物語にしたことはなかった。小説なんて書いたこともなかった。

頭の中で何度も反芻するのは没頭して気持ちがよい反面,苦しくもなる。吐いた息をもう一度吸い込むマスク越しの呼吸のようだった。でもこういうとき,文字に起こすことで幾分か息を吐きだしてしまえることを,こういったブログ類を書いてきた経験から私は知っていた。小説とも呼べない形式の,ささやかな文章を書いた。タイプして画面に書き出しているとき,私は文字通り夢中になっていた。そして出来したものをウェブサービスにアップした。

現在では,アマチュアが創作作品を登録するサービスが多くあり,そこでは作品を好きで,自分でサイドストーリーを生み出すほどに情熱を持った作者と,同じだけ当該作品を好きな読者が感想を介して交流がするのが一般的になっている。そのうちのひとつを選んだ。もちろん最初はリアクションなんてほぼない。それが何か月かして,それまでの私からしたら急にスポットライトが当たったかのように注目された。見も知らぬ人,それもある程度のボリュームから承認を受ける快感を私は知った。社会から隔絶された私が,不特定多数の社会の人との接点を再び得たと思った瞬間だった。働いていた時の同僚や同僚とも呼べない同じフロアの労働者たちに感じたのと同じように,遠くて近くて,やっぱり遠い,ただおなじ場にいるというだけの人間の集団に属したときの安心感があった。

ただ,承認に対する喜びと,ものを書きだす動機づけは残念ながら重ならなかった。承認はほしいがそれに応えられる質を保つのは難しかった。私は人が望む作品は力不足で書けなかったし,私がそのとき抱えられなくなったごく個人的な感想しか文字に起こすことはできなかった。

書き物のベースとなる作品はほぼ完結していて,新しい展開があるわけではない。だからその作品のある要素のことを好きならば,書き物のテーマはおおよそ固定され,早い段階で飽きると私は思っていた。それが4年も続いてしまった。テーマはその時々で大きく変遷がある。はたされなかった喪の儀式,失ったキャリアと再出発,異性愛規範とクイアロマンス,アイデンティティへの不信。元作品を敷衍していくとどこかで出会うはずのトピックだった。けれども現状では,こういうことを書くものは少数派となる。ちなみに,メインストリームは恋愛であり,性愛だ。

私はその作品が好きなのだと思っていた。でもそれは好きといいきれるものではなかった。好悪に分類するには雑すぎる。過去に自分がうれしかったこと,傷ついてきたこと,どうしようもなかったけれどどうにかしたかったこと,自分の中で消化しきれてなくて腹の中にずっとわだかまっているのに,とっくに流れていってしまったと思い込んできたことを次々と引っ張り出されていた。各テーマの中でキャラクターをハッピーエンドにいざないながら,私はキャラクターのどこかに自分を仮託していて,結果として凝り固まった自分自身を解くことになった。このことに気づいて,ああ,これ以上,今の形で二次創作は続けられないなと思った。既存のキャラクターに負わせることではないと思ったのだ。

今日,この活動に関して集めた資料などを一部整理して,処分した。尚早だったとあとで後悔する可能性があっても,視界に置いておきたくなかった。違和感がありながらこれまで飲み込んできたものを,自分を解体していく中で,これ以上飲み込んだままにしておけなくなってしまった。

迷っているときに大きな決断はしてはいけない。特に,望みの薄い状態で留保されているような強ストレス下ではなおさらだ。でも,捨てるという行為をしておかなくてはいけないと思った。それでも私の身体にはまだなおからみつくものがあって,引きちぎりながらこんなふうに文字に置き換えている。

今日はやけに眼鏡の弦が側頭部に食い込む気がする。痛い。