4.6.12

つかれた

ついに梅雨入りした。洗濯好き(特に,日光に当てて乾かすことに喜びを感じるタイプ) にはつらい季節だ。天気予報を見ては,次の晴れ予報を期待しながらも裏切られてため息をつく日々である。コインランドリーは車の距離にしかないし,歩けない子と行くのは難儀だ。梅雨明けするか除湿器を導入するしかない。

そんなわけで,日々のルーチンが回らないと気持ちも鬱々としてくる。その程度のことで気が沈むほど暇だってことか,と自嘲したりして。はああ。

雨降りで外が暗いと子の生活リズムも狂いがちで,しばらくは順調だった寝かしつけも,また号泣して大反抗される。布団におろすと大号泣,そのくせに起こすと眠気がひどくて泣きわめく。ねむけりゃねりゃいいのに。寝かしつけに苦労しないという話は時々聞くが,うらやましいものだ。多ければこういうのが一日三回。運が悪ければ寝起きも号泣。もう朝が来るのが恐いくらいだ。目が覚めている間は,多少の後追いがあるものの一人遊びができて,手がかからないのだが。今だけの問題だと意識を切り替えて状況を俯瞰すれば余裕が出ることもあるが,辛い渦中はどうしようもない。こんなときふと実家に帰りたくなる。遠いから無理だけど。

こんな時は現実逃避に限る。たとえそれが睡眠時間を削って翌朝に疲れを引きずることになろうとも,刹那的になってやる。てなわけで,「幼年期の終わり」読了。原題は"Childhood's End"。TM Networkの2nd アルバムのタイトルじゃないか。やっと元ネタを読んだ。あのアルバムは過渡期を表しているということだったが,それじゃあ本は読んでないんじゃないの? なんて思ったりして。この本では宇宙人と地球人が出会い,どうなっていったかが描かれている。光文社の新訳版だったからか非常に読みやすく,世界観に入り込めないのではというSFものへの危惧は杞憂だった。ともかく,これはおもしろかった。文字として認識すると同時に,頭の中で像が結ばれ,まるで映像を見ているかのように読み進んだ。没頭するとこういう読み方ができるが,久しぶりに体験した。子供の頃はよくこうして読んだものだけど。

最近,参考にしている読書ブログに「この本を未読の人がうらやましい,こんなにおもしろい本をこれから楽しめるなんて」といった趣旨のポストがあり,興味をもっていたのだ。確かに1954年に書かれたにしては現代でも遜色なく読め,名作だと言えるだろう。

先週,60億年後に我々の属する天の川銀河とアンドロメダ銀河が衝突するとのニュースが流れた。宇宙には広さなんて概念ではとらえられないほどの途方もない空間が広がっていて,銀河一つでさえその規模が感覚的に掴めない。太陽系だって各惑星の距離と星の大きさがあると何度も見返してしまう。自分という存在が,そのうちの地球の一点にしかなっていないなんて,宇宙と比較するとなんとちっぽけなんだろう。そして必ず宇宙の大きさに意識が戻り,なんとも気が狂いそうになる。60億年後という時間にも同じ気持ちを抱く。その前には太陽の寿命が尽き,巨大化するのに巻き込まれて地球は滅びるであろうが,もちろんそのときには私はこの世にいない。そもそも人類もその頃にはまた違った生命に進化しているかもしれないし,あるいは滅びているかもしれない。こうなると急に,道しるべも道さえもない,まっさらな空間に取り残されている気分になるなあ。くらくらする。くらくらしているまま今日は寝よう。

2 コメント:

ShokoU said...

うちも寝ぐずりすごいよ。負けないよ。
寝ぐずりに手こずっていると聞いて、とても安心した。
眠いくらいで、よくもあんなに激怒できるもんだと感心する次第でありんす。

fomalhaut said...

眠い感覚がいやなのか~。うちはどっちかというと眠くて辛いけど寝たくない! と感じられる。眠りに落ちる直前,眠気が最高潮までつきあわないといけないのが面倒に思うこともあるよ。お互い大変だね。

もっと言葉が通じるようになれば,アドバイスしてあげられるのにね。まあ,それで眠れるようになるかはまた別の話だけど。強烈に寝付きが悪いかもしれない…私自身のように。