17.5.20

一月半ほどPCに触らぬうちに

 このブログの入力UIなどが大きく変わっていて戸惑っている。ひと目でわかるようになったところもあれば、過去にあった項目が削られて私の好みと外れてしまったところもある。 
 新しいことにはこっちが合わせていくしかない。

 自宅待機生活が続いている。これを機に私のノートPCを新調した。前に持っていたvaioは確か2006年製だったから、14年も温存していることになる。
 普段は共有のデスクトップで事足りていたのだが、夫は家で仕事をするようになったし、子どもたちもタブレットを常用するようになった。要するに、一人一台必要な差し迫った事情が突然やってきたのだ。
 子どもは週に一度、15分の顔合わせのために登校している。そこで受け取る課題一覧の中に、サイトにある音楽を聞いて歌えだの、映像教材を見ろだの、ICT活用の見本みたいな項目が入っている。そのためタブレットを子どもが占有する時間が増えた。
 私はウェブを介して添削バイトをしている。4月中は休みにしていたが、5月以降は夫に場所を譲ってもらう必要が出てきた。いまのところは8時間で終えられる作業量ではある。この8時間は家事どころか自分の食事の時間も勘案していない。純粋に作業だけに充てる時間だ。
 結果、PCとともに仕事を取り上げられた夫は、私の代わりに夕飯を用意し片付け、取り込むだけで畳んでなかった洗濯物を子どもたちと収納し、風呂の用意までしてくれたりする。ありがたい。在宅バンザイ! 

 今の家はキッチンとリビングの境にカウンターがあるので、その一角にPCを置き、スタンドライトも導入して、私だけのワーキングスペースができた。とても嬉しい。

 前の家はさまざまな事情で大変狭く、全員で全部屋を共有するしかない状況だったが、今回は広くなった。兄弟共有とはいえ子どもだけの部屋を確保できたし、夫の仕事の荷物が中心だが寝室兼用にしなくてもよい大人の部屋がある。
 しかし実際、家族全員が常駐するとなると、私の居場所はないのだ。ダイニングテーブルかソファか布団の中である。

 「居るのはつらいよ」という本がある。私のオールタイム・ベスト3に入る本だ。
 この著者である東畑開人さんが先日こんなツイートをしていた。



 自分の役割を誰かに依存していない状態になるには、形式的に整えないといけない部分もあるということだと思う。
 かつて私が市の育児相談に参加していたときは、かならず母子分離されていた。グループも個人面談も同様だった。独りになれる場所が確保されていることが、心の安全を保つのに必要なのだろう。
 依存していないと先に書いたけれども、この安全を保つためには必ず誰かの助けが必要となる。それは言い換えれば依存だ。安心して誰かを頼れるからこそ、私はわたしとして独立できる。
 だからこそ、そういった環境は得難く、ありがたいし、本当に必要な人には整えるのが難しい。

 さまざまな感謝を噛み締め、やっぱ新しいPCはいいよね~と弄り倒しているのであった。新しいガジェットは単純に触ってて楽しいよね。

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