19.2.19

穴を掘って隠れたい

一年ほど前にちょっとしたお話を書き始めた。それをネット上に公開して,同好の人たちとささやかな交流をしている。

今日は雨の中,太宰府天満宮まで「応天の門」展を見に行った。
これは今連載中の漫画だ。天才菅原道真(18)と在原業平がバディとなったサスペンス物語…と思って読み始めたら,業平周りの大内裏の権力闘争は始まるし,そこに道真は否応なく巻き込まれていくし,すごいぎらぎらとした物語だった。一方で,道真は自分の才が机上の学問でしかないことを折に触れて体験して,少しずつ現実にすり合わせていく知恵をつけていく,という眩しい若者の成長譚も並行して語られる。めっちゃくちゃ面白い。
作画も大変美しい。芸術方面はよくわからないけど,この作者の人はきっと特別な教育を受けている人なんだろうと思わせられる線,そして色彩。うっとりしてしまう。
それが,この展覧会では生原稿が飾られているということで,夢中になって眺めてきた。
プロット,ネーム,ペン入れ原稿,水彩の施されたアナログのカラー原稿。絵の力を感じたなあ。本当に感動した。

私は芸術,ことに絵画を見る目はない。美術館など大人になるまで遠い場所だと思っていた。それから初心者向け芸術鑑賞の本などを読んだりして全くのゼロではない状態になったものの(とは言え,限りなくゼロのままだけど),今度は絵を読もうとしてしまうようになった。
同じ絵であっても,漫画は違う。小さなころから身近にあった。今はストーリーを捉えながら絵を追うこともできるようになったが,基本的には本から与えられた画面,絵をそのままに見ていいなあと素直に感じることが比較的できていると思う。
漫画は一コマのその絵だけで意味を持つことはあるけど,ストーリーや台詞と絵が混然一体となって大きな流れをつくるものだ。なので,絵画と違って自分から本へ向けた圧力を分散することができるのだろうな。

飾られていたカラー原稿の水彩画が本当に美しくて,私もこういうのを表現したいなと思った。絵は描けないので文字で。本音は絵を描いてみたいけど,コピーを作っても仕方がない。自分だけのやり方で,となると文字となる。

さて,帰宅後にネットをつらつら眺めていたら,前にブックマークしておいた小説の読み方指南の記事が更新されていた。テーマは「小説を書かれたとおりに読む方法」,次のリンク先だ。水城正太郎の道楽生活 小説の読み そのに
書かれていないことを勝手に補完しないで,字義通りに読んでいくことを説明されていた。
鼻っぱしを殴られた気分になった。
記事はとある小説の冒頭を例示して具体的に示していた。字義どおりに読んでいくからこそ,作者が仕掛けたトリック,語り手の認識のずれが見える。
そのためにこの物語がリアリティのあるものなのか,それとも寓話的なものなのか,ファンタジーなのか,ということまで見せているのだと思う。記事の筆者はそこまでは言及していなかったけれども。
私はそこまで自覚的に読んではいなかった。わかっていたつもりで全然わかっていなかった。

しかも「字義通りに文章を読む」というのは,私の英語添削バイトの方でわりあいよく伝えていることだ。わかっていないのに偉そうに。でも,その部分はまだいい。

文章で虚構を書く,つまり小説を書く,とは文字という手段でしかできない芸術表現だ。その手法の一つが上記のようなものになるだろう。私が今日の展覧会で見た絵,それを文字で示したい。それだって一つの表現ではある。でも小説ではない。以前,某サイトの添削スレで「思い描いた映像をそのまま文章に落としても小説にはならない」と言われたことがある。当時はこの意味もよくわからなかったのだけど,一年以上たった今になってようやくつながった。
字義通りに読んで、それでもひっかかって、次へと頁をめくらせる。そこに描写や修辞法を駆使していく。そうして全体で伝えたいテーマをストーリーに載せて届ける。そういった読み方に耐えうるものこそ小説だ。
今の時点で、私が思う「小説」とはそういうものだ。

と同時に,最近,自分の書いたものに対して好意的な感触を受けて天狗になっていたことに気付いて,自分がものすごく恥ずかしいと思った。上の定義に照らせば、本当に文の羅列でしかなかった。いや、もともと小説には至っていないと思っていたけれども、これほどまでに乖離があるとは思わなかった。なんという傲慢だったのだろう。

私は今、小説を書きたいと思っている。

それにしてもこの年になってこういう羞恥心を感じるとはつゆにも思わなかった。
しばらく勉強します。どこから手を付ければいいんだろう。小説だってそれほど読んできちゃいないのだ。とりあえず図書館などで手がかりを探してみる。

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